虐待という現実をより解っていただく為に [毒母]

これまで私は、およそ十年間に渡り、当ブログのカテゴリー「毒母」にて、母親に虐待をされてきた体験を綴ってきました。
結果、多くのかたに そういった現実があった事を理解していただけ、私が綴ってきた事は無駄ではなかったと 実感しています。
そして今回は、それらのまとめとして、より虐待の現実を解りやすく考えていただける考え方を 提示したいと思います。

今現在、週に一度とおかずと言っていいほどに、実母の子への虐待のニュースが、テレビやネットを通じて報道されています。
こういったニュースを聞き・読みして、多くの方は こう首を傾げられているのではないでしょうか?
「虐待があるという事実は認識できる。嘘だとは思わない。 けれど、どうして実のお母さんが我が子を? 何故 お母さんなのに子供にそんなことが出来るの? お母さんなのに、、、そこが理解出来ない、、、」と。

これがもし、他人同士の金銭トラブルでの殺人だったり 人情沙汰の末の殺人だったりしたら、「あー、世の中には、こーいうとんでもない奴っていうのがいるんだよねー。怖い怖い!」と 納得されるのではないでしょうか?
ところが、実母の子への虐待は、「どうして?解らない、、、」。

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それは何故かというとーーー
「お母さん」という言葉の持つイメージのマジックにあるのだと、私は分析しています。

言葉には、それぞれ 同じ意味を示す言葉であっても どの語を使うかで、頭の中に広がるイメージが大きく違ってきます。
例えばーーー「サーロインステーキを食べた」と「殺された牛の肉の一部を食べた」は、全く同じ意味の内容を示していますが、イメージ・受ける印象がまるで違いますね。
それと同様に、実母の子への虐待のニュースを知った時、多くの人は、無意識のうちに「お母さん」という言葉の持つイメージで 出来事を組立てようとしているのだと察します。
毎朝、トントンと味噌汁を作ってくれるお母さん。 「学校に遅れるよー」と起こしてくれるお母さん。 おにぎりを握ってお弁当を作ってくれるお母さん。 百点取ったら「偉いねー」と褒めてくれるお母さん。 イジメっ子にイジメられたら慰めてくれるお母さん。 病気になったり怪我をしたら介抱したり手当てをしてくれるお母さん。 自分自身よりも子供を優先して考えてくれた自分のお母さん。 いつも優しかった従兄弟のお母さん。 笑顔で迎えてくれた友達のお母さん、、、、
その為に、多くの人は、頭の中でつじつまが合わせられなくて「どうして???」と なってしまうのだと思います。

試しに、「お母さんが自分で産んだ子供を虐待した」の「お母さん」という言葉を「アバズレ女」に置き換えて考えてみましょう。
「アバズレ女が自分で産んだ子供を虐待した」
どうです?
だいぶ、「どうして???」という疑問は薄らぎ「あぁ、そういうとんでもない女もいるよねー」と 納得できるようになられたのではないでしょうか?
「アバズレ女」は いささか古い言葉なので、お若い方は「DQN女が」と当て嵌めてくださると しっくり来ると思います。

ーーー尚、誤解のない様に一言しておきますが、ここでは、アバズレ女・DQN女をやっていた女性全員が子供を産んだら虐待をする という事を言っているのではありません。
アバズレやDQNでも、子供を産んだら人が変わった様にまともな子育てに邁進する人もいるし、逆に、アバズレやDQNでなかった女性でも、産んだとたんに人格に変調をきたし 虐待に走る人もいると思います。
要は、「お母さん」という言葉のイメージのマジックに惑わされないでいただきたい、その為には、こういった語を当て嵌めてみると解釈しやすいです、という事が言いたいのです。

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私が幼かった頃は「スパルタ教育」という言葉が流行りました。
「スパルタ教育」の語の持つイメージは、「正義感の強い知性ある立派な親のやる行為」でした。

幼かった私は、路上やデパート内で しばしば母親に「歩くのが遅せーっ!」「キョロキョロしてんじゃねーよ!」「今、独り言言ったろー!」といった理由付けで、ボコボコに殴られ蹴られ、その場に倒れ込み 鼻血を流していました。
周囲を歩いていた人や店員さんは「なんだなんだ?!」「かわいそーに」と集まって来ましたが、母親が、「この子はアタシの子なんです!アタシが産んだんです!アタシはスパルタ教育で育ててるんです!ほっといてください!!!」と怒鳴り散らすと、倒れ込んでいた私を囲んでいた足足は、スーーッと 潮が引くが如くに離れてゆき、私は「このまま私が死んでも誰も助けてくれないんだ、、、世の中って、そういうものなんだ、、、」と その度に痛感し、そう刷り込まれて育ちました。

ですから虐待の現実がここまで明るみに出ている現在、みなさんが もし 街なかで、かつての私の様な状況に置かれている子供に遭遇したり、近所で、子供の泣き叫び 母親の狂気の奇声 ドスン!バタン!という床や壁に叩きつけられる音を聞いたら、「お母さん」という語のイメージを捨てて 勇気を持って警察に通報して欲しいと願います。

カテゴリー「毒母」にて綴ってきた私の虐待体験記は、今回のまとめ記事を以て 一応 終了とさせていただきたく思います。
非常に微力ながらも、この十年間で 折を見て公開してきた私の虐待体験記が、ほんの僅かでも 今現在虐待されている子供、ひいてはこれから先 虐待される子供が一人でも救われるきっかけになってくれれば幸いです。

