黒電話の時代 [毒母]

私が中高生時代は、黒電話の時代だった。
その頃、しばしばこんなことがあった-----。

ある日、学校へ行くと友人の一人が、「昨日どうして電話くれなかったのー?」と 眉をハの字にして言い寄ってくるのである。
私は何のことやら解からずに「???」という顔をしていると、
「昨日電話したらお母様が出られて『ぼんぼちはまだ帰ってないんですよ。帰ったらこちらからかけさせますからねー』って仰るから かかってくるのずっと待ってたんだよ。 どうしてかけてくれなかったの?」
----私は母から 何も聞かされていなかったのである。

黒電話1.JPG帰宅し母に、「昨日○○さんってコから電話があったでしょ」と言うと、母は「そーいやぁ、そんな電話があったかねぇ」と めんどくさいったらないと言わんばかりの口調で答える。
「どうして伝えてくれないの?」
すると母は、まなじりをつり上げ「なーんで おめーにかかってきた電話をいちいち報告しなくちゃならないんだよっ!」と怒鳴る。
「『帰ったらこちらからかけさせます』って言ったんでしょ。 だったら伝えてもらわないと。 向うは待ってるんだよ。 伝えないんだったら『かけさせます』なんて言わなければいいでしょ」。
と、母は般若のような形相になり、「おめーは親に指図をする気かーーーっ!! アタシはおめーのお手伝い黒電話2.JPGじゃなーーーーいっっっ!!! この親不孝者がぁぁぁーーーーーーっっっ!!!」
地団太を踏み金切り声をあげ 殴りかからんばかりに激怒するのだった。
それ以上何を言ったところで 状況は悪化するばかりなので、私は黙るしかなかった。

そういうことが、数知れずあった。
必ず「かけさせます」と言いながら、母が私に友人からの電話を伝えたことは 一度たりともなかったのだった。
電話の内容は、デザインの授業の課題についてや部活の打ち合わせなど いずれも必要があってのことだったので、私は非常に困った。友人にも迷惑がかかった。
その頃はまだ、「世間体」というものを気にしていた年齢だったので、「母が何も伝えてくれないのだ」とは、友人に言えなかった。

タグ:黒電話 伝言
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父と母の仲 [毒母]

これまで私は何度となく 母親に酷い虐待を受けてきたことを吐露してきましたが、今日は、母は父とはどんな様子だったのかを綴りたいと思います。

まず、何故 父と母は結婚したかを簡単に説明します。
父はオーケストラのバイオリンニストだったのですが、クラシックの仕事だけでは食えずに、テレビの歌番組のバックのオーケストラのアルバイトをやってしのいでいました。
今でいうと、ギタリストだけど自分のバンドが売れないからアイドルのバックバンドをやって しょっちゅうチラチラテレビに映っている といった所でしょうか。
加えて父はルックスが良かったので、ミーハーな女にはずいぶんとモテていた様で、常に周りにたくさん女がおり、母もそんな中の一人でした。

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と、母は、望まぬ妊娠をしました。
それをチャンス到来とばかりに利用して、父を一人占めしたいがために 「産んでいいよ」と言わない父を無視して、子供嫌いだったにも関わらず 強行突破で勝手に一人で私を産み「これ、アンタの子だから責任とってよ!」とやったわけです。
父はしぶしぶ 私が十八才になるまでという期限付きで入籍し、私が三才になる頃には歌番組のバイトでも母と私を養いきれなくなり 全く別の仕事を始めました。
私の記憶にあるのは、父が別の仕事を始め、経済的にぐんぐん豊かになりつつある頃からとなるのですが、その頃から離婚するまで、母は、父が傍にいる時は しじゅうこんな言動をぶつけていました。

「昔は痩せててカッコ良かったのに今じゃ豚みたいに太って醜くなった! あー!まったく騙されたもんだよっ!」
「ヨーロッパ旅行に連れて行くって言ってたのに いつも国内ばっかりだーーーっ!この嘘つきがーーーっ!」
「アタシは世の中で一番サイテーな男と結婚するハメになった世の中で一番可哀想な女だぁっ!」
母が父のために料理を作ったことは一度もなく、鰯を甘じょっぱく煮たものなど 父は自分が食べたいものは自分で作って食べていたのですが、それを横目で見ては
「おーおーおー! また不味いもん作って食いやがってよー!」
と嘲笑し、私が食べようとすると
「あんなもん不味ーーーい! 食うなーーーっっっ!」
と、食べさせてくれませんでした。
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父は、私が小学四年の時から会社経営を始めたのですが、母は経営のノウハウなど何一つとして解からないのに、
「大卒は甘チャンだから入れるなーーーっ!入社させるのは中卒か高卒だけにしろーーーっ!」
と命令したり、社長室の椅子にふんぞり返って座ったり、家族旅行に若い社員を運転手としてアゴで使ったりしていました。
又 夜になると、「ギャーーーーーーーーッ!!!」と奇声を上げながら ヤカンを床に叩きつけては拾ってまた叩きつけて・・・・を二時間くらい繰り返していました。
母が父に対して 優しい言葉どころか普通に話しかけたことは、私の記憶にある限り ただの一度もありませんでした。

