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幼稚園児の時、駅の階段から落ちた話 [毒母]

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私は母親に、物心ついた頃から 殴られる以外に触れられた記憶が一つもない。
日頃から ちょっとでも母親に近づこうものなら「おめーは醜くて臭いから、近寄られると気分がワリ〜イ!近づくなーーっ!」と 嫌悪感をあらわにされて怒鳴られていた。
母親の買い物のお供をする時も、五歩くらい下がって歩いてゆくのだった。
尤も母親は、幼児の歩調に合わせてゆっくり歩いてくれる筈もなく、大柄な自身のペースでずんずん歩を進めるので、五歩くらい後からついてゆくのが精一杯だった。

そんな日常のある日ーーー
確か、幼稚園児の頃だったと思う。
電車に乗ってデパートかどこかへ行った帰りに最寄りの駅に着き、駅の階段を降りる時のことだった。
ホームから踊り場までの上半分の階段は、何とかヨチヨチと降りられた。
が、踊り場から一歩足を踏み出したとたん、バランスを崩し、ちょうど立て膝の姿勢で 膝で、ガッ!ガッ!ガッ!ガッ!ガッ!ガッ!ガッ!ガッ!、、、と、地面まで落ちてしまったのだった。
落ちてゆく最中の恐怖と落ちきった後の膝の痛さは、尋常ならざるものがあった。
私は地面に倒れ込んで 動けなかった。
と、「みっともねーーっ!このっ!恥っさらしめがーーっ!!」
母親の声が飛んできた。
そして母親は、ずんずん家の方に歩いて行き、見えなくなってしまった。
私は、なんとか起き上がった。
両膝は、表面は 擦りむいて血が滲んでいた程度だったが、膝小僧全体が深い部分まで酷く痛かった。
最寄り駅から家までの道順は解っていたので、私は足を引きずりながらも、何とか家に辿り着いた。

母親は玄関の扉には常に鍵をかける人で、私はまだ鍵を持たせてもらえない年齢だったので(鍵を持たせてもらえたのは、小学一年からだった)玄関扉の前で「開けてー!開けてー!開けてー!」と叫んだ。

しばらくして、母親は鬼の様な形相で扉を開け「このっ!ノロマがっ!アタシに恥をかかせやがって!!」と怒鳴りつけ、自分の部屋に引っ込んで行った。
私の膝の具合はどうかと尋ねるどころか、膝をチラリとも見なかった。
私は、風呂場に行き 膝の血と埃を洗い流し、救急箱を取り出して赤チンを塗った。

擦りむきは そう間もなくかさぶたになり治ったが、膝小僧全体は 何週間経っても痛かった。
その旨を母親に訴えても、母親は、整形外科に連れて行ってくれることをしなかったどころか、「このノロマがーーつ!!その甘チャンの根性を叩き直してやるわーーーっ!!!」と 殴りかかってくるのだった。

風邪で熱を出して寝込んでも 看病してもらえたことは一度もなかったし、私の幼少の頃の母親との関わりの記憶は、こんなことばかりである。

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タグ:虐待 毒親 毒母
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新宿・思い出横丁デビューの年令 [毒母]

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新宿西口ガード脇に在る 闇市発祥の庶民的な飲み屋街「思い出横丁」ーーー、東京あるいはその近郊にお住まいの酒好きのかたなら 一度は訪れたことがあると思う。

その思い出横丁、みなさんは、初めて訪れたのは何才の時だっただろうか?
上京して学生になって早々の18才? 社会人になって大人の仲間入りをした22才? それとも一通りの飲み屋を経験してからの30代?
ーーー思い出横丁デビュー、私の年令より早いかたは、まず おられないのではないだろうか?
何故なら、私の思い出横丁デビューは、0才マイナス10ヶ月だからである。
つまり、母親の胎内に宿ったその時点からすでに、母親の腹に運ばれて通っていたのである。

思い出横丁、当時は「ションベン横丁」と呼ばれていたそうである。
小便の匂いのする様な 薄汚い下品な飲み屋街だったからだそうだ。
中野の鍋屋横丁に住んでいた母は、都電に乗って 夜な夜なションベン横丁に飲みに通っていたそうだ。
私を妊娠していることが判ってからも 腹が大きくなって臨月になってまでも 通い続けていたそうだ。
私を産んだ期間だけ休み、再び動けるようになるや、又 ションベン横丁通いを復活させたとのことである。