加えて、だらしのない性の快楽の末に望まぬ妊娠をしてしまった若い女性に、その女性がどんな女性であるかをよく知りもしないのに「せっかく授かった生命なんだから、産みなさいよ。産めば可愛く思えて何とかなるものよ!」等という無責任な発言は、絶対にしないでいただきたいと 強く願います。
なんとかならなかった事例は、冒頭に述べた通り 週に一度とおかずに次々と判明しているのですから。
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毒母が強要した私の結婚相手の条件 [毒母]

今回は、私の毒母が、私が25才になった時に強要してきた 私の結婚相手の条件の話しを吐露しようと思います。
長く私のブログを読んで下さっている方々は十二分にお解りの事と思いますが、最近になって読者になってくださった方や 初めてこのブログを読まれる方は 訳が解らないと感じられるとお察しするので、先ず簡単に、私が産まれてから25才まで母親にされてきた仕打ちを説明したいと思います。

母は、子供嫌いだったにも関わらず、モテた父を独り占めしたいが為に、父の気持ちに反して 強引に 出来ちゃった結婚ならぬ産んじゃった結婚を決行しました。「これ、アンタの子だから責任取ってよ!」と。
したがって母は、本妻の座は獲得したものの 父の女性好きは変わらず、複数人 愛人さんを囲い、その苛立ちと 私を産んだ事への後悔を、全て 私への心身ともの虐待という形で私にぶつけて 憂さ晴らしをしていました。

私が18才になった時、結婚時の約束通り、父は母と離婚し 愛人さんの一人を本妻にしました。
私は、高校を出たら、ファッションの学校に進み 卒業したら舞台衣裳を作る仕事に就くのが幼稚園の時からの夢でしたが、母は私に「画家になってアタシに月々100万渡せ!」と強要してきました。
母の言い分は「別れたパパからは家をもらっただけで月々の金は一銭も受け取らないから、おめーがアタシを養え!18過ぎたら子供が親を養うのは当たり前の親孝行だ!」という事でした。

物事ついた頃から心のどこかで疑問を感じながらも 絶対的強者として母に対していつも怯えて 自分の考えのほうが間違っているのではないかと考えていた私は「確かに ファッションの専門学校で勉強をし 学費と生活費を払い、その上で月々100万を母親に渡すのは無理だ、、、」と 仕方なく母の言いなりに画家になりました。

何故 母が私に画家という職種を強要したかというと「好きな仕事をして親を養うのは親孝行にならねぇ!嫌いな仕事をしてこそ親孝行だぁっ!」という持論で、後々思い返すと、それも精神的虐待の一つだったのでした。
悲しいかな事実、美術高校を出たばかりの18才の私にまとまった金を稼げるのは、絵を描く事しかありませんでした。

画商と契約をし、日曜も盆も正月もなく 来る日も来る日も毎日18時間 寝る前も惜しんで画家の仕事をしましたが、どう頑張っても月に30万前後しか稼げませんでした。
母親は、30万のうちの殆どをむしり取り「18になって100万稼げないなんて何てダメな親不孝な娘なんだ!」と 般若のような顔でののしりました。

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そんな生活が続き、私が25才になった時ーーー
母は、突然 こんなことを怒鳴りました。
「おめー!25才になっても結婚してねーなんて、世間体が悪りぃー!アタシが猶予を与えるからその間に出逢いから入籍までやって来ーい! んでっ、おめーの結婚相手の条件は、、、」
条件は、以下の通りでした。

1. そいつ(結婚相手)は自分の嫌いな事を仕事にして 月々100万アタシに仕送りする事!
好きな事を仕事にして稼いだ金は、200万だろうが300万だろうが親孝行にならねーっ! 必ず嫌いな事を仕事にする事!
2.  嫌いな仕事で100万以上稼いだら、200万でも300万でもアタシに渡す事!
100万以上稼いだからって、洗濯機 冷蔵庫 テレビ アイロン エアコン 家具 なんかの贅沢品を買ってはならねぇ!
四畳半一間のボロアパートに住んで ちゃぶ台代わりにみかん箱を使え!(ーーー時代は1980年代半ば、庶民の殆どの家庭に普通に電子レンジまである時代でした)
3. そいつの見てくれは、元野球選手の江本みたいな男がいいーっ!
ジュリーみたいに背が低くて気持ちの悪りぃ顔の男を連れてきたら 追ん出してやっからなーっ!(母親は、私がジュリーのファンだと知っていたから)
4. そいつの両親や兄弟には、一度たりとも逢わねーっ!
5. 子供が産まれても 一度たりとも連れて来るなーっ! アタシは昔っから子供が大っ嫌いなんだーっ!
6. 結婚式・披露宴を挙げるなんて、とんでもねぇ親不孝な行為だっ!
そんな金があるなら全額アタシに渡せーっ!
毛玉の付いたカーディガン一枚の普段着で、籍だけ入れに行けっ!
7. 猶予は一週間! おめーに一週間時間をやるから、その間に この条件に当てはまる男を見つけて入籍までやって来い!
その一週間だけ、画家の仕事はやらないで宜しい!

