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魚の目を食べていたばあちゃん [福岡時代]

福岡県に住んでいた三才から九才までの間、私は、ばあちゃん(父の母)に溺愛されていた。
ばあちゃんは、自身も住む父の実家である久留米の家に私と同じくらいのいとこ二人がいるのに、それはもうしょっちゅう、私の家の在る春日市まで一時間以上も西鉄に乗ってやって来たり 久留米の家に泊めてくれたり 料理屋に連れて行ってくれたりした。

料理屋に行くと、ばあちゃんは、必ず 魚の煮付けを注文した。
そして 身を食べ了ると、これこそがとっておきの享しみ!とばかりに 魚の目を箸先でぐるりとえぐり取り、ゼラチン質になった白目ごと しゃぶりつくのだった。

私はその度に「ばあちゃん、美味しいのー?」と ばあちゃんの顔を見上げ、ばあちゃんは「旨か〜!」と言いながら、私の顔に自分の顔を寄せて ちゅっちゅっちゅっちゅっと、旨か〜!の表現を口でもやってくれた。

しゃぶり尽くすと、火を通されて真白くなった真円型の眼球を口から出して、皿の中にコロン!と転がすのだった。
私は、目玉ってまん丸いものなんだなあと その都度凝視し、あんなにドロリとした魚の目が美味しいなんて不思議なものだと、幼心に思っていた。

光陰矢の如しとはよく言ったもので、今や私は、あの頃のばあちゃんと幾つも変わらない年齢となった。
十二分に大人の酸いも甘いも解る歳となったことだし、そろそろ、魚の煮付けを食べる機会に恵まれたら、目をえぐり しゃぶってみようと考えている。

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丸餅とのし餅 [福岡時代]

私が物心ついたのは、福岡へ引っ越した三才の時で、ちょうど越したその日が 私の最も古い記憶である。

であるから、「餅というのは丸いものだ」という認識の元に歳を重ねていった。
スーパーでは暮れのこの時期になると、ビニール袋に五つづつ入った丸餅が並んでいた。
ーーーうち一つは、味は同じだが 食紅で淡い桃色に染められていた。
ちょうど そうめんの束に、ニ、三本 赤いのが混ぜてある感覚である。

家で食べる餅も 久留米の父の実家でごちそうになる餅も 地域の行事で出てくる餅も、みな丸かった。
丸以外の餅など見た事がなく、この世に存在するなど、夢にも思っていなかった。

ーーーが、小学三年に成る時、我が家は、東京郊外の国立へ移り住む事と成った。
国立に来て初めての暮れーーー
我が家の玄関先に運ばれて来たのは、巨大なホワイトチョコレートの如き 縦横に凹みのある四角い真空パックのそれだった。
私は子供心に「丸い餅を真空パックにするとロスの部分が出るから、味気なくとも効率優先で こうして四角くしているのだ」と 何の疑いもなく思った。

それが「のし餅」と呼ばれ、東日本では、麺棒で伸され四角に切り分けられるのが本来だと知ったのは、三十才を過ぎてからだった。

西日本は丸餅 東日本はのし餅。今ではすっかり理屈上では理解はしているものの、味覚も食文化も福岡で刷り込まれた私としては、やはり 餅は丸くてこそ「餅だ」という実感を否めない。

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じいちゃんの久留米弁 [福岡時代]

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ここのところ一記事おきに「小さい頃は福岡に住んでいた」と書いてきたので、その関連話をもう一つ----。
じいちゃんの思ひ出話をしようと思う。

私が3才から9才まで住んでいたのは、福岡県春日市で、そこに6年間住んだ理由は、父の実家が在る久留米市から そう遠くなかったからだ。
ばあちゃんは私を猫っ可愛がりしてくれ、しょっちゅう春日郡の私の家まで遊びに来ていた。
けれど じいちゃんは、一度も来たことはなかった。
小さな子供があまり好きではなかった というのも一つにはあっただろう。
けれどそれ以前に、歩行が非常に困難だったために 殆ど久留米の家から出られなかったらしい。
父の話によると、なんでも両足の裏一面にビッシリと隙間なくウオノメが出来、それが何年間も治らず、地を踏むだけで強い痛みが走っていた ということだった。

父に連れられ久留米の家に行くと、ずんぐりとしたハゲ頭のじいちゃんは、彫り置かれた石仏のように いつも居間の同じ椅子に ジッと腰かけていた。
便所にでも行くのか まれに立ちあがって居間から出る時は、それこそ薄氷を踏むが如く そろり・・・・・そろり・・・・・と歩をすすめていた。