そんな母に対して父は、いつも何も答えずにヘラヘラッと笑っていました。
私は漠然と「これが当たり前の夫婦」だと思っていたので、その様子を見ても 別に辛いとも悲しいとも思いませんでした。
むしろ父が傍にいる時は 怒りの矛先が父に向いていて私は母に殴られる可能性が低いので、そういう意味で嬉しかったです。

今思い返すと、父はよくこんな母親と入籍し 十八年間もの間辛抱してくれたものだと感心します。
私だったら 認知して養育費だけを送って他人のままでいます。
父が右に出る者がいないほどの楽天的な性格だったおかげで、十八年間、一般的とは言えなくとも家族でいる事がなんとか保てていたように思います。

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タグ:父母 両親
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画家をやっていて辛かったこと [毒母]

私は家庭のしがらみのために 18歳から20代半ばまで、画家をやって母親を養っていました。
画家をやっていたその時代は、私の人生で最も辛い時代でした。
今日は、画家をやっていて辛かったことを 具体的に吐露しようと思います。

先ず、私はまったく画家になどなりたくはありませんでした。
中高と美術学校に通っていた私は、高校を卒業したらファッションの専門学校に入り 卒業後は舞台衣裳を作る仕事をしたいと熱望していました。
しかし、美術の成績が良かった私を、母は「これは金になる」ともくろんだようで、又 教師もファッションではなく絵画に進みなさいと推し、私の志望進路は閉ざされてしまいました。
母親の「おめー、高校出てすぐにファッションでアタシを養えるのかーーっ!? 18過ぎたら子供が親を養うのは当たり前の常識だろーがっ!」という言葉に、母親への恐怖心が染みついていた私は逆らえませんでした。
母親のいう「親を養う金額」というのは、月額100万円でした。
生活にそれだけ必要なわけではなく、贅沢のためです。
母親に言わせると、子供が親に月100万渡して左団扇させるのは、当たり前の常識ということでした。
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私は高校を出るとすぐに画商と契約を結び、毎日毎日眠る時間も食べる時間も削って画業に専念し 金を稼ぎ、その大半を母親に渡しました。
睡眠時間は毎日3時間で徹夜もしばしば、食事はパンか玉子かけご飯を5分でかきこむ生活でした。
白っぽいバックに赤や黄の花やフルーツのモチーフの具象画が売れるというので、そういった作品ばかりを描きました。
しかし、私はそういった画風・モチーフは、ヘドが出るほど嫌いでした。
ヘドが出るほど嫌いな方向性の作品を来る日も来る日も描かねばならないことは、大きなストレスでした。
そしてさらに、個展で客と話をする時には 笑顔でこう言わなければなりませんでした。
「私が表現したいものを解かっていただけて嬉しいです」 「私が好きで描いた作品を買っていただけるなんて光栄です」 と。

そうやってつきたくもない嘘をつかねばならないことも 非常に大きなストレスでした。
けれど、私にはそれらのストレスを発散させられる場所はどこにもなく 聞いてくれる人も誰もいませんでした。
眠る時間も食べる時間もなく次から次へと入る注文をこなさなければならなく 収入の大半を母親に渡していたので、ウサばらしに遊びに行ける時間やお金はみぢんもありませんでしたし、友達をつくる場も時間もありませんでした。
高校時代の友人に逢う余裕もまったくありませんでした。
稀に寸暇を見つけて電話をしても、「画家になったアナタはもぅ私達とは別世界の住人だから」と 敬遠されてしまいました。
私は、一人ぼっちで たまる一方ではけ口のないストレスに押しつぶされそうでした。

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一年過ぎると、体重は14キロ減り 身体のあちこちに不調が現れました。
「この生活は大変すぎて もうこれ以上は続けられない」と母親に訴えましたが、母親は聞く耳を持ちませんでした。
どころか渡す金額が月100万に達していなかったので、「この甘チャンの根性なしがーーーっっっ!!」と 私をののしるばかりでした。