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私は、怒りで反発するのを通り越して、呆れ返って返す言葉もありませんでした。
加えて、偶然 上の母の条件発言と前後するタイミングで、母は父から30万より遥かに多額の金を月々送ってもらっており、父は私にも まとまった金をくれていたのを、母は私に秘密で一人でがめていた事も発覚しました。

私は、これまで自分がやってきた事のあまりの馬鹿馬鹿しさにハッキリと気付き、もう母に怯えるのは止そう! 猿回しの猿のように、心で泣きながら 毎日言いなりになって自分を犠牲にするのは金輪際終わりにしよう! 強くなろう! と心に決めました。

そして、画家の仕事は画商との契約があるので、プツンと辞める訳にはいかないから、徐々に受ける注文を減らしてゆき、辞められる時が来たら辞めさせてもらおう。
画家を辞められた時点で、父からもらった金を元手に家を出て一人暮らしをしよう。
母親には、今月からもう金を渡すのは止めて、家を出るまでの間、やりたくても我慢してやらなかった 喫茶店でくつろぐ事や原宿で買い物をする事やライヴハウスに音楽を聴きに行く事を、仕事を減らした時間で楽しもう!と思い、それを始めました。

すると母は「当たり前の結婚すら出来ねーなんて、おめーはなんてダメな親不孝な娘なんだ! アタシは世界で一番、みじめでかわいそうな母親だ! これじゃあ産み損だっ!」と 大仰に 悲劇のヒロインぶって泣きわめきました。
それまでも、幼かった私を「産みたくもねーのに勝手に産まれてきやがってー!」と 私の記憶がなくなるまで殴り続けたり、奇声をあげながら ヤカンを床に投げつけては又拾って又投げつけて、、、を2、3時間繰り返したり、と メチャクチャな人でしたが、それに幾重にも輪をかけたようなキチガイじみた言動に及ぶようになりました。

普通に立って歩ける状態なのに「熱が42度あるから入院させて下さい!」と 救急車を呼んだり、私が二階で仕事をしていると「娘が家じゅう破壊してアタシに包丁を突きつけています!殺されそうです!助けて下さい!」と パトカーを呼んだり、「ウチには18過ぎた娘がいる。買い取ってくれ。安くてもいい。嫌がって泣き叫んでも構わずに縛って連れてってくれ」と 隣街のソープに交渉に行ったり、私が冷蔵庫をかがんで覗いていると、「ギャーーーッ!」と言いながら走ってきて、私に馬乗りになり 私の髪をぎゅうぎゅう引っ張って「おー!おめー! 女同士 アタシと対決しよーじゃねーか!」と 意味不明の挑戦状を叩きつけてきたり、何にもぶつけていないのに、片手の手の甲をさすりながら「ほーら、見ててごらん。今に見る見るアタシの手は黒ーくなってくるよ」と 奇妙奇天烈なつぶやきをしたりするようになりました。

私が家を出て約1年後、母はクモ膜下出血で突然死に、私は別世界の如く静かになった家で再び暮らす事となりました。
後、私は好きになった人と結婚をして 嫌になったら別れて、、、を自分の意志で二度ほど体験し、今は一人で 自由気ままに生活をしています。

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幼稚園児の時、駅の階段から落ちた話 [毒母]

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私は母親に、物心ついた頃から 殴られる以外に触れられた記憶が一つもない。
日頃から ちょっとでも母親に近づこうものなら「おめーは醜くて臭いから、近寄られると気分がワリ〜イ!近づくなーーっ!」と 嫌悪感をあらわにされて怒鳴られていた。
母親の買い物のお供をする時も、五歩くらい下がって歩いてゆくのだった。
尤も母親は、幼児の歩調に合わせてゆっくり歩いてくれる筈もなく、大柄な自身のペースでずんずん歩を進めるので、五歩くらい後からついてゆくのが精一杯だった。

そんな日常のある日ーーー
確か、幼稚園児の頃だったと思う。
電車に乗ってデパートかどこかへ行った帰りに最寄りの駅に着き、駅の階段を降りる時のことだった。
ホームから踊り場までの上半分の階段は、何とかヨチヨチと降りられた。
が、踊り場から一歩足を踏み出したとたん、バランスを崩し、ちょうど立て膝の姿勢で 膝で、ガッ!ガッ!ガッ!ガッ!ガッ!ガッ!ガッ!ガッ!、、、と、地面まで落ちてしまったのだった。
落ちてゆく最中の恐怖と落ちきった後の膝の痛さは、尋常ならざるものがあった。
私は地面に倒れ込んで 動けなかった。
と、「みっともねーーっ!このっ!恥っさらしめがーーっ!!」
母親の声が飛んできた。
そして母親は、ずんずん家の方に歩いて行き、見えなくなってしまった。
私は、なんとか起き上がった。
両膝は、表面は 擦りむいて血が滲んでいた程度だったが、膝小僧全体が深い部分まで酷く痛かった。
最寄り駅から家までの道順は解っていたので、私は足を引きずりながらも、何とか家に辿り着いた。

母親は玄関の扉には常に鍵をかける人で、私はまだ鍵を持たせてもらえない年齢だったので(鍵を持たせてもらえたのは、小学一年からだった)玄関扉の前で「開けてー!開けてー!開けてー!」と叫んだ。