そんなじいちゃんも、時々は、おかっぱ頭の私を見おろして話かけてくれた。
しかし----
じいちゃんの話す言葉は生粋の久留米弁だったので、何を言っているのかまるで外国語のようで サッパリ解からなかった。
父やばあちゃんや私と同世代のいとこ達の久留米弁は、難なく解かったのだが。
今でも私は、父 ばあちゃん いとこ達の使っていた久留米弁を、話すことこそ出来ないが、聞けばほぼ100パーセントに近い確率で理解が出来る。
ばあちゃんはよく しゃがみこんで、「ぼんぼちちゃ~ん」「ぼんぼちちゃ~~ん」と頬ずりしてくれたが、じいちゃんと触れあったことはなく、言葉の距離も縮まらぬままに了ってしまった。

時代がくだるにつれて どこの地方でも年々、生粋の方言を使う人間が少なくなりつつあり、年配者の話す言葉をその土地に生まれた若者ですら理解不能になってきている と聞く。

これも時代の流れで必然のなりゆきかもしれないが、方言というのは その土地土地の貴重な文化なので、若干 寂しさを覚えずにはおれない。

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A(エース)という洋食器屋 [福岡時代]

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私は三才から九才まで 福岡の米軍基地の在る町に住んでいた。
当時はベトナム戦争真っ只中だったので、町は ジープや戦車が走ったりと、今思い返すと 一種特有の雰囲気だった。
私は福岡で物心がついたので、それを当たり前の町の様子として 六年間を過ごしたのだった。

そんな町の中に A(エース)という洋食器屋が在った。
三叉路の三角地帯に建っていたので、店の敷地の形からそういう店名になったらしい。
否、Aが正式な店名であったかどうかは疑わしい。
もしかしたら、正式な店名は別にあり、基地の人達か町の人達によって 通称でそう付けられていたのかも知れなかった。

そのAという洋食器屋、大人達の話によると、商品がとても安く売られていたという。
確かに、店の表にも幾つも箱が並べられ、無造作に様々な洋食器が山積みにされている様は 大衆的な印象だった。
おそらく、米軍から流れてきたものを専門に扱っていたのだろう。

私の母なぞは買い物好きだったので、使うアテのない食器まであれこれ買いこんでいた。
ポタージュスープは毎朝飲んでいたからポタージュ皿は必要だったけれど、コンソメスープ皿やグラタン皿やココットの器・・・・・
グラス類だと、ゴブレットは使うからまだしも、ロックグラス ワイングラス シェリーグラス リキュールグラス カクテルグラス ソーサー型のシャンパングラスまで求め、家の食器棚はAの食器で溢れかえっていた。
さすがに箸とご飯茶椀と味噌汁椀はあったが、私には、Aに売られていた洋食器が食器という刷り込みがなされた。

時が経ち、私は大人になり結婚をした。
その時 私が住んでいた東京都下・国立の家にダンナが来て一緒に暮らすこととなった。
朝食時、ゆで玉子をエッグスタンドに乗せて出すと ダンナは、「えぇっ!?家にエッグスタンドがあるの? ホテルの朝食みたい!」と驚いた。
私にとっては、エッグスタンドがあることがあまりにも当たり前の日常だったので、ダンナが驚いたことに驚いた。
夕飯時----
箸をテーブルに置くとダンナは、「何で箸置き使わないの?」と眉をしかめた。
私は、「えっっっ!? 箸置きなんて 割烹や寿司屋で使うものでしょ?」と釈然としなく 口をとがらせた。
----何故なら、Aには箸置きは売られていなかったからである。

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南天の実 [福岡時代]

私は幼少の頃、南天の実を食べていた。
その時住んでいた福岡の家の裏庭に この季節になるとたわわと生るのを、伸びあがって 小さな手でつまんでは小さな口に放り込んでいた。

別段 美味しくはなかった。 かといって、不味くもなかった。
それは粉っぽくて ちょっと青臭いだけの味だった。
別に、喉にいいと言われるからとか そういった理由で食べていたのではないし、それ以前に、毒ではないという知識すらなかった。
私が南天の実を食べていた理由はただ一つ、「赤かった」からである。
赤くて小さな実には、子供心を夢中にさせる蠱惑があった。
私は南天の実を次から次へと食べることで、自分が小鳥にでもなれる気がした。
深紅の粒を食むことで、ここではないどこかへ羽ばたいてゆける気がした。

