一徳バンドでゴキゲンなロックに酔いしれた一夜 [感想文]
先日の7月21日、私・ぼんぼち、吉祥寺のマンダラ2に、一徳バンドのライブを聴きに行ったよ!
サリーじゃないよ。 一徳バンドというのは、高円寺の焼き鳥屋さん「一徳」の大将・一徳さんが率いてるバンドなんだ。
焼き鳥屋さん「一徳」の店前は、以前からしばしば通っていて、通る度に、「わぁ!渋くてカッコイイ大将だなぁ」って思ってた。
そして、一徳バンドのライブの旨のポスターが貼られてるのも目にしてて、「どんなジャンルの音楽を演られるんだろう?」って、気になってたんだ。
と、先日のライブの何週間か前ーーー
「一徳」のすぐ近くに在る、行きつけにしている音楽カフェ「ヤミー」で、「一徳さん、またライブ演るそうで、このチラシ置いてゆかれましたよ。 一徳さんはすごいしゃがれ声で、憂歌団をかけたらすごく喜んでくれてましたよ」とスタッフさんから聞き、「しゃがれ声」「憂歌団好き」という二つのワードから、ぼんぼちは「これはもぅ行くしかないっ!」と、迷わず決断したんだ。
ライブスタート! 一徳バンドのメンバーがステージに登場した!
ボーカル&ブルースハープ(一徳さん)、ギター&コーラスが二人、ベース&コーラス、ドラムス&コーラス、サックス、ピアノの七人の大所帯バンド。
音が流れ出すやーーー
「わぁ!案の定、ぼんぼち好みの古めのロック、というか、ブルース寄りのロック!ゴッキゲ〜ン!!」と、みるみるノリノリになったよ!
高円寺という名称や、庶民的な食べ物を歌詞にした曲あり、これは店に来るお客さんを観察して作られた詞かな、ってのあり、ノリにノレるロックンロールあり、聴かせるバラードあり、、、
そのいずれにも唯一無二の個性を感じたし、何より一徳さんのしゃがれ声のボーカルに酔いしれてしまったよ〜!
あと、ぼんぼちの個人的嗜好から書かせていただくと、ピアノの人、好きだなあと思った。 ぐっと強く押し出すひき方で。
ぼんぼちは好きな音楽ジャンルの中にブギウギピアノもあるんだけど、そこに通ずる匂いも感じられて。
一徳さんが歌いながら次々とお客さんを指差して声をあげる、というパフォーマンスをやられる曲もあって、最前列の一番上手側に座ってたぼんぼちにも、二度、指を差して目線を合わせてくださって、最高にドッキドキ!嬉しかったなあ〜!
ぼんぼちは音楽に関してはズブの素人で、これはかなり生意気な発言になってしまうんだけど、一徳バンド、一徳さんの歌唱力も、各楽器も、コーラスのハモリも、ものすごくクオリティが高くて、何の前情報も知らない人に、あのライブを聴かせたら、「どこのプロダクションのミュージシャン?」「マネージャーさんはどこにいるの?」って、完全なプロだと信じて疑わないと思うんだ。 現実には、年に4~6回のライブ活動でCDも出されている、というスタンスなので、セミプロという事になるのだろうけど。
このブログを長く読んでくれてる人は知ってるように、ぼんぼちの父親はぼんぼちが3才までクラシックのバイオリニストだったんだよね。
だけど、クラシックのバイオリニストって食ってゆくのが大変で、ものすごーく家庭は貧しくて、父は意に沿わないテレビの歌番組のバックのオーケストラのバイトをしてしのいでいたんだけど、それでも生活は苦しくて、ぼんぼちが3才になった時、完全に音楽の世界から足を洗って、全然別の仕事を始めたんだ。
だからぼんぼちは、自分自身は音楽業界の人間じゃないけど、音楽一本で家族を養ってゆく事の厳しさ、音楽一本を生業とするなら、意に沿わないジャンルも演らなければならない理不尽さをよく知ってる。
音楽やるなら、一徳バンドのように、他に本業を持っていて、好きなジャンルだけを好きな時に演れるのが、最上級に幸せだよなぁ!って再認識したよ。
だって、一徳さん、ゴキゲンにノリノリで、幸せそうで、「死ぬまでやるっ!」って、言ってたもん!