しばらくして、母親は鬼の様な形相で扉を開け「このっ!ノロマがっ!アタシに恥をかかせやがって!!」と怒鳴りつけ、自分の部屋に引っ込んで行った。
私の膝の具合はどうかと尋ねるどころか、膝をチラリとも見なかった。
私は、風呂場に行き 膝の血と埃を洗い流し、救急箱を取り出して赤チンを塗った。

擦りむきは そう間もなくかさぶたになり治ったが、膝小僧全体は 何週間経っても痛かった。
その旨を母親に訴えても、母親は、整形外科に連れて行ってくれることをしなかったどころか、「このノロマがーーつ!!その甘チャンの根性を叩き直してやるわーーーっ!!!」と 殴りかかってくるのだった。

風邪で熱を出して寝込んでも 看病してもらえたことは一度もなかったし、私の幼少の頃の母親との関わりの記憶は、こんなことばかりである。

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タグ:虐待 毒親 毒母
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新宿・思い出横丁デビューの年令 [毒母]

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新宿西口ガード脇に在る 闇市発祥の庶民的な飲み屋街「思い出横丁」ーーー、東京あるいはその近郊にお住まいの酒好きのかたなら 一度は訪れたことがあると思う。

その思い出横丁、みなさんは、初めて訪れたのは何才の時だっただろうか?
上京して学生になって早々の18才? 社会人になって大人の仲間入りをした22才? それとも一通りの飲み屋を経験してからの30代?
ーーー思い出横丁デビュー、私の年令より早いかたは、まず おられないのではないだろうか?
何故なら、私の思い出横丁デビューは、0才マイナス10ヶ月だからである。
つまり、母親の胎内に宿ったその時点からすでに、母親の腹に運ばれて通っていたのである。

思い出横丁、当時は「ションベン横丁」と呼ばれていたそうである。
小便の匂いのする様な 薄汚い下品な飲み屋街だったからだそうだ。
中野の鍋屋横丁に住んでいた母は、都電に乗って 夜な夜なションベン横丁に飲みに通っていたそうだ。
私を妊娠していることが判ってからも 腹が大きくなって臨月になってまでも 通い続けていたそうだ。
私を産んだ期間だけ休み、再び動けるようになるや、又 ションベン横丁通いを復活させたとのことである。

私が産まれて間もなくは、まだ寝転がっているだけで 這って移動しないので、バーのカウンターの椅子の上に乗せて 隣の椅子で飲んでいたそうだが、しばらくして 這って移動するようになると、カウンターの椅子には置いておけないので、中野のアパートに閉じ込めて 飲みに通ったそうだ。

中野のアパートは三畳一間で私は6月産まれだったので、毎夜 閉じ込められるようになった時期に真夏の盛りが来て、私の身体は運動不足でぶくぶくに太り 肌はあせもでぼろぼろになったという。
母はよく その頃のことを「元々産みたくもねーのに産まれてきやがってよー! 醜くて臭くて見るのも触るのも嫌だったわあー!」と いかにも汚いものを思い出すように吐き捨てていた。

ションベン横丁から思い出横丁へと健全なイメージに改名され、多くの店が入れ替わったに違いない今も、私は、この横丁を訪れる度に、母がしばしば吐いていた言葉を思い出し、自分のルーツはここにあるのだと 濁って底の見えぬ水面動かぬ沼の如き思いに縛られる。

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虐待する親の心理 [毒母]

ここのところ一記事おきに 私や弟が虐待された過去を綴ってきましたが、今回は、「何故、母親は 自分の産んだ子供でありながらも虐待していたのか」を、虐待された側から 少し客観的に 分析・考察しようと思います。
----なお、これは私の母親一人を 観察・分析した末の私なりの答えであり、多数の統計をとった結果ではありません。
けれど、私のこの考察が、「一体 何故?」と首を傾げているかたや 行政の虐待防止対策担当のかたの参考に少しでもなれば・・・・・と思います。

何故、実の子を虐待するのか----?
端的に一言で言い切ると、「常軌を逸してエゴイズムが強いから」 です。
常軌を逸してエゴイズムの強い人間というのは、まともに考えると200%本人が悪いに決まっていることを、呆れ返るようなおかしな理屈をつけて、周囲の人間が悪くてその為に自分がこうなった、自分は被害者だ、と考えます。
例えば----
盗み癖の治せない人は、「充分な給料をくれない会社が悪いから 自分が盗みをしなければならない心に追い込まれた」とか 「盗まれても仕方のないような陳列をしていて 盗みをしたくなるような気持ちをあおりたてた店が悪い」などと。

実子を虐待する母親の心理構造も同じです。
「産みたくもないのに勝手に産まれてきやがった。(本当は、恋人でもなかった父と だらしのない快楽の末の妊娠をきっかけに 父を一人占めする手段として勝手に一人で産んだ) この子が産まれた為に 自分はそれまでのように遊びまわれなくなり 女としての肉体の魅力も激減してしまった。 だから、こんな状態にした子供が悪い。 この子が加害者で自分は被害者だ。 よって、被害者は加害者を苦しめる必要がある。 自分にこんなに苦しい思いをさせておいて 加害者が幸せになるなんて許せない。 被害者は加害者を 売ろうが殺そうが自由な権利がある」 という理屈です。
つまり、自分が産んだからこそ よけいに憎いのです。