私が産まれて間もなくは、まだ寝転がっているだけで 這って移動しないので、バーのカウンターの椅子の上に乗せて 隣の椅子で飲んでいたそうだが、しばらくして 這って移動するようになると、カウンターの椅子には置いておけないので、中野のアパートに閉じ込めて 飲みに通ったそうだ。

中野のアパートは三畳一間で私は6月産まれだったので、毎夜 閉じ込められるようになった時期に真夏の盛りが来て、私の身体は運動不足でぶくぶくに太り 肌はあせもでぼろぼろになったという。
母はよく その頃のことを「元々産みたくもねーのに産まれてきやがってよー! 醜くて臭くて見るのも触るのも嫌だったわあー!」と いかにも汚いものを思い出すように吐き捨てていた。

ションベン横丁から思い出横丁へと健全なイメージに改名され、多くの店が入れ替わったに違いない今も、私は、この横丁を訪れる度に、母がしばしば吐いていた言葉を思い出し、自分のルーツはここにあるのだと 濁って底の見えぬ水面動かぬ沼の如き思いに縛られる。

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虐待する親の心理 [毒母]

ここのところ一記事おきに 私や弟が虐待された過去を綴ってきましたが、今回は、「何故、母親は 自分の産んだ子供でありながらも虐待していたのか」を、虐待された側から 少し客観的に 分析・考察しようと思います。
----なお、これは私の母親一人を 観察・分析した末の私なりの答えであり、多数の統計をとった結果ではありません。
けれど、私のこの考察が、「一体 何故?」と首を傾げているかたや 行政の虐待防止対策担当のかたの参考に少しでもなれば・・・・・と思います。

何故、実の子を虐待するのか----?
端的に一言で言い切ると、「常軌を逸してエゴイズムが強いから」 です。
常軌を逸してエゴイズムの強い人間というのは、まともに考えると200%本人が悪いに決まっていることを、呆れ返るようなおかしな理屈をつけて、周囲の人間が悪くてその為に自分がこうなった、自分は被害者だ、と考えます。
例えば----
盗み癖の治せない人は、「充分な給料をくれない会社が悪いから 自分が盗みをしなければならない心に追い込まれた」とか 「盗まれても仕方のないような陳列をしていて 盗みをしたくなるような気持ちをあおりたてた店が悪い」などと。

実子を虐待する母親の心理構造も同じです。
「産みたくもないのに勝手に産まれてきやがった。(本当は、恋人でもなかった父と だらしのない快楽の末の妊娠をきっかけに 父を一人占めする手段として勝手に一人で産んだ) この子が産まれた為に 自分はそれまでのように遊びまわれなくなり 女としての肉体の魅力も激減してしまった。 だから、こんな状態にした子供が悪い。 この子が加害者で自分は被害者だ。 よって、被害者は加害者を苦しめる必要がある。 自分にこんなに苦しい思いをさせておいて 加害者が幸せになるなんて許せない。 被害者は加害者を 売ろうが殺そうが自由な権利がある」 という理屈です。
つまり、自分が産んだからこそ よけいに憎いのです。

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常識のある人が聞くと、「何おかしな理屈こねてるんだ?」と 開いた口がふさがらない理不尽な理屈ですが、言っている本人は いたって真剣なのです。 世間や法律のほうが間違っていると言い張りゆずらないのです。
----そう、常軌を逸してエゴイズムの強い人間というのは、精神が「まともな大人」ではないのです。
本来なら、社会の中に野放しにされていてはいけないのです。

かりに、やらかすことが先に挙げた「盗み」のような類のものであれば、すぐに社会から隔離された環境におかれます。
しかし、実子の虐待というのは、家庭という閉ざされた空間の中で行われ、みなさんもご存じの通り、親の子に対する虐待が表面化してきたのは ほんのごく最近のことで、私(1962年生まれ)の子供の頃は「スパルタ教育」という隠れ蓑の元に やりたい放題でした。

子供の側も、中学生くらいになれば疑問を感じてきますが、小学生くらいまでのまだ小さい頃は、世の中を俯瞰などできる筈もなく、「自分の家庭が当たり前で親の発言が正しい」と 刷り込まれてしまうのです。
虐待されずに育ったみなさんの中にも、小学生くらいまでは、親が、「ウチは普通だ」と言っていた為に、「何もかも自分の家庭が普通だ」 と思っていたかた、少なくないのではないでしょうか?