タグ:一徳バンド 一徳バンドライブ感想
永遠の演劇人・唐十郎氏を偲んで [感想文]
一ト月前に、アングラ演劇に於いて寺山修司氏と双璧だった唐十郎氏が、亡くなった。
すでに、かなりのお歳だったし、近年は、ベテラン劇団員との共同演出をされていたので、この日が来てしまうのは、そう遠い事ではないと、覚悟はしていたものの、やはりショックだった。
私は寺山派だったので、唐さんの芝居は、それほど観てきた方ではないのだけれど、それでも今以って、心の奥深くに突き刺さっている作品は、幾つもある。
最初に唐さんの芝居を観に行ったのは、状況劇場を経た後の唐組となっていた時代。私は三十代半ばだった。
鬼子母神の境内に、前、否、前々、否、前々々時代的な紅いテントが張られ、その前の受付けに、如何にもアングラ!といったメイクと衣裳の役者さんが座っておられ、境内に異世界が出現した如くで、この時点で私の内は、高揚した。
テントをくぐり、桟敷に座るや、芝居がすべり出す。
ここは完全に、日常とはへだてられた一つの世界ーーー唐さんの世界だった。
私は、演劇というものは、観客をつかの間、非日常の世界に、ワシが獲物を掴んで空彼方に飛んでゆく様に連れ運んでくれるものだと考えているので、「これぞ演劇!!」と、陶酔した。
又、起承転結の承の場で、早くも桟敷のあちこちから、「唐!」「唐っ!」「いよっ!唐!!」といった大向うが飛んだ事にも、桟敷も芝居の世界の一つに包まれているのだと、嬉しく驚いた。
唐さんは、ご自身が主演される舞台のみならず、幾多、戯曲も提供されていた。
第七病棟を私の世代で観る事が出来たのは、幸運だった。
確か木場の方の、倉庫を改造・手造りした古い木造りの小屋が、圧巻だった。
あの小屋も、時代を遥かにさかのぼらせてくれて、やはり、「あぁ!演劇だなぁ〜!」と、異世界の一員になり切れた 至福の一夜だった。
唐さんの妹劇団に相当する新宿梁山泊は、ある時期から 過去の唐さんの戯曲を、主宰の金守珍氏が演出をされ、上演を続けている。
金氏の演出は、唐さんのそれとはテムポが違って好対照で、私は梁山泊にも、機会があると足を運んでいる。
「ジャガーの眼」の時は、ちょっとしたご縁があって、関係者席に掛けていたのだが、私の前列の真ん前に唐さんが座っていらして、唐さんの頭越しに観る唐さん戯曲は、「こんな贅沢があっていいものだろうか?!」と、興奮せずにはおれなかった。
又、「新・二都物語」の時は、これもちょっとしたご縁があって、打ち上げに招待されたので、参加させていただいたら、唐さんこそいらっしゃらなかったが、客席にいらしてた李麗仙さんが、昔話・裏話をたくさんしてくださり、興味深く耳を傾けた。
この公演での主演は大鶴義丹さんで、帰り際に義丹さんに、簡単な感想とご挨拶をしたら、お背の高い義丹さんは、小柄な私に合わせて、腰をかがめて視線を私と同じ高さに合わせてくださり、「ありがとうございます云々」と、大変に謙虚で感じのいい方で、感激してしまった。
私が個人的に、唐さんの世界で一番嗜好に合ったのは、佐野史郎さん独り芝居の「マラカス」で、これは、唐さんが作・演出を担われていた。
クライマックスの場で、開けたマラカスの中からとめどなく流れ落ちる砂に、ノスタルジーを覚えずにはおれなかった。
冒頭に記した様に、寺山派の私は、熱烈な唐さんファンではないので、しかつめらしく批評するほどの知識や見解は持ち合わせていないのだが、誤解を恐れずに、あくまで私個人の主観として述べさせていただくとーーー唐さんの世界に通底するテーマというのは、「ノスタルジー」だと感じている。どの作品にもクライマックスには、ノスタルジーが、涸れる事を知らない泉の如くに溢れ出し、観客を飲み込み、観客全員もその一滴とされてしまう。
唐十郎氏、最期の最期まで、日本を代表する演劇人であった。
唐氏が日本の演劇界に及ぼした影響は、並々ならぬものがある。
合掌。
「チェッカーズ1987GO TOUR at中野サンプラザ」全ての点に於いて完璧なライブ映画 [感想文]
3月1日から14日まで、「チェッカーズ1987GO TOUR at中野サンプラザ」というライブ映画が、東宝系で公開されたので、色めき立ち、迷う事なく観に行きました。
というのは、私は、チェッカーズ活動期と同時代に青春期を迎えていたのですが、その時代は、私は、母親を養うために画家をやっており、ファン活動を何一つとして行う事が不可能だったからです。
どのくらい画家の仕事が忙しかったかというとーーー
画商が毎回、膨大な枚数の注文を入れてきて、ほぼ毎日18時間絵筆を持ち、徹夜、、、2日徹夜もザラで、18才から26才までの8年間、1日も休みがありませんでした。
なので、筆洗の水を替えにやトイレに1階に降り、リビングの前を通る時、何秒間か立ち止まって、「フミヤくんっていうんだ、可愛いし歌も上手いな、グループ名はチェッカーズっていうんだ。ファン活動出来ているコ達、羨ましいな、、、」と、再びアトリエに戻り、画業に向かう毎日でした。
レコードを買いに出掛ける時間もある筈はなく、もしも買えたとしても、ステレオのある部屋で3分間過ごすヒマもありませんでした。
ですから、私はチェッカーズの後追いのファンであり、ネット時代になってから、You Tubeで動画を観たり、アルバムを買ったりしていました。
「チェッカーズ1987GO TOUR at中野サンプラザ」は、出来が良かったコンサートにも関わらず、これまでに公表されている映像は3曲分しかないという事で、今年、結成40周年になるチェッカーズを記念して、1コンサート分を丸々一本のライブ映画という形にして公開しよう、という企画だったのだそうです。
始まるやーーー
とにかく、フミヤさんの歌唱力とブルースハープの上手さとダンスのキレの良さに感嘆しました。
アイドル・可愛いフミヤくんから本格的なミュージシャン・フミヤさんへと、ぐーんと力量が伸びたと感じずにはおれませんでした。
もぅ、「完璧!!」と、唸らずにおれませんでした。
演られた曲は、5枚目のアルバム「GO」の発表コンサートという事で、私は1枚目から4枚目までのアルバムは買っていたのですが、「GO」の曲は一曲も知らなかったので、とても新鮮に受け止めました。
中、バリバリロックンロールの楽曲と60Sバラードを模倣した楽曲があり、私はオールディーズ好きなので、その点は特に嬉しかったです。