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常識のある人が聞くと、「何おかしな理屈こねてるんだ?」と 開いた口がふさがらない理不尽な理屈ですが、言っている本人は いたって真剣なのです。 世間や法律のほうが間違っていると言い張りゆずらないのです。
----そう、常軌を逸してエゴイズムの強い人間というのは、精神が「まともな大人」ではないのです。
本来なら、社会の中に野放しにされていてはいけないのです。

かりに、やらかすことが先に挙げた「盗み」のような類のものであれば、すぐに社会から隔離された環境におかれます。
しかし、実子の虐待というのは、家庭という閉ざされた空間の中で行われ、みなさんもご存じの通り、親の子に対する虐待が表面化してきたのは ほんのごく最近のことで、私(1962年生まれ)の子供の頃は「スパルタ教育」という隠れ蓑の元に やりたい放題でした。

子供の側も、中学生くらいになれば疑問を感じてきますが、小学生くらいまでのまだ小さい頃は、世の中を俯瞰などできる筈もなく、「自分の家庭が当たり前で親の発言が正しい」と 刷り込まれてしまうのです。
虐待されずに育ったみなさんの中にも、小学生くらいまでは、親が、「ウチは普通だ」と言っていた為に、「何もかも自分の家庭が普通だ」 と思っていたかた、少なくないのではないでしょうか?

それと同じように、虐待されている子供も、「親の言っている・やっていることが正しくて 悪いのは自分だ」と思ってしまうのです。
だから、どれほど辛くとも 殺されかけようとも、親戚や児童相談所に逃げ込もう という発想はつゆ起こらないのです。
そういった理由もあり、常軌を逸したエゴイズムの強い人間のやらかすことが実子の虐待である場合は、今でも表面化しずらいのです。

この時点で 多くのみなさんは、「なんでまた常軌を逸したエゴイズムの強い人間というのが出現してしまうのだろう? そういう人間は、どういう生まれ育ちをしたのだろう?」と 不思議に思われているのではないかと察します。
----あくまで、私の母親の場合ですが・・・・
母親は、7人だか8人兄弟の末っ子で、何でも特別扱いで わがままし放題に甘やかされて育ったそうです。
それで、幼児の状態で精神の成長が止まり、そのまま年だけ取ってしまったものと思われます。

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通常は成長をしてゆく過程で、自分が我慢しなければならない忍耐力や 相手を思いやる感情を学習し、社会に適応してゆきます。
しかし、常軌を逸してエゴイズムの強い人間というのは、精神レベルが幼児のままですから、周囲の都合や気持ちなど何一つとして考えずに、幼児さながらに 泣きわめいたり癇癪を起したりし、最も身近にいる弱者(子供)を サンドバックがわりに殴りつけ 負のエネルギーを発散させます。
まるで幼児と同じで、自己抑制がきかなくなってしまうのです。

あまりの大きな負のエネルギーの為に、手指の関節は硬直して曲らなくなり 膝もつっぱって曲がらなくなり  目は釣り上り充血し 奇声を発し 自分の気持ちがスッキリするまで---およそ2時間くらい---子供を殴り続けます。
そして知能は低いわけではないので、自分を都合よく正当化する理由づけが、思考回路の中でできあがってしまうのです。
だから、「産みたくもないのに云々・・・・」というおかしな理屈は、本人は気づいていないけれど、後付けの理屈なのです。
末っ子でわがまま放題に育てられた人が全員 こういう人間になるとは限らないのでしょうけれど、私の解かる範囲で 母親に関して思い当たる理由はこんなところです。

常軌を逸してエゴイズムの強い人間は、つまりは自分が幼児で自分の面倒すら見られないのですから、子供の面倒を見られるわけがありません。
そういう人間に対しては いくら「子供さんを可愛がってあげましょう!」「子供を虐待してはいけません!」などと声掛けしたところで 焼け石に水なのです。
子供と引き離して生活させるのが 最良の手段なのです。

以上、「何故、母親は実子を虐待するのか」を 私の母親のケースで分析・考察しましたが、質問・疑問をお持ちのかたいらっしゃいましたら、お答えできる限りお答えします。
この記事が、世の中から 虐待される子供が一人でも減るきっかけの一つになってくれたら幸いです。
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母親が弟を見殺しにしようとした一件 [毒母]

私が18才の時、父と母は離婚し、父は複数人囲っていた愛人さんの一人を本妻にした。
母が言うには、以降 父からは一銭も金をもらわないから という理由で、私に 画家をやって月々100万稼いで生活費として入れろ!と要求をしてきた。 それが当たり前の親孝行だ----と。
虐待されて育った私は疑問を感じながらも、とても月100万は稼げなかったが、画家になり 眠る時間も食べる時間も削って 母に渡せるかぎり金を渡し続けていた。

ところが、私が26才になった時、母は父から サラリーマンの人が稼ぐくらいの金額のお金を月々送ってもらっていたことが判明した。 のみならず、父は私にもまとまったお金をくれており、それを母は私に秘密でがめていたことも判った。
それで私は、自分がやっていることがあまりにも馬鹿馬鹿しいとハッキリと認識し、画家の仕事を大幅に減らし、稼いだ金は、その間行きたくてもがまんして行かなかった 原宿やライヴハウスやカフェバーに行き 遊び使うことにした。
もうこれからは、母親に殴られたら殴り返してやろう! 金をうばわれたらうばい返してやろう! 父が私にくれた金も全額取り戻してやろう!  そして、画家の仕事にキリがついたところで画家を辞め、家を出て一人でアパート住まいをしよう! と決意した。

