「新しい生活様式」に喫茶店は乗れるのか? [喫茶店・レストラン・カフェ]

私は少し前の過去記事「人間、明日はどうなるか解らない」の中で「美容への全力投球」と「ファッションの満喫」、この二つが出来なくなってまで生きていたいとは思わない と書いたのだが、後日、もう一つ有る事に気がついた。
「喫茶店でくつろぐ事」である。
私は、喫茶店でくつろぐ事が出来なくなってまで、つまり、気軽に行ける街々から喫茶店がなくなってまで 生きていたいとは思わないのである。
(私の言う喫茶店とは、古くから在る個人経営の喫茶店のみを指すのであって、大手チェーン店のコーヒーショップやイマドキのカフェやホテルのティーラウンジは入れられない。)

コロナ騒動が収束した後、我々は「新しい生活様式」を築いてゆかねばならない。
その生活様式の中に、喫茶店は乗る事が出来るのか?乗り続ける事が出来るのか?
非常に不安である。

「たかだか喫茶店くらいでそんな大仰な」とか「他に楽しみを見つければいいじゃない。ぼんぼちさんは、映画も音楽も好きじゃないの」と仰るかたがいるかも知れない。
けれど、私にとって喫茶店というのは、代替のきかない 特別な至福の空間なのである。

20200411_153528.jpg

中学一年から現在までの間、忙しく画家をやっていた九年間以外は、毎日、一店ないしは二店、一人で必ず通っていた場所。
学友に、顔がおすもうさんだのニキビが気持ち悪いだのとからかわれても、家の中で母親に「産みたくもないのに勝手に産まれてきやがって!」と存在を全否定されても、避難出来た場所。
もっとさかのぼると、物心ついた時から小六までは、しょっちゅう親に連れられて行っていた場所。
父と二人で行った時は、父は母の前では見せた事のない笑顔で いつも使い切れないほどの小遣いをくれた 二人の秘密の思ひ出詰まる場所。
母親と弟と三人で行った時は、母はふんぞり返って煙草片手にウエイトレスを怒鳴りつけるのに夢中で 私は殴られなかった唯一の場所。
私にとって喫茶店というのは、私の最も古い記憶から今に至るまでの、つまり、私の人生の貫通した桃源郷なのである。

「そんなの甘ったれよ!世の中には生きたくても生きられない人がたくさんいるんだから!」「私達は生かされているんだから 心臓が動く限り生き続けるべきよ!」と 叱りたい人もいるだろう。
叱っていただいて一向に構わない。
どうせ私は、融通のきかない頑なで偏屈な変わり者だから。
そんな事、自分自身が一番良く解っている。
齢五十七になって、今さら自分を変えられるわけがない。

20200411_153528.jpg

一方、私と同じ様に「○○が出来なくなってまで生きていたくはない」という人も 意外と多いのではないかと察する。
「認知症になってまで生きていたくはない」とか「美味しい物を飲み食い出来なくなってまで生きていたくはない」とか「ジャズが聴けなくなってまで生きていたくはない」というジャズファンとか「電車に乗ったり撮ったり出来なくなってまで生きていたくはない」という鉄道マニアとか、、、。

要するに私達人間は、半分は肉体で出来ているけれど、あとの半分は精神で出来ているわけである。
その精神が生きられなくなってまで 肉体だけで生きていたいとは思わない人は、少なくないのではないか?、、、と推測するのである。

人生、生まれる事に関しては、何一つとして選べない。
だから、了える事については選択肢があったっていいのではないか? と思うのである。
私は「辛い辛い不幸だ不幸だ、こんな生活どん底だ」という中で生命を了えるより「わぁ!今日も幸せな一日だった!」というさなかに 笑って人生の幕を閉じたい。

新しい生活様式が始まり 人々の間に浸透した後も、「美容」と「ファッション」は、自分の努力と工夫次第で続けられそうだ。
けれど喫茶店の存在は、第三者である私個人の尽力だけではどうにもならない。
新しい生活様式浸透後、何軒の喫茶店が遺ってくれるのだろうか、、、???

20200411_153528.jpg

nice!(227)  コメント(56) 
共通テーマ:映画