ーーーなんせ、生まれて初めて音楽的に「いいな!」と思えた海外のミュージシャンはチャックベリーで、今はサムクックのアルバムを集めているくらいですから。
世間的にもよく知られたシングルカットされたヒット曲では、「ギザギザハートの子守唄」「ジュリアに傷心」「俺たちのロカビリーナイト」「Song for USA」「NA NA」「I Love you Sayonara」「WANDERER」などが演られました。
以前、You Tubeで観た、おそらく、これより1年くらい前のコンサートでは、タイガースの「シーサイドバウンド」とスパイダースの「バンバンバン」を楽しいアレンジで演られていたので、このコンサートではどんなカバーを演られるのだろう?!と思っていたら、このコンサートではカバーなし、全曲オリジナルでした。
それでも、期待を遥かに上回る大満足の 素晴らしい完璧な出来のコンサートだ!と感じました。
加えて、曲と曲の切れ目やメンバーがはける時に、「俺たち、ロッカーだぜ!イエ〜イ!」というノリではなく、深々とおじぎをされていた所も、大変好感が持てました。
又、私は、母親が死んだために画家を辞められて自由な時間が出来てからは、映像理論を学んでいたので、コンサートが映像になった場合、キャメラワークについて非常に気になり、その点が実力不足だと、どれほどミュージシャン側が完璧でも、二度と観る気がしなくなるのですが、このライブ映画は、撮影監督がクオリティーの高い仕事をやってくださっていて、寄り引きカット割り等、完璧でした。
妙に凝って、ウッドストックを真似た割り画面や、スローモーションやストップモーションを使っていなかった所も良かったです。
このように、チェッカーズご本人達の力量と撮影隊の力量、どちらも完璧だったおかげで、私は二重に感嘆し、二度も劇場に足を運んでしまいました。
このタイミングでのチェッカーズコンサートのライブ映画、リアルタイムでファン活動をされていた方々はどうお感じになられたか解りませんが、私にとっては、「叶わぬ夢」とあきらめていたファン活動を疑似体験出来て、幸せ感で満ち満ち、「あー!今まで生きてて良かった!!」と、思わぬ大きなプレゼントが転がり込んだ思いでした。
大駱駝艦・舞踏公演「阿修羅」を観て [感想文]
10月28日(土)、座・高円寺にて開催された、舞踏集団・大駱駝艦の「阿修羅」という公演を観に行った。
奈良・興福寺の阿修羅像をテーマとし、神・阿修羅が阿修羅像に至るまでの旅路を表現した作品だった。
舞踏の定義である「土俗的かつ前衛」という条件を守りながらも、古代ギリシャ演劇で使われていた形状のスッポリかぶる仮面を使用し、踊りが進むと、仮面をぬぎ、小道具として持ち踊ったり、白い神が阿修羅像へと変化(へんげ)してゆく様を、脇役の舞踏家さんがたが、手首まで真っ赤な絵の具に浸け染めて登場し、真っ赤な手も鮮やかで斬新な演出効果としつつも、阿修羅役の主役の舞踏家さんを、踊りながらペタペタと全身真っ赤に塗り変えてゆく表現とアイデアには、圧倒され 唸らされた、実に見事に、阿修羅→阿修羅像の歴史を、身体的抽象表現した芸術だと、感動の海に浸った。
大駱駝艦は、唐十郎氏の状況劇場にいた麿赤兒氏が、1972年に創設した、数ある舞踏集団の中でも今以て人気を保ち続けている集団である。
私は舞踏集団の中でもこの大駱駝艦が最も好きで、本公演、アトリエ公演、高円寺大道芸と、幾度もあちこちに足を運んでいる。
そのつど思う事だが、大駱駝艦の人気の理由は、以下のニ点によるものだと、分析している。
先ず一つは、次々と新しいアイデアを持ち込んで来る事。(今回では、仮面や赤い絵の具の使い方)
公演の度に、「わっ!今回は、こんなアイデアで来たか!」と、新鮮に嬉しく驚かされる。
二つ目は、常に世の時代のデムポに合った踊りをしているという事である。
舞踏というと、ゆっくりゆっくり動く、というイメージを抱いている向きも少なくないかも知れないが、大駱駝艦は、勿論、ゆっくりの所もあるが、基本、今の若い人が観ても決して退屈しない早さのテムポで動いているのである。
これも、主宰の麿氏の「一人一派」という、頭ごなしに押し付けない 自由な舞風のたまものだと、感じずにはおれない。
麿氏、その方針の成果として、良き後継ぎを幾多輩出したものである。
「舞踏」というと「何それ?」とポカンとする日本人が、少なからずいる。
むしろ海外、特にフランスで、「Butoh」として知名度が高い様である。
舞踏は、土方巽を始祖とする、日本が生んだ日本の芸術なのだから、個人的にはもっと、日本人の多くに知っていただきたいと願っている。
これからは、学校の芸術鑑賞日などに舞踏を観に行っても良いのではなかろうか?
映画「オオカミの家」ーーー他に類を見ない圧倒的迫力の長編アートアニメーション [感想文]
すごい映画を観た!!
これ程、圧倒され 感動の海に浸ったのは、23年前、チェコのアートアニメーションの巨匠・ヤン・シュヴァンクマイエルの短編集を観て以来である。
その映画作品とはーーー
「オオカミの家」
監督・レオン&コシーニャ
国・チリ
製作年・2018年
手法・ペーパークラフトアニメーション、ドローイングアニメーション、オブジェクトアニメーション
シノプシスはーーー
チリ南部に実在した、ドイツ人移民の、表向きは幸せにあふれる理想郷であるコミューンが、実は、コミューンの長をキリストの次に崇め、長には絶対服従せねばならず、大人は奴隷さながらの強制労働、子供達は隔離され、長に性的虐待を受けていた、という、地獄の如きカルト教団であり、そこから、一人の少女が逃亡する所から話しは始まる。
少女は森の中に一軒の家を見つけ、そこに隠れるが、長が少女を探す声はいつまでもついてまわり、家の中に二匹の豚が出現し、少女は豚を人間に変え、三人で幸せに暮らそうとするも、彼女は、豚を自分の絶対的服従者にしてしまう、つまり、自分がコミューンで受けたのと同じ 負の連鎖を起こしてしまう。
豚達は少女に反逆し、少女を食べようとする。
するうち、家の中の食べ物は底をつき、飢えに苦しみ、少女は、哀しいかな、コミューンの長に助けを求め、コミューンに連れ戻されてしまうーーーというものである。
タイトルの「オオカミの家」のオオカミは、言わずもがなコミューンの長の事であり、森の中の家の少女の生活は、安堵、不安、楽しみ、苦しみ、勝利感、恐怖感が混在した 悪夢の様な、留まる事のない不安定な心理が、延々と続く。