それと同じように、虐待されている子供も、「親の言っている・やっていることが正しくて 悪いのは自分だ」と思ってしまうのです。
だから、どれほど辛くとも 殺されかけようとも、親戚や児童相談所に逃げ込もう という発想はつゆ起こらないのです。
そういった理由もあり、常軌を逸したエゴイズムの強い人間のやらかすことが実子の虐待である場合は、今でも表面化しずらいのです。

この時点で 多くのみなさんは、「なんでまた常軌を逸したエゴイズムの強い人間というのが出現してしまうのだろう? そういう人間は、どういう生まれ育ちをしたのだろう?」と 不思議に思われているのではないかと察します。
----あくまで、私の母親の場合ですが・・・・
母親は、7人だか8人兄弟の末っ子で、何でも特別扱いで わがままし放題に甘やかされて育ったそうです。
それで、幼児の状態で精神の成長が止まり、そのまま年だけ取ってしまったものと思われます。

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通常は成長をしてゆく過程で、自分が我慢しなければならない忍耐力や 相手を思いやる感情を学習し、社会に適応してゆきます。
しかし、常軌を逸してエゴイズムの強い人間というのは、精神レベルが幼児のままですから、周囲の都合や気持ちなど何一つとして考えずに、幼児さながらに 泣きわめいたり癇癪を起したりし、最も身近にいる弱者(子供)を サンドバックがわりに殴りつけ 負のエネルギーを発散させます。
まるで幼児と同じで、自己抑制がきかなくなってしまうのです。

あまりの大きな負のエネルギーの為に、手指の関節は硬直して曲らなくなり 膝もつっぱって曲がらなくなり  目は釣り上り充血し 奇声を発し 自分の気持ちがスッキリするまで---およそ2時間くらい---子供を殴り続けます。
そして知能は低いわけではないので、自分を都合よく正当化する理由づけが、思考回路の中でできあがってしまうのです。
だから、「産みたくもないのに云々・・・・」というおかしな理屈は、本人は気づいていないけれど、後付けの理屈なのです。
末っ子でわがまま放題に育てられた人が全員 こういう人間になるとは限らないのでしょうけれど、私の解かる範囲で 母親に関して思い当たる理由はこんなところです。

常軌を逸してエゴイズムの強い人間は、つまりは自分が幼児で自分の面倒すら見られないのですから、子供の面倒を見られるわけがありません。
そういう人間に対しては いくら「子供さんを可愛がってあげましょう!」「子供を虐待してはいけません!」などと声掛けしたところで 焼け石に水なのです。
子供と引き離して生活させるのが 最良の手段なのです。

以上、「何故、母親は実子を虐待するのか」を 私の母親のケースで分析・考察しましたが、質問・疑問をお持ちのかたいらっしゃいましたら、お答えできる限りお答えします。
この記事が、世の中から 虐待される子供が一人でも減るきっかけの一つになってくれたら幸いです。
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母親が弟を見殺しにしようとした一件 [毒母]

私が18才の時、父と母は離婚し、父は複数人囲っていた愛人さんの一人を本妻にした。
母が言うには、以降 父からは一銭も金をもらわないから という理由で、私に 画家をやって月々100万稼いで生活費として入れろ!と要求をしてきた。 それが当たり前の親孝行だ----と。
虐待されて育った私は疑問を感じながらも、とても月100万は稼げなかったが、画家になり 眠る時間も食べる時間も削って 母に渡せるかぎり金を渡し続けていた。

ところが、私が26才になった時、母は父から サラリーマンの人が稼ぐくらいの金額のお金を月々送ってもらっていたことが判明した。 のみならず、父は私にもまとまったお金をくれており、それを母は私に秘密でがめていたことも判った。
それで私は、自分がやっていることがあまりにも馬鹿馬鹿しいとハッキリと認識し、画家の仕事を大幅に減らし、稼いだ金は、その間行きたくてもがまんして行かなかった 原宿やライヴハウスやカフェバーに行き 遊び使うことにした。
もうこれからは、母親に殴られたら殴り返してやろう! 金をうばわれたらうばい返してやろう! 父が私にくれた金も全額取り戻してやろう!  そして、画家の仕事にキリがついたところで画家を辞め、家を出て一人でアパート住まいをしよう! と決意した。