すると母は、私を隣町のソープに、「18才過ぎた娘がいるから買い取ってくれ」と交渉に行ったらしいが、そんな阿呆な交渉はソープの店員が相手にする筈もなく、家に帰ってさんざん癇癪を起し、今度は「月々100万稼いでアタシを左団扇させろ! それが当たり前の親孝行だ!」の矛先を 私の4才年下の弟に向けた。

弟はその時、大学生だった。
行きたくて行きたくて二浪までしてやっと入った 語学の大学だった。
弟は私のようには虐待されずに育ったからか 母親のことが大好きで、小さい頃からいつも必死に 母親のご機嫌取りをしていたので、月々100万稼いで母に渡す ということに挑戦し、なんと!それをやってのけたのだった。
塾の講師と道路工事とホストのバイトを掛け持ちでやって。
大学のほうは、授業に出る時間も授業料を払う余裕もなくなり 辞めてしまった。
毎日 朝早く家を出、夜更けに帰ったり あるいは一晩中帰らないこともしばしばになり、私は全く弟の顔を見なくなった。
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そんなさなか----
私は画家を辞めるタイミングが掴めたので辞め、父からの金の一部を元手に アパートで一人住まいを始めた。
それを知った父は、私に月々 生活費を送ってくれることになった。
母は、父が直接 私の口座に振り込むのを許さず、一旦 母に送り、自分が私のアパートに現金で持って行く と言い張りゆずらないので そうすることとなった。
再び私に対し なんだかんだ言いたい為にその方法をとったのは見え見えだった。

月々、母は、父からの金を持って 私の住むアパートにやってきた。
予想外に おとなしく金を渡し おとなしく帰って行った。
それが何カ月かくり返されたある月、やってきた母はこう言った。
「おめぇ、しばらくアタシをここに泊めておくれよ。 ○○(弟の名)は、バイトも全部やめちまって 金も入れなくなって、体重が38キロになっちまったんだよ。(身長は176センチもある) 家から出られる体力もなくなっちまったんだよ。 それでアタシに三度三度 手料理を作れって言うようになっちまったんだよ。 アタシの手料理じゃないと食わないんだよ。 作らないでいると、アタシを殴ったり包丁向けて脅して『作れ!』って言うんだよ。 アタシゃ 料理なんか作るの嫌なんだよ。あの子の面倒見るのなんか嫌なんだよ。 よぅ、おめぇ、何週間か ここに泊めておくれよ。 そしたらあの子はそのまま飢え死にするから。 現金も貯金通帳も全部持ってきてて 家には一銭も置かないで来たんだから」
それまで 私には向けたことのない猫撫で声を出した。
弟はどうやら、張りつめていた糸が プツン!と切れてしまったらしかった。
心身共に限界に達し、心の奥底にあった願望が噴出したらしかった。

母は、私達一家が福岡に住んでいた頃は、近所に レストランも食堂もファーストフード店もなく 私も小さかったので、嫌々ながらも家で母が作るしかなく 作っていた。
しかし、国立に越してきてからは、レストランも蕎麦屋も中華屋もマックもケンタも弁当屋もあったので、全くと言っていいほど 料理を作らなくなった。
家で作る時は、母の命令で小学生の私が作ったり、家族各々が 紀ノ国屋のステーキを焼くくらいだった。
私は福岡の記憶は充分にあり、母の作る料理がどれほどいいかげんで手抜きで不味いか解かっていたので もう母の手料理はこりごりだと思っていたが、弟は幼すぎて福岡の記憶が殆どなく、つまり 母の手料理の味を知らずに育ったので それを強く欲したらしかった。

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私が思わず、「飢え死にさせるなんて ○○(弟の名)がかわいそうだ!!」と叫ぶと、母は 事もなげにこう吐いた。
「何言ってるんだい!アタシが産んだんだよ。 アタシが産んだんだから 売ろうが殺そうが自由じゃないか!」
私は この人間と 理論的会話が通じないことは火を見るより明らかだと思い知っていたので、とにかく部屋には入れずに金だけふんだくり、「帰れ!」と 怒鳴った。
「帰れ!」「泊めてくれよぅ」「帰れ!」「泊めてくれよぅ」「帰れ!」「泊めてくれよぅ」・・・・・・
長い押し問答の末、ようやっと母は、トボトボと帰って行った。

アパートへはもう金を持って来なくなるだろう・・・・と思っていたら、翌月 来た。 その翌月も、そのまた翌月も。
おとなしく金を手渡し おとなしく帰って行った。
が、母の顔は一ト月毎に 不健康にやつれ 痩せていっていた。
どうやら、弟に殴られ包丁を突き付けられ、嫌々仕方なく 大嫌いな料理作りをしているようだった。

それからほどなくして----
「母、くも膜下出血でキトク」という知らせが入った。
そして脳死状態を経て、ちょうど一ト月後に心臓死に至った。 52才だった。
弟は痩せこけてフラフラではあったが、外出できるくらいには体力は回復していた。
母の死を看取るや、弟はどこかへ消えてしまい、通夜にも葬式にも現れなかった。