それを、主に少女のモノローグを流し、全編80分近い尺を、前述の三種のアニメーション技法で以って、止まる事なく動かし続けるのである。
この作品で最も前に押し出したいのは、少女の不安定な内的心理であり、これが、以下の技術によって巧みに表現され、観る者を取り込んで離さない。
先ず、ペーパークラフトアニメーション。
この手法で、少女や豚や人間に化身した豚が作られている訳だが、紙が出っ張ったり凹んでいたりと、一見すると、稚拙なペーパークラフトに見える。
しかし、この無骨さが、少女の不安定さを巧みに表わしているのである。
そして、ドローイングアニメーション。
床に直角に立てられた壁に粘度の低い絵の具でドローイングをすると、塗った先からダラダラと絵の具が垂れ流れてくる訳だが、これもあえて拭いはしていない。 何故なら、血の様に垂れ流れた絵の具が、少女の恐怖心を叫びの如く表す結果となっているのだから。
他に、見事だ!と唸った技法は、逆回しを何ヶ所も使っている所である。
しおれた花(実物の)が、みるみる生気を取り戻し、開いたり、描かれたドローイングが消えていったりと、この技法を用いる事によって、少女の行きつ戻りつする心理が、抽象的に表現されている。
逆回しという技法は効果的で、リーフェンシュタールの花火の映像や、最近だと、「EO」というロバが主役の映画の、水の流れにも使われている。
全アートアニメーション技法での長尺の作品は、不可能だと言われ続けてきた。
ヤン・シュヴァンクマイエルであっても、長尺の作品の場合、アニメーションは部分部分にしか使用していなかった。
だが、この二人の監督は、それをやり遂げてしまったのだから、アッパレである。
私も、長尺で全アートアニメーションは、製作時間の制約の理由から無理だと思っていた一人なので、そういう点でも、度肝を抜かれた。
「オオカミの家」は、構想から完成まで5年もかかったという。
監督が一人ではなく二人だったというのも、長尺成功の大きな理由になっていると察する。
現在、日本はセル系アニメーション大国である。
日本人で「アニメーション」と聞くと、セル系アニメーションを思い浮かべる向きが殆どであろう。
けれど、世界には、セル系以外のアニメーション技法も幾多存在し、それらのアニメーション技法によって、この映画の様な表現も可能だという現実を、一人でも多くの人に知っていただきたいものである。
これ程、圧倒され 感動の海に浸ったのは、23年前、チェコのアートアニメーションの巨匠・ヤン・シュヴァンクマイエルの短編集を観て以来である。
その映画作品とはーーー
「オオカミの家」
監督・レオン&コシーニャ
国・チリ
製作年・2018年
手法・ペーパークラフトアニメーション、ドローイングアニメーション、オブジェクトアニメーション
シノプシスはーーー
チリ南部に実在した、ドイツ人移民の、表向きは幸せにあふれる理想郷であるコミューンが、実は、コミューンの長をキリストの次に崇め、長には絶対服従せねばならず、大人は奴隷さながらの強制労働、子供達は隔離され、長に性的虐待を受けていた、という、地獄の如きカルト教団であり、そこから、一人の少女が逃亡する所から話しは始まる。
少女は森の中に一軒の家を見つけ、そこに隠れるが、長が少女を探す声はいつまでもついてまわり、家の中に二匹の豚が出現し、少女は豚を人間に変え、三人で幸せに暮らそうとするも、彼女は、豚を自分の絶対的服従者にしてしまう、つまり、自分がコミューンで受けたのと同じ 負の連鎖を起こしてしまう。
豚達は少女に反逆し、少女を食べようとする。
するうち、家の中の食べ物は底をつき、飢えに苦しみ、少女は、哀しいかな、コミューンの長に助けを求め、コミューンに連れ戻されてしまうーーーというものである。
タイトルの「オオカミの家」のオオカミは、言わずもがなコミューンの長の事であり、森の中の家の少女の生活は、安堵、不安、楽しみ、苦しみ、勝利感、恐怖感が混在した 悪夢の様な、留まる事のない不安定な心理が、延々と続く。
それを、主に少女のモノローグを流し、全編80分近い尺を、前述の三種のアニメーション技法で以って、止まる事なく動かし続けるのである。
この作品で最も前に押し出したいのは、少女の不安定な内的心理であり、これが、以下の技術によって巧みに表現され、観る者を取り込んで離さない。
先ず、ペーパークラフトアニメーション。
この手法で、少女や豚や人間に化身した豚が作られている訳だが、紙が出っ張ったり凹んでいたりと、一見すると、稚拙なペーパークラフトに見える。
しかし、この無骨さが、少女の不安定さを巧みに表わしているのである。
そして、ドローイングアニメーション。
床に直角に立てられた壁に粘度の低い絵の具でドローイングをすると、塗った先からダラダラと絵の具が垂れ流れてくる訳だが、これもあえて拭いはしていない。 何故なら、血の様に垂れ流れた絵の具が、少女の恐怖心を叫びの如く表す結果となっているのだから。
他に、見事だ!と唸った技法は、逆回しを何ヶ所も使っている所である。
しおれた花(実物の)が、みるみる生気を取り戻し、開いたり、描かれたドローイングが消えていったりと、この技法を用いる事によって、少女の行きつ戻りつする心理が、抽象的に表現されている。
逆回しという技法は効果的で、リーフェンシュタールの花火の映像や、最近だと、「EO」というロバが主役の映画の、水の流れにも使われている。
全アートアニメーション技法での長尺の作品は、不可能だと言われ続けてきた。
ヤン・シュヴァンクマイエルであっても、長尺の作品の場合、アニメーションは部分部分にしか使用していなかった。
だが、この二人の監督は、それをやり遂げてしまったのだから、アッパレである。
私も、長尺で全アートアニメーションは、製作時間の制約の理由から無理だと思っていた一人なので、そういう点でも、度肝を抜かれた。
「オオカミの家」は、構想から完成まで5年もかかったという。
監督が一人ではなく二人だったというのも、長尺成功の大きな理由になっていると察する。
現在、日本はセル系アニメーション大国である。
日本人で「アニメーション」と聞くと、セル系アニメーションを思い浮かべる向きが殆どであろう。
けれど、世界には、セル系以外のアニメーション技法も幾多存在し、それらのアニメーション技法によって、この映画の様な表現も可能だという現実を、一人でも多くの人に知っていただきたいものである。