すると母は、私を隣町のソープに、「18才過ぎた娘がいるから買い取ってくれ」と交渉に行ったらしいが、そんな阿呆な交渉はソープの店員が相手にする筈もなく、家に帰ってさんざん癇癪を起し、今度は「月々100万稼いでアタシを左団扇させろ! それが当たり前の親孝行だ!」の矛先を 私の4才年下の弟に向けた。

弟はその時、大学生だった。
行きたくて行きたくて二浪までしてやっと入った 語学の大学だった。
弟は私のようには虐待されずに育ったからか 母親のことが大好きで、小さい頃からいつも必死に 母親のご機嫌取りをしていたので、月々100万稼いで母に渡す ということに挑戦し、なんと!それをやってのけたのだった。
塾の講師と道路工事とホストのバイトを掛け持ちでやって。
大学のほうは、授業に出る時間も授業料を払う余裕もなくなり 辞めてしまった。
毎日 朝早く家を出、夜更けに帰ったり あるいは一晩中帰らないこともしばしばになり、私は全く弟の顔を見なくなった。
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そんなさなか----
私は画家を辞めるタイミングが掴めたので辞め、父からの金の一部を元手に アパートで一人住まいを始めた。
それを知った父は、私に月々 生活費を送ってくれることになった。
母は、父が直接 私の口座に振り込むのを許さず、一旦 母に送り、自分が私のアパートに現金で持って行く と言い張りゆずらないので そうすることとなった。
再び私に対し なんだかんだ言いたい為にその方法をとったのは見え見えだった。

月々、母は、父からの金を持って 私の住むアパートにやってきた。
予想外に おとなしく金を渡し おとなしく帰って行った。
それが何カ月かくり返されたある月、やってきた母はこう言った。
「おめぇ、しばらくアタシをここに泊めておくれよ。 ○○(弟の名)は、バイトも全部やめちまって 金も入れなくなって、体重が38キロになっちまったんだよ。(身長は176センチもある) 家から出られる体力もなくなっちまったんだよ。 それでアタシに三度三度 手料理を作れって言うようになっちまったんだよ。 アタシの手料理じゃないと食わないんだよ。 作らないでいると、アタシを殴ったり包丁向けて脅して『作れ!』って言うんだよ。 アタシゃ 料理なんか作るの嫌なんだよ。あの子の面倒見るのなんか嫌なんだよ。 よぅ、おめぇ、何週間か ここに泊めておくれよ。 そしたらあの子はそのまま飢え死にするから。 現金も貯金通帳も全部持ってきてて 家には一銭も置かないで来たんだから」
それまで 私には向けたことのない猫撫で声を出した。
弟はどうやら、張りつめていた糸が プツン!と切れてしまったらしかった。
心身共に限界に達し、心の奥底にあった願望が噴出したらしかった。

母は、私達一家が福岡に住んでいた頃は、近所に レストランも食堂もファーストフード店もなく 私も小さかったので、嫌々ながらも家で母が作るしかなく 作っていた。
しかし、国立に越してきてからは、レストランも蕎麦屋も中華屋もマックもケンタも弁当屋もあったので、全くと言っていいほど 料理を作らなくなった。
家で作る時は、母の命令で小学生の私が作ったり、家族各々が 紀ノ国屋のステーキを焼くくらいだった。
私は福岡の記憶は充分にあり、母の作る料理がどれほどいいかげんで手抜きで不味いか解かっていたので もう母の手料理はこりごりだと思っていたが、弟は幼すぎて福岡の記憶が殆どなく、つまり 母の手料理の味を知らずに育ったので それを強く欲したらしかった。

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私が思わず、「飢え死にさせるなんて ○○(弟の名)がかわいそうだ!!」と叫ぶと、母は 事もなげにこう吐いた。
「何言ってるんだい!アタシが産んだんだよ。 アタシが産んだんだから 売ろうが殺そうが自由じゃないか!」
私は この人間と 理論的会話が通じないことは火を見るより明らかだと思い知っていたので、とにかく部屋には入れずに金だけふんだくり、「帰れ!」と 怒鳴った。
「帰れ!」「泊めてくれよぅ」「帰れ!」「泊めてくれよぅ」「帰れ!」「泊めてくれよぅ」・・・・・・
長い押し問答の末、ようやっと母は、トボトボと帰って行った。