葬式が済んで何日か後----
弟は浮浪者のようなボロボロのなりで帰ってきた。
4度 自殺を試みたが死にきれなかった、と言った。
病院の先生が、くも膜下出血の原因はストレスも大きいって説明していたから、ママが死んだのは僕のせいに違いない。 だから 僕も生きてるわけにはいかないと思った----と。

それから----
長い長い時間をかけて、弟は、心と身体の健康を取り戻していった。

今回の記事、大変 長くなってしまいましたが、読んでくださりありがとうございます。 
読んでくださったみなさま、心より感謝します。

コンクリ2.JPG

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母親に受けた暴力以外の虐待 [毒母]

膀胱炎.JPG

私は過去記事にて、母親に虐待をされて育ったことを幾度となく綴ってきたが、今回は、暴力以外に受けた虐待について吐露しようと思う。
暴力以外の虐待-----
それは、一日中、トイレに行かせてもらえなかったことである。

我が家は、私が小さい頃から 旅行などで遠出をする時は、たいてい車移動だった。
当然、道中、ドライブインやガソリンスタンドなどに寄り、普通はそこで用を足す。
しかし、父や弟や母親自身が、自分が行きたいタイミングでトイレに立っていたのに、私だけは母親に 行くことを禁じられていたのだ。
「食事の前や途中で 女がトイレに立つのはみっともねぇー」 という理由をつけられて。
食事が終わって 又はガソリンスタンドで行こうとすると、母は、「時間がないーーっ! 早く車を出せーーっ!」と 父に命令し、母に言われるままの父は、「わかったよ」と 車を走らせるのだった。
私が、「ママは行きたい時にトイレに行ってるじゃない」と言うと、「なんだとー! おめーは親に口ごたえすんのかーっ! この親不孝者がーーーっっっ!!」と 殴りかかってくるのだった。
私がトイレを我慢して苦しんでいるのを見て、母親はいつも 愉快きわまりないといった様子で ゲラゲラと笑い転げていた。

そんな苦しい旅行が何度かあった後----
下腹部が痛み 排尿するとツーーンと全身に激痛が走り 残尿感があり いつもトイレに行きたい感じ-----そんな症状が出現した。
病院へ行くと「膀胱炎です」と診断された。
トイレを我慢しすぎたことが原因だった。 小学2年の時だった。
病院で処方された抗生物質を飲むと 一週間で治ったが、母親は こう吐いた。
「膀胱炎くらいで病院行くんじゃねーよ!この根性なしめがっ! こっちは おめーに妊娠させられて子育てさせられてんだよ! 妊娠すんのは死ぬほど辛くて 子育てすんのは死ぬより辛いんだよ! おめーはアタシにそれをさせてんだろーがっ! アタシの苦しみに比べたら おめーの膀胱炎なんて屁でもないだろーがっっっ!!」
----妊娠させたのは私じゃないのに・・・・・

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その後も旅行の度に、私はトイレに行かせてもらえず、その度に膀胱炎を発症し、その度に先の暴言を浴びせられた。
家族旅行は私が小学6年まで続いていた我が家の行事だったので、トイレに行かせてもらえない苦しみも 母親のゲラゲラ笑いも その後の膀胱炎も 暴言も、毎度のこととしてくり返えされた。

私が中学に入ると、家族旅行の行事はなくなった。
よって、トイレに行かせてもらえない苦しみからは解放された。
が----
膀胱炎は、何度かくり返して発症していると ちょっとのことでも発症しやすくなる病気なので、私はすっかり 膀胱炎を発症しやすい体質になってしまっていた。
少し疲れがたまったり 水分を摂れない時間が続いたり 3時間ほどトイレに行けなかったりするだけで。
その度に病院に行き抗生物質を貰っていたが、くり返す毎になかなか治らなくなり、小学生の頃は一週間で完治していたのが、そのうち二か月間抗生物質を飲み続けなければ治らなくなり、完治したと思ったらその三日後に 再び発症したりするようになった。
膀胱炎になっていない時のほうが圧倒的に稀な日々になってしまった。

疲れをためない こまめに多めに水分を摂る 出来るだけひんぱんにトイレに立つ、この 医者からの「膀胱炎になりづらい体質になる為の注意事項」を守り続け、私はようやっと、40代後半で 膀胱炎体質とおさらば出来た。

母親にされた理不尽な理由の暴力の痛さも忘れることが出来ないが、この トイレに行かせてもらえなかった苦しみや、母親がそれを大口開けて笑っていた醜い顔も 一生 忘れることが出来ない。

----一つ写真記事を挟んで、3月23日は、母親が弟を見殺しにしようとした一件を公開しようと思う。
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タグ:虐待 膀胱炎
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喫煙者にされて嫌なこと [毒母]

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ますます勢いを増しつつある昨今の禁煙ブーム、この記事をお読みのかたも 吸わない人のほうが多いのではないかな?と想像しつつ綴ってます。

かく言う私も吸わない人間であります。
が、過去にほんの何か月間か 吸っていた期間があります。
----三十代後半の頃、演技のレッスンを受けていた時に、アトリエ内発表会でタバコを吸う役をあてられ、それをきっかけに 葉巻が細くなった様な茶色いタバコを吸い始めました。
けれど、吸っている最中は 口中いっぱいに心地良い香りが広がり美味しいと感じるものの、吸わずにはいられない衝動にかられることはなく、又、しばしば片頭痛がおきるようになったので、やめるともなくやめてしまいました。
ですから、すぐ隣や向かいの席でスパスパやられても 何の不快感も覚えません。 全く平気です。