ソールライター展を観に行き [感想文]
米国を代表する写真家・ソールライターの 生誕100年を記念する氏の個展が、渋谷ヒカリエホールAて開かれていたので、出向く。
私は氏については、代表作を2、3枚、ポスターやポストカードでチラと目にしていただけだったので、ほぼ前情報無しという状況で、ギャラリー入りした。
50S~60Sにかけてのニューヨークの街と人、白黒写真とカラー写真、モード雑誌の仕事、サムホールの抽象画、、、
ダントツに私が感銘を受けたのは、カラーの街写真であった。
何も無い雨で濡れた道路に面積を思い切り費やして、主役の自動車を上のほうに、あえて見切れさせている作品、
フィルムならではの、粒子の細か過ぎない、彩度も高過ぎない、柔らかなマチエールの作品、
ウインドウの反射や夜の光を言はむとしている為に、何のモチーフだか判らない、抽象写真とも言って過言ではない作品、、、
私は、ソールライターという写真家が、ここまで突出した個性の アート系写真を幾多遺している人物だとは思いもしなかったので、嬉しく裏切られ、興奮した。
通常、構図を決める時は、主役を、縦横共に、ゴールデンバランスに近い7対3の位置に持ってくるものである。
カラーで彩度の高いモチーフに出逢ったら、その鮮やかさをこれでもか!と、見せつけたくなるものである。
モチーフが何だか判らない作品は、多数派受けしないので、自分の中でなかなかOKが出せないものである。
氏は、これらの基本的法則を裏切りながらも、見事に作品として、成立させているのである。
さすが、巨匠と名を遺し続けるに値する写真家だ!と、深く頷いた。
街撮り写真家の東の巨匠が、森山大道であるならば、西のそれは、ソールライター以外におるまいと、思わない訳にゆかなかった。
そういえば、以前、森山氏は、「いい作品を作りたい情熱は、撮る枚数に比例する」という意味の事を、氏のドキュメンタリー番組で仰っていた。
ソールライターも、押したシャッターの数というのは、相当なものだったと、察する。
街撮り写真というのは、モデルを組んで、完璧な構図を作って、3、2、1、ハイッ!カシャ!とはゆかず、偶然との遭遇なのだから。
近田春夫著「グループサウンズ」で、GSファンも目からウロコ! [感想文]
私はGSが好きで、有名どころの代表曲の他には、特に嗜好に合う スパイダース ゴールデン・カップス タイガース オックスを、少々突っ込んで聴いています。
しかし残念な事に、私は世代的にGSリアルタイム世代ではなく、ネオGS世代なので、GSのコンサートには物理的に行けなかったために、ネオGSの王者・ファントムギフトのライブに甘んじていたので、いくら、前述したGSグループのライブ盤を聴いたところで、音源に収められていない曲は聴く術が無く、又、どのGSグループが先にデビューしたか、や、どの様な理由でGSがこの様な形態の音楽になったのか、など、点々でしか解らなかった事を、この本は、線でつなげてくれ、「何故?」も詳らかに解説してくれているので、目からウロコが何枚も落ち続けました。
さすが、天下の近田春夫さん!と唸った一冊です。
先ず、GSの萌芽。
定説では、ビートルズに憧れ 模倣した若者達が、プロダクションに見い出されてデビューした、とされていますね。
けれど私は、この定説には、大きく疑問を覚えていたのです。
まぁ、GSとひとくくりに言っても、方向性は様々でしたから。
ーーーもし、全てのGSグループをごったに一つの大鍋に入れてグツグツ煮て、そこから匂い立つものって、果たして そんなにビートルズビートルズしているだろうか?ーーーと。
その疑問を、近田さんは、ズバリと解明してくれます。
GSの種になったのは、ビートルズじゃなくてアストロノウツの「太陽の彼方に」だよーーーと。
もっと正確に言うと、アストロノウツの、水泡が次から次へと湧きあがるが如くの「♪ポンポヨポンポヨポンポヨポヨポヨ、、、」という音ではなく、それをカバーした寺内タケシとブルージーンズの、柔らかでかつ押しの強い「♪ジャージャジャジャージャジャジャージャジャジャジャジャジャ、、、」のギターサウンドだーーーと。
私は、「あぁ!そうだよ!これだよ! これがGSの種の音だよ!」と、膝を打ちました。
次に、繁栄期。
GSというのは、他国にはない、独自のガラパゴス的進化をとげた 日本だけの音楽ジャンルです。
ネット時代になり、世界のあらゆる時代の音楽が自由に聴ける様になった現代では、他国に「GSマニア」が存在するほどです。
何故、種の種はアメリカにあり、多くのGSグループが、ブリティッシュロックをやりたかったにも関わらず、シングルカットされる楽曲は、ロックだか歌謡曲だか判らない、又、歌詞も、舞台はヨーロッパのお城で、メンバーは王子様さながらの衣裳とイメージだったのかというとーーー
メジャーデビューするには、GSのメンバー本人達に主導権は全く無く、それを握っていたのはプロダクションであり、各プロダクションの方針で、殆どのGSグループは、歌謡曲の作詞家・作曲家の先生が、楽曲を作っていたわけです。
当時の作詞家・作曲家の先生方というのは、モダンジャズが好きで、ロックはあまり知らずに、「ロックって、こんなものだろう?」という憶測で作り上げたから、あの様な、悪く言うとへんてこりんな、良く言うと独創的な楽曲になったそうです。
又、お城と王子様のイメージは、まだGSがグループサウンズと命名される以前のGSブーム初期に、ブルーコメッツが「ブルーシャトー」を大ヒットさせ、「ああいった歌詞なら当たるんだ!」といったところから来ており、歌詞に留まらず、衣裳が王子様になり、イメージも、「トイレにも行かない」風を作ったそうです。
この様なシングルカットに不満を抱いていたGSグループは少なくなかった様で、アルバムを聴くと、ストーンズやアニマルズ、そしてビートルズを、ガレージパンク的なノリで何曲も演っています。
カップスに至っては、ステージでは、シングルカットされた曲は、徹底して 一切演らなかったそうです。
シングルカット曲は、あくまで、メジャーでいるための、商業的手段と、割り切っていたんですね。
そして、衰退期。
GSブームというのは、爆発的な大ブームになったにも関わらず、ほんの五年間くらいで、終焉してしまいます。
何故ゆえ、これほど、ブームの終焉が早く来てしまったのか???