アパートへはもう金を持って来なくなるだろう・・・・と思っていたら、翌月 来た。 その翌月も、そのまた翌月も。
おとなしく金を手渡し おとなしく帰って行った。
が、母の顔は一ト月毎に 不健康にやつれ 痩せていっていた。
どうやら、弟に殴られ包丁を突き付けられ、嫌々仕方なく 大嫌いな料理作りをしているようだった。

それからほどなくして----
「母、くも膜下出血でキトク」という知らせが入った。
そして脳死状態を経て、ちょうど一ト月後に心臓死に至った。 52才だった。
弟は痩せこけてフラフラではあったが、外出できるくらいには体力は回復していた。
母の死を看取るや、弟はどこかへ消えてしまい、通夜にも葬式にも現れなかった。

葬式が済んで何日か後----
弟は浮浪者のようなボロボロのなりで帰ってきた。
4度 自殺を試みたが死にきれなかった、と言った。
病院の先生が、くも膜下出血の原因はストレスも大きいって説明していたから、ママが死んだのは僕のせいに違いない。 だから 僕も生きてるわけにはいかないと思った----と。

それから----
長い長い時間をかけて、弟は、心と身体の健康を取り戻していった。

今回の記事、大変 長くなってしまいましたが、読んでくださりありがとうございます。 
読んでくださったみなさま、心より感謝します。

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母親に受けた暴力以外の虐待 [毒母]

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私は過去記事にて、母親に虐待をされて育ったことを幾度となく綴ってきたが、今回は、暴力以外に受けた虐待について吐露しようと思う。
暴力以外の虐待-----
それは、一日中、トイレに行かせてもらえなかったことである。

我が家は、私が小さい頃から 旅行などで遠出をする時は、たいてい車移動だった。
当然、道中、ドライブインやガソリンスタンドなどに寄り、普通はそこで用を足す。
しかし、父や弟や母親自身が、自分が行きたいタイミングでトイレに立っていたのに、私だけは母親に 行くことを禁じられていたのだ。
「食事の前や途中で 女がトイレに立つのはみっともねぇー」 という理由をつけられて。
食事が終わって 又はガソリンスタンドで行こうとすると、母は、「時間がないーーっ! 早く車を出せーーっ!」と 父に命令し、母に言われるままの父は、「わかったよ」と 車を走らせるのだった。
私が、「ママは行きたい時にトイレに行ってるじゃない」と言うと、「なんだとー! おめーは親に口ごたえすんのかーっ! この親不孝者がーーーっっっ!!」と 殴りかかってくるのだった。
私がトイレを我慢して苦しんでいるのを見て、母親はいつも 愉快きわまりないといった様子で ゲラゲラと笑い転げていた。

そんな苦しい旅行が何度かあった後----
下腹部が痛み 排尿するとツーーンと全身に激痛が走り 残尿感があり いつもトイレに行きたい感じ-----そんな症状が出現した。
病院へ行くと「膀胱炎です」と診断された。
トイレを我慢しすぎたことが原因だった。 小学2年の時だった。
病院で処方された抗生物質を飲むと 一週間で治ったが、母親は こう吐いた。
「膀胱炎くらいで病院行くんじゃねーよ!この根性なしめがっ! こっちは おめーに妊娠させられて子育てさせられてんだよ! 妊娠すんのは死ぬほど辛くて 子育てすんのは死ぬより辛いんだよ! おめーはアタシにそれをさせてんだろーがっ! アタシの苦しみに比べたら おめーの膀胱炎なんて屁でもないだろーがっっっ!!」
----妊娠させたのは私じゃないのに・・・・・

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その後も旅行の度に、私はトイレに行かせてもらえず、その度に膀胱炎を発症し、その度に先の暴言を浴びせられた。
家族旅行は私が小学6年まで続いていた我が家の行事だったので、トイレに行かせてもらえない苦しみも 母親のゲラゲラ笑いも その後の膀胱炎も 暴言も、毎度のこととしてくり返えされた。