しかし、これだけは勘弁してほしい!という行為が 一つだけあります。
それは----
手の届く距離に灰皿がない場合、食べた後の食器を灰皿代わりに使うことです。
見た目が汚いだけでなく 食べ残した固形物や汁物とタバコの匂いが混じって 何とも言い難い臭さが立ちのぼるからです。

私の母親が、それをやる人でした。
さすがに外食事には、常にテーブルに灰皿があったからか 人目を気にしてか やりませんでしたが、家では、てんや物の器などで、よく トントン・・・・ジュワッ とやってました。
私はその度に「嫌だなぁ」と思いましたが、口に出して「やめてほしい」と言おうものなら、日頃から私を虐待していた母親でしたから 「おめー! 親に向かってさしずするつもりかーーーっ!!」と ボコボコに殴られるきっかけを作ってしまうのは目に見えていたので、いつもじっと黙っていました。

母はずいぶん前に病死したし、喫煙可の喫茶店や飲み会でも、そういう行為に出る人には出逢わないので、今現在は、不快な思いをせずにいられて幸いです。

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子供の頃の日曜日 [毒母]

私が小学三年から六年までの間、私の父が家に帰るのは 日曜日だけだった。
他の曜日は何処に帰っていたかというと、複数人囲っている愛人さん宅だった。

日曜日----
起きるや、母は父をののしっていた。 「昔は痩せててカッコ良かったのに 太って醜くなった」とか 「ヨーロッパ旅行に連れて行くと言っておきながら連れて行ってくれないじゃないか」とか 「座る時、手の甲を腿にあてる癖がみっともない」とか・・・・・。
弟は、そんな母に便乗して一緒になってののしっていたが、私は父をののしるなんて失礼な発言は出来なかったので黙っていた。

日曜日1.jpg父は、母と弟と私を 昼は外食に連れて行くのが 母の命令で決まりとなっていたので、車で ステーキレストランやホテルの中華料理店に出向いた。
母が、一般の客と同じ席は嫌だと言うので、個室で食べていた。
そこでも、母は父をののしり、弟は便乗し、私は黙っていた。

帰り際には決まって、紀ノ国屋でカートいっぱいに食材を求めた。

夜になると、父は、すきやきを作ってくれた。
弟と私が箸を伸ばしている間、母は「そんなもん まずーーーーい!!」と言いながら、ダイニングキッチンの離れた所で、蕎麦を茹でてすすっていた。
日曜日.jpg面倒くさいからと薬味も刻まず、生醤油をちょっと水で薄めただけのつゆにつけて、鬼の様な形相で、やはり父の悪口を吐きながら もぐもぐと口を動かしていた。

するうち、怒りがふっとうして、「ギャーーーーーーッ!!!」と叫ぶや、薬缶を持ち出し 廊下に出て、隣家にも響き渡るほどの大声で父をののしりわめき、薬缶を廊下に叩きつけては拾い また叩きつけては・・・・・・が始まるのだった。
毎回、二時間くらいはそれが続いた。
父も弟も私も、何も言わずにその様子を眺めていた。

私はそんな日曜日が大好きだった。
何故なら、日曜以外は、私は母に、「産みたくもないのに勝手に生まれてきやがってーーーー!!!」と、意識がなくなるほどボコボコに殴られるのだが、日曜日は、母の怒りの矛先が殆ど父に向くので、私が殴られることはあまりなかったからだ。

私は、目を血走らせ奇声をあげ薬缶にあたる母を見ながら、「毎日がこんな日曜日だったらいいのにな」と 思っていた。


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母の戦争の話 [毒母]

死んだ私の母は、昭和九年生まれで、小学生の時に戦争を体験していた。
母の住んでいたのは 群馬県の赤城山の中腹の 隣家まで歩いて何十分もかかる寒村だったので、空襲などとは縁がなかった。
村は農業を生業とする家が多い中、母の父は大工だった。

母は私が子供の頃、問わず語りに 繰り返し繰り返し こんな戦争の時の話をしていた。
「食べる物がなくなって野草を入れた粥をたいてると、村の百姓がわざと『へえ、それ、山羊の餌ですかい?』ってイヤミを言いに来やがるんだよ。 ふだんはこっちのほうがいいもん食べてるもんだから これみよがしに。 ふだんは こっちが『どん百姓どん百姓』って馬鹿にしてたのにっ! 百姓は(戦争になっても)食うモンなくならないもんだから、ここぞとばかりにイヤミを言いに来やがるんだよっ! ちきしょう!ちきしょう!どん百姓のくせにっ!!
-----でも前橋の街が空襲になった時は嬉しかったねー。 ウチの庭から下のほうに前橋の街が見渡せるんだよ。 真っ赤に燃えて綺麗だったよー。 ふだんアタシらのことを『田舎モン田舎モン』って馬鹿にしやがる前橋のモンがいーっぱい焼け死んでるって思うと、嬉しくって嬉しくってしようがなかったねー。 ざまぁみやがれざまぁみやがれって言いながら見てたもんだよ。 ざまぁみやがれ!ざまぁみやがれ!!ざまぁみやがれ!!!・・・・・・・・」

写真・赤と黄色の抽象写真.JPG

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