私は以前、ムッシュかまやつさんの自伝を読んだ時に、ムッシュは、「GSは金になる!と、ありとあらゆるプロダクションが、実力もないのに王子様の格好だけをさせて、それはもう沢山のGSグループをデビューさせ、結果、まるで戦国時代のようになってしまった。 これが、GSブームがあんなにも早く終わった理由だ」と述べていましたが、近田論によると、それだけではなかったとの事です。
オックスの失神騒動ーーー。
前身としてのグループ活動は以前からあったけれど、オックスは、GS大繁栄期にデビューします。
なので最初から、「お城」であり「王子様」を背負ってスタートします。
その中で、オックスが前身時代からパフォーマンスとして演っていた、ノリにノってくると、ステージを転げ回る、というのを、ストーンズのカバー「テルミー」で、ステージで披露し、失神パフォーマンスにつなげたところ、観客のファンの少女達も、集団トランス状態になり、失神する様になってしまった。
これをPTAが許さなかったから、という事です。
オックスのライブ盤に、演歌やわらべ唄が入っているのは、失神ファンを少しでも抑える目的だったそうです。
それでも失神少女達はいなくはならずに、PTAで、「失神少女達を出すオックスいかん→GSは悪だ!」という図式が成り立ってしまい、GSのコンサートに行かせない学校が増え、みるみると終焉に向かわざるを得なかった様です。
GSブームが終わってから、代表的なGSの人気者ばかりがチョイスされたグループPYGが結成されますが、これも長くは続きませんでした。
この理由は、私にもすぐに解りました。
ジュリーとショーケン、それにスパイダースの面々を入れ込んだグループなど、ファンが認めるわけないではありませんか?!
ジュリーファンにとって、ショーケンは敵、ショーケンファンにとっても全く同じ。
本格的ロックファンを自認していたスパイダースファンにとって、元タイガースや元テンプダーズのメンバーなどは、単なるアイドルとして、鼻もひっかけないのですから。
日本で最初のロックブームであったロカビリーブームは、こうして、第二期日本ロックブーム・GSブームに引き継がれ、そして、はっぴいえんどに代表される第三期日本ロックブーム、つまり、ニューロックの時代へと、移行します。
勿論、それぞれのブームとブームの間にはキッチリと縦線が引けるわけではなく、前のフェイドアウトと次のフェイドインは重なっています。
GS後期にも、カップスやモップスは、すでにニューロックを演っていましたから。
ですから、この書籍、リアルGS世代のかたで、「どうしてこうなったのだろう?」と、謎を覚えていた向きにも、私の様な、後追いのGSファンが、GSを構造的に理解するにも、ニューロック以降のロックファンが、自分達が今、夢中になっている時代の前のロックシーンはどの様だったかを知る上でも、多大な知識を与えてくれる一冊です。
値段も大きさもお手頃でありながらも、得るものは非常に大きな一冊です。
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映画「裸の大将」にみる脚本家・水木洋子氏の力量 [感想文]
「裸の大将」
監督・堀川弘通
脚本・水木洋子
主演・小林桂樹
1958年製作
かの、放浪のちぎり絵天才画家・山下清氏の生涯の一部を、「山下清の放浪日記」を元に、自在にふくらませた劇映画である。
シノプシスはーーー
戦時中、施設を抜け出した 少し知恵の遅れた清が、放浪の旅へ出かけ、食べ物を恵んでもらったり、めし屋で働いたりする。
徴兵検査に落ち、するうち終戦となり、清は、施設の先生の尽力もあり、天才画家として名をあげる。
が、名誉などには関心のない清は、誰もいない海へと逃げ切り、了、ーーーというものである。
先ず、何といっても舌を巻かずにはおれないのは、水木洋子氏の脚本である。
知恵の遅れた者でこその、滑稽さ、ぶざまさで笑わせ、かつ同時に、知恵の遅れた者でこそ感ずる純朴な疑問ーーーその疑問が、実に、戦時から戦後へという時代の的を突いており、シリアスな社会派とも成っているのである。
この、一見、真逆の二つの要素を、一作品の中で力強くテーゼしてゆく、これは、お見事!と感嘆せずにはおれない。
主にそれは、清の疑問の台詞によって表現されているのだが、話しが進むにつれ、ぐんぐん核心に迫ってゆく。
冒頭近くのシークエンスでは、「『めし』と『弁当』は、どう違うのかなあ?」という他愛もないものであったのだが、出兵する兵隊を見送ると、「病気で死ぬと『仏様』になるのに、戦争に行って死ぬと『神様』になるのは、どうしてなのかなあ?」となり、戦争末期になると、「みんなは、日本の旗が一番きれいだと言うけど、僕は、日本の旗もアメリカの旗もイギリスの旗もきれいだと思うんだなあ」。
そして終戦後の、自衛隊の行進に対しては、「戦争はもうやらないのに、どうして自衛隊は鉄砲を持っているのかなあ?」と、核心のど真ん中を突く。
本作品では、このシーンがクライマックスとなっていて、つまり、この台詞が、本作品で最も伝えたい 国に対する疑問であり、それを清に代弁させている訳である。
清は、「どうしてーーー?」と、隊列を見る人々に聞いてまわるが、誰も納得できる答えを教えてはくれない。
ついに清は、隊列の中に割り込んで、自衛隊員の肩を掴んで「ーーー鉄砲を持っているのかなあっっっ???」と、その台詞を叫ぶようにぶっつけるが、自衛隊員達は、清が無き物の如くに、隊列を乱さずに進み去ってしまうーーー
圧巻のクライマックスである。
劇映画の良し悪しの半分は脚本で決まってしまうのであるが、この作品は、水木洋子氏の、秀逸な筆さばきによって、最高水準の映画と成っている。