私が中学に入ると、家族旅行の行事はなくなった。
よって、トイレに行かせてもらえない苦しみからは解放された。
が----
膀胱炎は、何度かくり返して発症していると ちょっとのことでも発症しやすくなる病気なので、私はすっかり 膀胱炎を発症しやすい体質になってしまっていた。
少し疲れがたまったり 水分を摂れない時間が続いたり 3時間ほどトイレに行けなかったりするだけで。
その度に病院に行き抗生物質を貰っていたが、くり返す毎になかなか治らなくなり、小学生の頃は一週間で完治していたのが、そのうち二か月間抗生物質を飲み続けなければ治らなくなり、完治したと思ったらその三日後に 再び発症したりするようになった。
膀胱炎になっていない時のほうが圧倒的に稀な日々になってしまった。

疲れをためない こまめに多めに水分を摂る 出来るだけひんぱんにトイレに立つ、この 医者からの「膀胱炎になりづらい体質になる為の注意事項」を守り続け、私はようやっと、40代後半で 膀胱炎体質とおさらば出来た。

母親にされた理不尽な理由の暴力の痛さも忘れることが出来ないが、この トイレに行かせてもらえなかった苦しみや、母親がそれを大口開けて笑っていた醜い顔も 一生 忘れることが出来ない。

----一つ写真記事を挟んで、3月23日は、母親が弟を見殺しにしようとした一件を公開しようと思う。
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タグ:虐待 膀胱炎
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喫煙者にされて嫌なこと [毒母]

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ますます勢いを増しつつある昨今の禁煙ブーム、この記事をお読みのかたも 吸わない人のほうが多いのではないかな?と想像しつつ綴ってます。

かく言う私も吸わない人間であります。
が、過去にほんの何か月間か 吸っていた期間があります。
----三十代後半の頃、演技のレッスンを受けていた時に、アトリエ内発表会でタバコを吸う役をあてられ、それをきっかけに 葉巻が細くなった様な茶色いタバコを吸い始めました。
けれど、吸っている最中は 口中いっぱいに心地良い香りが広がり美味しいと感じるものの、吸わずにはいられない衝動にかられることはなく、又、しばしば片頭痛がおきるようになったので、やめるともなくやめてしまいました。
ですから、すぐ隣や向かいの席でスパスパやられても 何の不快感も覚えません。 全く平気です。

しかし、これだけは勘弁してほしい!という行為が 一つだけあります。
それは----
手の届く距離に灰皿がない場合、食べた後の食器を灰皿代わりに使うことです。
見た目が汚いだけでなく 食べ残した固形物や汁物とタバコの匂いが混じって 何とも言い難い臭さが立ちのぼるからです。

私の母親が、それをやる人でした。
さすがに外食事には、常にテーブルに灰皿があったからか 人目を気にしてか やりませんでしたが、家では、てんや物の器などで、よく トントン・・・・ジュワッ とやってました。
私はその度に「嫌だなぁ」と思いましたが、口に出して「やめてほしい」と言おうものなら、日頃から私を虐待していた母親でしたから 「おめー! 親に向かってさしずするつもりかーーーっ!!」と ボコボコに殴られるきっかけを作ってしまうのは目に見えていたので、いつもじっと黙っていました。

母はずいぶん前に病死したし、喫煙可の喫茶店や飲み会でも、そういう行為に出る人には出逢わないので、今現在は、不快な思いをせずにいられて幸いです。

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子供の頃の日曜日 [毒母]

私が小学三年から六年までの間、私の父が家に帰るのは 日曜日だけだった。
他の曜日は何処に帰っていたかというと、複数人囲っている愛人さん宅だった。

日曜日----
起きるや、母は父をののしっていた。 「昔は痩せててカッコ良かったのに 太って醜くなった」とか 「ヨーロッパ旅行に連れて行くと言っておきながら連れて行ってくれないじゃないか」とか 「座る時、手の甲を腿にあてる癖がみっともない」とか・・・・・。
弟は、そんな母に便乗して一緒になってののしっていたが、私は父をののしるなんて失礼な発言は出来なかったので黙っていた。

日曜日1.jpg父は、母と弟と私を 昼は外食に連れて行くのが 母の命令で決まりとなっていたので、車で ステーキレストランやホテルの中華料理店に出向いた。
母が、一般の客と同じ席は嫌だと言うので、個室で食べていた。
そこでも、母は父をののしり、弟は便乗し、私は黙っていた。

帰り際には決まって、紀ノ国屋でカートいっぱいに食材を求めた。

夜になると、父は、すきやきを作ってくれた。
弟と私が箸を伸ばしている間、母は「そんなもん まずーーーーい!!」と言いながら、ダイニングキッチンの離れた所で、蕎麦を茹でてすすっていた。
日曜日.jpg面倒くさいからと薬味も刻まず、生醤油をちょっと水で薄めただけのつゆにつけて、鬼の様な形相で、やはり父の悪口を吐きながら もぐもぐと口を動かしていた。