食べ了えると、私はいつもの色黒の口数の少ない幼児に戻った。
南天の実は、つかの間、私を 晴れ渡った冬の日の天空に運んでくれる 小さな秘密の装置だったのだ。
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戦車の思ひ出 [福岡時代]

三才から九才まで、福岡県の春日市という 米軍の基地の在る町に住んでいた。
郡民の住む町と基地との境目には大通りが通っていた。
その大通りをしばしば 戦車が走っていた。
我々郡民にとって戦車の通過は、町の日常の中の ちょっとしたイベントなのだった。

----遥か遠くから何とも形容のしがたい轟音が聞こえてくる。
と、町を歩く子供も大人も「あっ!戦車が来る!」と、その場に立ち止り 大通りを凝視するのだった。
徐々にその音は近づき、巨大な岩石の塊のような戦車が、地面を揺らしながら ゆっくりと登場するのである。
子供は「わぁー! センシャセンシャー!」と手を叩き、大人は「ホウ!」と圧倒されたふうに見上げる。
私の手を引いた祖母も腰をかがめ、「ぼんぼちちゃん、戦車見んしゃい、見んしゃいー」と、私の頬に頬を寄せた。
巨大な岩石は、この世にこれ以上大きく重く堅い物体はないと思わせずにはおれない姿を郡民に披露しつつ アスファルトを這った。

そして ゆき過ぎると、我々は再び いつもの日常の動きに戻るのだった。
買い物カゴを下げた婦人達は、「ここは基地があるおかげで 税金が安くて住みやすいけんねー」と ホクホク顔で声を上げていた。

他愛ない戦車の思ひ出である。

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初めての給食 [福岡時代]

みなさんは、生まれて初めての給食を憶えておられるだろうか?
私は記憶している。
私が初めて口にした給食は、コンキリエ入りフルーツポンチである。
殆どの日本人が、その巻貝の形をしたパスタをコンキリエという名称であることを・・・・・否、パスタという語すら知らなかった1968年に、私が通っていた小学校では 給食に登場したのである。

給食1.jpg----私が通っていた小学校は、福岡県春日市という所に在った。
その町は、米軍の基地のある町だったのである。
米軍の基地のある町は、欧米の物資がまわって来やすいのみならず、財政が非常に潤沢で、殊 教育方面にはまっ先に予算があてられるのである。
したがって給食は、初日だけでなく後も次々と美味しいものが小さな机に並び、大人達の話によると、給食費は全額 米軍持ちだったという。
のみならず、どこぞの坊っちゃん嬢ちゃんかと見まごうような制服もあてがわれ、校舎は鉄筋 体育館はピカピカだった。

給食.jpgそして私は、小学三年になろうという年に、父の仕事の都合で、東京郊外の国立市という文教地区に越して来た。
文教地区だから、税金を大きく落してくれる企業や団体がなく、財政に乏しかった。
したがって、学校舎は木造のオンボロ 制服支給もなく、給食も、本来なら捨ててしまうべきキャベツの芯の入ったカレーシチューや 硬くて噛めない鯨の竜田揚げなど うんざりするほど不味かった。
私は子供心に、今度は米軍の恩恵を受けていない 決して豊かではない町の学校なのだと頭では判っていても、その落差が惨めで情けなくてたまらなかった。

時代がくだり、ちょっと高級なスーパーや小洒落たレストランに行くと コンキリエと出逢うようになった。
コンキリエに出逢うと、私の頭蓋には、初めての給食と給食にまつわるこの一連が 紗のかかった静止画の連続となって立ち現れるのである。 正から負への感情をともなって。

 
タグ:給食 基地
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 クリスマスの思い出  [福岡時代]

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幼い頃は----
米軍基地のある街の、かつては米兵家族のものだった通称「ハウス」と呼ばれていた 白い木の柵に囲まれた庭付きのアメリカンハウスに住んでいた。
だから、テラスの脇には私が見上げるほどの、正確にはモミではなかったかも知れないが、クリスマスツリー用の、縦長の円錐形のフォルムの針葉樹が植えられていた。

クリスマスが近づくと、毎年、父は、その縦長の円錐形を大きなスコップで掘り出し、根っこがすっぽりと収まるほどの鉢に移し、テラスを通して応接間の中央へと移動させるのだった。
そして、モールの小さなサンタや ピカピカの丸い玉や ボール紙に銀紙を貼った星を 枝先という枝先にぶら下げ、高彩度に点滅する豆電球を滝のように流し掛け、生まれたての兎のような綿の雪をほわほわと乗せて仕上げるのだった。