言うまでもなく、そこには、その脚本を深く正確に解釈し、巧く画に乗せられる監督の手腕と、体現できる役者の技量あってのことであるが。
画として、清を清たらしめている見事な表現だと唸ったのは、めし屋で、じゃがいもと人参を剥いた清が、普通の人だったら、一個剥いたらカゴにポイと入れてゆく所を、大きいから小さいまで二十個くらいを、順にきちんと卓上に並べて置いてゆく所や、風呂に浸かる清が、犬のように湯船のフチに両手をかけて、ボーッとしているショットである。
清役の小林桂樹氏の演技は、ステレオタイプの、「ぼ、ぼ、ぼ、僕は、、、お、お、お、おにぎりが、、、た、た、た、食べたいんだなあ〜」と、吃音で間をあけるしゃべり方ではなく、「、」も「。」も間をあけずに、何行もの長台詞を一気呵成に言い続け、ラストの「なあ」だけをモニョッと泳がせる発し方をされていて、それが、相手の気持ちを考えながらはしゃべらない 知恵遅れの特有さが非常に感じられて、そこも唸らずにはおれなかった。
又、食べるショットや走るショットでは、全身全霊を使われていると解る、他の事は何も考えていない無心さ、寄りの表情では、何を考えているのか解らない所も、小林氏の演技力の高さに、溜息をつかずにおれなかった。
この映画、私は先日、神保町シアターの、山下清・生誕100年を記念しての上映で初観し、あまりにも感動したのでDVDも買おうと探したが、DVD化はされていないと知り、ひどく落胆し、思わず、こう叫んでしまった。
「どうして、こんな大傑作がDVD化されていないのかなあっっっ???」
石井隆監督を偲んで「ヌードの夜」 [感想文]
先日、5月に、映画監督の石井隆氏が、大病のために亡くなっていた事が解った。 享年75才。
という事で、今回は、石井隆監督作品中、私が最も 愛して愛して愛し抜いた作品「ヌードの夜」の感想を つづらせて頂こうと思う。
「ヌードの夜」 1993年製作 脚本も石井隆氏
先ず、シノプシスは、孤独で哀しい女・名美が、夜の世界に生きる男・行方に脅され続け、やむにやまれず殺してしまい、その後処理を、偶然、街で貼り紙を見つけた事により知った 何でも代行屋・村木に だます形で させようとする。
一度はこの理不尽さに逆上した村木だったが、行方の弟分のチンピラに暴力を振るわれ 恐怖の極地に立たされている名美をほっておけず、銃を手に入れ、名美を救い出し、のち、エロティックにむすばれる。ーーーが、実はそれは村木の幻影で、名美は、村木に行方とのいきさつを打ち明けた直後の時点で 車で海にダイブして死んでいた、というものである。
とにかく、映像が美しい。
名美の涙を象徴する 幾多のシーンで使われる雨、クジラの模型や人形や転がるメリーゴーランドの置き物の配置、名美が、サラ金屋に打たれ殺される時に、名美の背後に山と盛られた黄色い向日葵と サラ金屋の片手に下げられた青いビニール傘の補色の対比(この場面も、ラストで幻影だったと判る)等等等、、、
中でも、私がダントツに美しいと感嘆したのは、小雨降る波止場で、名美が村木に、行方とのいきさつを打ち明けるシーンである。
名美は、ケンケンパをしながら、いつの間にか遠くのコンクリートの塊の上に登り 隠れてしまうのだが、これがロングで撮られていて、名美の孤独さ・哀しさが、実に巧く表現されているのである。
私はこの映画のシナリオの決定稿を所有しているが、決定稿にも「名美、ケンパをしながら小さくなってゆく」と ト書きに書かれていて、このシーンは、早い段階から 石井監督の頭の中に明確に描かれていたと判る。
又、秀逸なのは、映像美のみならず、名優がたの名演技である。
名美役の余貴美子さんの、リアリズムでありながらも、時々フッ!とハズシを入れる事で観客をグッ!と惹きつける計算され尽くした演技、村木役の竹中直人さんの、実直な人柄でありながらも、濡れ場の後で見せるユーモラスさ、行方役の根津甚八さんの、肝の座った底知れぬ怖さ、チンピラ役の椎名桔平さんの、迫力に満ち かつ 預けられた仔犬に重ね合わせる 拾われた自分の哀しみ、、、
映画監督には、一にもニにも映像美重視で、役者さんの演技に関しては、「こういう風貌の人が、ここにいてくれれば、それでいい」くらいに 演技までは細かくこだわらない人がいる。
一方、逆に、「役者さんがいい演技をしてくれれば、キャメラが役者さんに合わせて追うから、とにかくいい演技をして自由に動いて!」ーーーつまり、背景との重なり・構図などは重要ではない、という人もいる。
この様に、どこに重点を置くか にムラがあり、「それでいいんだ!」という監督は、少なからずおられる。
しかしーーー
石井隆監督作品は、映像美にも役者さんの演技にも 両方 寸分たりとも手抜かりがなく、両者を相乗効果で高め合い、見事に成立させているのである。
私は、石井隆監督作品の真骨頂というのは、そこにあると思わずにおれない。
何故、石井監督が、この様な映画を撮れる監督になられたかというとーーー
石井隆氏は、学生時代は、早稲田の映画研究会に在籍しており、早大の映研は、主に 商業の劇映画を研究するハイレベルな研究会だった(否、今現在も進行形だが)というから、そこで商業の劇映画の基本を徹底的に学ばれたのだろう。
そして卒業後は、劇画作家として、自ら絵も描かれていたので、映像の審美眼は、自ずと高められていったのだろう。
この二つの経験が、映像美にも役者さんの演技にも、厳しく高度なものを要求し、スキなく完成させられる原動力になったに違いあるまい。
虎が死して皮を遺す様に、石井隆監督は、完全無欠な映画を遺してくださった。
石井監督、我々映画ファンに、多大な感動をありがとう!