するうち、怒りがふっとうして、「ギャーーーーーーッ!!!」と叫ぶや、薬缶を持ち出し 廊下に出て、隣家にも響き渡るほどの大声で父をののしりわめき、薬缶を廊下に叩きつけては拾い また叩きつけては・・・・・・が始まるのだった。
毎回、二時間くらいはそれが続いた。
父も弟も私も、何も言わずにその様子を眺めていた。

私はそんな日曜日が大好きだった。
何故なら、日曜以外は、私は母に、「産みたくもないのに勝手に生まれてきやがってーーーー!!!」と、意識がなくなるほどボコボコに殴られるのだが、日曜日は、母の怒りの矛先が殆ど父に向くので、私が殴られることはあまりなかったからだ。

私は、目を血走らせ奇声をあげ薬缶にあたる母を見ながら、「毎日がこんな日曜日だったらいいのにな」と 思っていた。


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母の戦争の話 [毒母]

死んだ私の母は、昭和九年生まれで、小学生の時に戦争を体験していた。
母の住んでいたのは 群馬県の赤城山の中腹の 隣家まで歩いて何十分もかかる寒村だったので、空襲などとは縁がなかった。
村は農業を生業とする家が多い中、母の父は大工だった。

母は私が子供の頃、問わず語りに 繰り返し繰り返し こんな戦争の時の話をしていた。
「食べる物がなくなって野草を入れた粥をたいてると、村の百姓がわざと『へえ、それ、山羊の餌ですかい?』ってイヤミを言いに来やがるんだよ。 ふだんはこっちのほうがいいもん食べてるもんだから これみよがしに。 ふだんは こっちが『どん百姓どん百姓』って馬鹿にしてたのにっ! 百姓は(戦争になっても)食うモンなくならないもんだから、ここぞとばかりにイヤミを言いに来やがるんだよっ! ちきしょう!ちきしょう!どん百姓のくせにっ!!
-----でも前橋の街が空襲になった時は嬉しかったねー。 ウチの庭から下のほうに前橋の街が見渡せるんだよ。 真っ赤に燃えて綺麗だったよー。 ふだんアタシらのことを『田舎モン田舎モン』って馬鹿にしやがる前橋のモンがいーっぱい焼け死んでるって思うと、嬉しくって嬉しくってしようがなかったねー。 ざまぁみやがれざまぁみやがれって言いながら見てたもんだよ。 ざまぁみやがれ!ざまぁみやがれ!!ざまぁみやがれ!!!・・・・・・・・」

写真・赤と黄色の抽象写真.JPG

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黒電話の時代 [毒母]

私が中高生時代は、黒電話の時代だった。
その頃、しばしばこんなことがあった-----。

ある日、学校へ行くと友人の一人が、「昨日どうして電話くれなかったのー?」と 眉をハの字にして言い寄ってくるのである。
私は何のことやら解からずに「???」という顔をしていると、
「昨日電話したらお母様が出られて『ぼんぼちはまだ帰ってないんですよ。帰ったらこちらからかけさせますからねー』って仰るから かかってくるのずっと待ってたんだよ。 どうしてかけてくれなかったの?」
----私は母から 何も聞かされていなかったのである。

黒電話1.JPG帰宅し母に、「昨日○○さんってコから電話があったでしょ」と言うと、母は「そーいやぁ、そんな電話があったかねぇ」と めんどくさいったらないと言わんばかりの口調で答える。
「どうして伝えてくれないの?」
すると母は、まなじりをつり上げ「なーんで おめーにかかってきた電話をいちいち報告しなくちゃならないんだよっ!」と怒鳴る。
「『帰ったらこちらからかけさせます』って言ったんでしょ。 だったら伝えてもらわないと。 向うは待ってるんだよ。 伝えないんだったら『かけさせます』なんて言わなければいいでしょ」。
と、母は般若のような形相になり、「おめーは親に指図をする気かーーーっ!! アタシはおめーのお手伝い黒電話2.JPGじゃなーーーーいっっっ!!! この親不孝者がぁぁぁーーーーーーっっっ!!!」
地団太を踏み金切り声をあげ 殴りかからんばかりに激怒するのだった。
それ以上何を言ったところで 状況は悪化するばかりなので、私は黙るしかなかった。