円錐形を掘り出す時も ツリーのお化粧時も イヴの夜も、母は父を、ののしり 罵倒し わめきちらしていた。
ヨーロッパ旅行に連れて行くと約束したのにいまだに連れて行ってもらっていないとか 知りあった頃は痩せていたのに今は別人のように太ったから見るのも嫌だとか 子供さえ出来なければ結婚なんてせずに済んだのに、とか。
父は父で、やはり普段の日と同じように、何の反論もせずに ヘラヘラッと笑っていた。
ヘラヘラッが余計に気持ちを逆なでするのか、母の負の感情は、これもまたいつものように高ぶる一方で、「産みたくもないのに勝手に生まれてきやがって!!」と矛先を私に向け、ボコボコに殴りつけ 夜は更けるのだった。

幼い私の世界は、白い木の柵に囲まれた庭の中がすべてであり その中で起こることは 何もかも ただただ当たり前の出来事なのだった。

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タグ:クリスマス
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 たんぽぽ  [福岡時代]

幼い頃は、福岡に暮らしていた。
福岡県内の 今から住むのだという家の庭から 四季を繰り返し迎え、幼稚園 小学校と 五感の記憶を重ねていった。

たんぽぽ3.jpg小学一年か二年の時のことである。
理科のテストの答案用紙を 勇み走って受け取った自分は、その場に立ちつくした。
自分の 確信を持って書き込んだ答えへの採点が、あまりにもおかしなものだったからである。
「たんぽぽの きせつは いつですか?」
「はる○ なつ× あき×」 と-----。
福岡には たんぽぽは、冬以外はいつだって咲いていた。
冬以外は いつだって、我が家の庭にも 通学路にも 校庭のすみにも、ささやかな幸せのように 黄色い花をぽっ!と灯したり、ひょろりと伸びたくきの先っちょから この世のものではないくらいに柔らかそうなほわほわを風に渡して 半分はげちゃびんになった小さな頭を揺らしたりしていた。
教師が授業中に 「たんぽぽの季節は 春です」 と言っていたのは よく覚えていた。
自分はその時、「先生も ずいぶんうっかりだなぁ。 夏と秋を抜かしちゃってるよ、いつも見てるくせに。 でも そこ つっこまないでおいてあげるよ」 と思いながら 聞いていたのだ。

後日、家庭訪問の日。たんぽぽ2.jpg
その採点に、自分が 家に帰って一人 くやし泣きをしていたことを 親が教師に話した。
教師は、「いくら それが本当でも、テストでは 先生が教えたことを書きましょう。 そうでないものには○はあげられません」 と こちらに向いた。
しかし、自分には、自分が間違っているとは どれだけ考え返しても思えなかった。
口ごたえするのはいけないことなので そうとは言わなかったが、「はい、先生!」 と 笑顔を作るような巧妙な芝居も できなかった。

その後も こんな類いの小事件に幾つも幾つも遭遇し、自分は、冬の果てへと膨れころがる雪玉のように ひねくれていった。 
 

タグ:タンポポ
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 もっとも古い記憶  [福岡時代]

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庭から玄関扉に向かって ゆらゆらと進みゆく 粒子の粗く かつ 彩度もにぶった 音のない 数秒間の映像-----

これが、私の中の もっとも古い記憶です。

父に抱きかかえられ 今日から住むのだという 福岡の 通称「ハウス」と呼ばれていた 米兵家族が使っていた 木造平屋の住宅に 着いた日のことです。
私は 三歳でした。

それから 白いペンキで塗られた 低い木の柵の内側のハウスの世界で 私は 記憶を重ねてゆきました。

庭のまんなかの 大きな株の雪柳をたたいて 小雪吹雪にまみれてみたり
コンクリートのテラスの ざらざらの質感と冷たさを 足の裏で知ったり
蛙の声に 雑草に分け入り 白柵ぎりぎりまで長靴を潜入させてみたり
枯葉の匂いの中 ひしゃげたうずらの卵のような 何かのさなぎに驚いて 尻もちをついてみたり
勝手口脇に下がる南天の実を 粉っぽいだけなのに 赤いという理由で 幾粒も食んでみたり・・・・・

今も残る 東京でいうと福生のような 基地のある町の ハウスの脇を通りがかると
私の前には かならず あの頃の映像が 廻りはじめます。
そして 最後の数秒間は あの 粒子の粗く 彩度も低い 無音の 玄関扉です。

私は そのたびに とても小さな 単純な塊へと 縮んでゆくのです。

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