監督の大好きだった雨の彼方の空で、安らかにお眠りください。
企画展「日本の映画館」を観に行き [感想文]
先日、国立映画アーカイブス展示室で開催されている企画展「日本の映画館」を観に行った。
タイトル通り、日本の「映画館」の歴史を、時系列で、写真 ポスター パンフレット モニターその他で以って、大規模ではないものの 解りやすく 押さえるべき所はしっかりと押さえた 好感の持てる企画展だった。
関東大震災前の幟旗を斜めに数多立てた着色写真は、映画がいかに庶民の娯楽の王道だったかを物語り、震災後の浅草六区の 芋を洗うが如くの人の頭の数から 当時の浅草がいち早く復興し 東京一の大繁華街だったかが手に取る様に見え、戦後、主要な街々に映画館が建ち始めた時代のそれは、いずれも瀟洒な凝った造りの建築で 映画というものが人々にとって どれ程とっておきのお出掛けの場だったかを象徴しており、60年代には ATG作品を主に掛けていたアートシアター新宿で公開された作品ポスターも貼られ ATG好きの私は「あぁ、もう少し早く生まれてさえいれば、アートシアター新宿に、あの作品もこの作品も足を運んで観られたのに!」と唇を噛んだ。
そして私がリアルタイムで体験しているミニシアターの時代のブースに来ると、聴き覚えのある女性のナレーションが流れているのに気がついた。
声を追って近づくとーーー
なんと! 同SSブロガーである事をきっかけに交流させて頂いていたドキュメンタリー映像作家の森田恵子さんの「まわる映写機 めぐる人生」が、モニターに映し出されていたのだ。
「まわる映写機 めぐる人生」は、私も公開時に観に行き、主にミニシアターを運営する方々や、映写技師さんのお仕事ぶりを取材した作品だった。
悲しい事に森田さんは、一年ほど前に、まるで まだみずみずしい果実がぽとりと木から落下してしまった様なあっけなさで、大病のために、この世からいなくなってしまったのだった。
私は観映後、森田さんに、「地方にもミニシアターってあるのかな?って気になっていたんですけど、頑張ってるミニシアターもあるんですね!」と笑顔を向けると、「はい、あるにはあるんですけど、東京に比べると、まだまだ少ないんですよ」と 淋しく笑顔を作られたのが忘れられない。
お育ちの良さが伺える とても品が良く物静かな方だった。
新たな発見と、再認識と、小さな悔しさと、思いもかけぬ懐かしさと悲しさ、といった ごったな感情を胸に、私は会場を後にした。
さて、では、私にとって 特別に思い入れの深い映画館はどこだろう? と自問してみると、三館浮上した。
アップリンク渋谷 イメージフォーラム シネマ下北沢。
いずれもミニシアターである。
先ず、アップリンク渋谷は、公園通りとファイアーストリートの間の坂道に在った頃からしばしば通っていた映画館で、スタン・ブラッケージやヤン・シュヴァンクマイエルなど、他ではなかなか扱われない作家の作品を上映してくれていて、その度に 勇んで坂道を登ったものだ。
奥渋へ移転してからは、私が最も敬愛し続けている松本俊夫先生の短編実験映画全作品が 何日間にも渡り映られた企画には、大興奮した。
客席は連日、松本俊夫先生ファンで ぎっしり埋めつくされた。
次に、イメージフォーラム。
こちらは劇場の他に研究所の運営も営っていて、私はこの研究所で、「世界実験映画史」と「インスタレーション」の講座を受講し、劇場上映はまず行われない貴重な作品の数々を、先生の詳らかな解説付きで観られた事が、非常に大きな糧となった。
寺山修司の「市街劇ノック」が、記録映像としても遺されており、それを観る事が出来たのも、熱烈な寺山ファンでありながらも まだ子供だったという理由で行けなかった私は、感涙せずにはおれなかった。
そして、シネマ下北沢。
これぞ、私の中で、「こんな映画館があったらいいのになあ!」という夢が具現化された ウッディで温もりに溢れる カフェカウンターも併設された 私の嗜好にパズルがカチッとハマった、私にとって、これ以上はない映画館だった。
経営者の一人で映画スタイリストでもある宮本まさ江さんと、映画にまつわるシンポジウムでダイヤローグを交わす機会もあり、映画スタイリストは、役者さんより早く現場に到着して 役者さんが帰ってからでないと帰れなく、撮影期間中は連日 睡眠時間が2時間という 過酷なスタイリストのお仕事の現実も打ち明けてくださり、物心ついた時から高2の了りで母親の方針で泣く泣く諦めるまで、スタイリストを仕事とするのが夢だった私は、「あぁ、もしも夢が叶ってスタイリストになれたとしても、私だったら、どこかの時点で音を上げていたかも知れないな」と溜め息をついた。
又、せんえつながらも、「シモキタは演劇の街でもあるので、本多さんの劇場全てとシネマ下北沢が提携して、同作品や同テーマの映画・演劇をいっせいにやる企画なんてのも 面白いと思います!」と発したら、宮本さんは、「そうですね、いいですねぇ」と頷いてくださったのも良き思い出である。
この三館のうち、イメージフォーラムを除くニ館は、すでに、無い。
身悶えするほど切ないけれど、街から次々と、ミニシアターが消えてゆきつつある。
ミニシアターの時代も、終わりに向かいつつあるのだ。
しかし、無味乾燥の大手シネコンしか知らないで「映画館を知った」つもりでいる人ばかりの世の中になってほしくはない。
せめて、現存するミニシアターは、遺り続けてほしいと、心の中で手を合わせるばかりである。
タグ:国立映画アーカイブス 日本の映画館