そういうことが、数知れずあった。
必ず「かけさせます」と言いながら、母が私に友人からの電話を伝えたことは 一度たりともなかったのだった。
電話の内容は、デザインの授業の課題についてや部活の打ち合わせなど いずれも必要があってのことだったので、私は非常に困った。友人にも迷惑がかかった。
その頃はまだ、「世間体」というものを気にしていた年齢だったので、「母が何も伝えてくれないのだ」とは、友人に言えなかった。

タグ:黒電話 伝言
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父と母の仲 [毒母]

これまで私は何度となく 母親に酷い虐待を受けてきたことを吐露してきましたが、今日は、母は父とはどんな様子だったのかを綴りたいと思います。

まず、何故 父と母は結婚したかを簡単に説明します。
父はオーケストラのバイオリンニストだったのですが、クラシックの仕事だけでは食えずに、テレビの歌番組のバックのオーケストラのアルバイトをやってしのいでいました。
今でいうと、ギタリストだけど自分のバンドが売れないからアイドルのバックバンドをやって しょっちゅうチラチラテレビに映っている といった所でしょうか。
加えて父はルックスが良かったので、ミーハーな女にはずいぶんとモテていた様で、常に周りにたくさん女がおり、母もそんな中の一人でした。

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と、母は、望まぬ妊娠をしました。
それをチャンス到来とばかりに利用して、父を一人占めしたいがために 「産んでいいよ」と言わない父を無視して、子供嫌いだったにも関わらず 強行突破で勝手に一人で私を産み「これ、アンタの子だから責任とってよ!」とやったわけです。
父はしぶしぶ 私が十八才になるまでという期限付きで入籍し、私が三才になる頃には歌番組のバイトでも母と私を養いきれなくなり 全く別の仕事を始めました。
私の記憶にあるのは、父が別の仕事を始め、経済的にぐんぐん豊かになりつつある頃からとなるのですが、その頃から離婚するまで、母は、父が傍にいる時は しじゅうこんな言動をぶつけていました。

「昔は痩せててカッコ良かったのに今じゃ豚みたいに太って醜くなった! あー!まったく騙されたもんだよっ!」
「ヨーロッパ旅行に連れて行くって言ってたのに いつも国内ばっかりだーーーっ!この嘘つきがーーーっ!」
「アタシは世の中で一番サイテーな男と結婚するハメになった世の中で一番可哀想な女だぁっ!」
母が父のために料理を作ったことは一度もなく、鰯を甘じょっぱく煮たものなど 父は自分が食べたいものは自分で作って食べていたのですが、それを横目で見ては
「おーおーおー! また不味いもん作って食いやがってよー!」
と嘲笑し、私が食べようとすると
「あんなもん不味ーーーい! 食うなーーーっっっ!」
と、食べさせてくれませんでした。
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父は、私が小学四年の時から会社経営を始めたのですが、母は経営のノウハウなど何一つとして解からないのに、
「大卒は甘チャンだから入れるなーーーっ!入社させるのは中卒か高卒だけにしろーーーっ!」
と命令したり、社長室の椅子にふんぞり返って座ったり、家族旅行に若い社員を運転手としてアゴで使ったりしていました。
又 夜になると、「ギャーーーーーーーーッ!!!」と奇声を上げながら ヤカンを床に叩きつけては拾ってまた叩きつけて・・・・を二時間くらい繰り返していました。
母が父に対して 優しい言葉どころか普通に話しかけたことは、私の記憶にある限り ただの一度もありませんでした。

そんな母に対して父は、いつも何も答えずにヘラヘラッと笑っていました。
私は漠然と「これが当たり前の夫婦」だと思っていたので、その様子を見ても 別に辛いとも悲しいとも思いませんでした。
むしろ父が傍にいる時は 怒りの矛先が父に向いていて私は母に殴られる可能性が低いので、そういう意味で嬉しかったです。

今思い返すと、父はよくこんな母親と入籍し 十八年間もの間辛抱してくれたものだと感心します。
私だったら 認知して養育費だけを送って他人のままでいます。
父が右に出る者がいないほどの楽天的な性格だったおかげで、十八年間、一般的とは言えなくとも家族でいる事がなんとか保てていたように思います。

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