20代半ばになった時----
母は、私からの金など一銭も受け取らなくても充分に贅沢出来る金を 離婚した父から貰っていることを知りました。
私は自分のやっていることが余りにも馬鹿馬鹿しいと判り、これからは断固として母親を恐れずに、母親からどれほど攻撃を受けようが、自分の稼いだ金は自分で使おうと決意しました。
そして、画業は画商との契約があるのですぐに辞めることは出来ないけれど、じょじょに減らして そのうち完全に辞め、ファッションの道に進むことこそは叶わなかったけれど、可能な範囲で好きなことをして暮らしてゆこうと思いました。

18歳から20代半ばが青春時代だとしたら、私の青春時代は地獄一色でした。

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タグ:画家 辛い
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母親は私をソープに売りに行ったことがある [毒母]

過去記事「冷たい廊下----母親に虐待され続けた子供時代」にも書いたように 私は物心ついた頃から 母親に虐待されて育ってきました。
理由は、母親が、望まぬ妊娠をきっかけにモテた父を一人占めしたかったが、思い通りにはゆかずに、恨みの矛先を私に向けていたからでした。
母親に言わせると、産みたくもないのに勝手に産まれてきて 母親の女としての価値を落したのだから、産まれた私が加害者で母親が被害者。 被害者は加害者に何をやったっていい という理屈でした。
そして、いつも口ぐせのように吐いていたのは、「アタシが産んだんだから 売ろうが殺そうが自由だ」という言葉でした。
毎日 最初は「しつけ」という名目で殴り始め、そのうちに「産みたくもないのに勝手に産まれてきやがって!! 親は子供を殺したっていいんだ! もしも逮捕されたって『子供のためを思ってスパルタが過ぎました』って嘘泣きすりゃあ すぐ(刑務所から)出て来られるんだっ!!」と、私の意識がなくなるまで殴り続けていました。
私を売りに行ったこともあります。
勿論、相手は買いませんでしたが。
今日は、母親が私を売りに行った時のことを書こうと思います。

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母親は私を一人で産み、「これ、アンタの子だから責任取ってよ!」と迫り、父は渋々母と結婚しました。 私が十八才になるまで という期限付きで。
私が高校卒業と同時に 父は母と離婚し、複数人囲っていた愛人さんの一人を本妻にしました。
母は、「これからはパパから 生活費諸々一切受け取らないから、おめーがアタシの決めた仕事をしてアタシを養え。 十八過ぎたら子供が親を養うのは当たり前の常識だっ!」と つっぱるので、私は小さい頃から夢に思い続けていた仕事を目指すのを諦め、母の決めた画家の仕事に就き、収入の大部分を母に渡す生活を始めました。
毎日毎日 寝る時間も削って 好きでもない仕事で母親の命じる金額を稼ぐのは、とても辛いことでした。

ところが、私が二十六才になった時----
母は父から、本妻だった時ほどのとてつもない贅沢はできないにしろ 人並みの生活をするには十二分な金額のお金を月々受け取っていたことが 判明したのです。
私は自分のやっていることが余りにも馬鹿馬鹿しいと判り、自分の稼いだお金は自分で使おうと思いました。
そして貯金もして、ある程度たまったところで家を出ようと決意しました。
画家の仕事は画商との契約があるので すぐには辞めるわけにはゆかないけれど、折りをみて完全に辞めよう と。

母は、私の決意を知るや 半狂乱になりました。
元々エゴイズムの塊でめちゃくちゃな人格でしたが、それにさらに拍車がかかりました。
あれほど執拗に 私に画家になれと言っていたのに、稼いだお金が自分に渡らないとなると、画家の仕事自体も気に食わなくなったようでした。
私が家を出て自由に生きるなど、母にとっては許せないことでした。
母に言わせると、私が母を養わずに人生を謳歌して幸せになるというのは、加害者が罪のつぐないをせずに逃げる ということなのでした。 私が苦しまなければ、母親の人生の帳尻は合わないのでした。
そして、その帳尻を合わせようという 必死の言動が始まりました。

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「おめーをソープに売ってやるっ! どんなに嫌がろうが無理やりしばって連れてってもらうんだぁっ!!」
毎日こう言って 私をおどすようになりました。
しかし、昔の女衒じゃあるまいし、今時一般家庭から娘を買い受ける風俗店など あるわけがありません。
私は動じることなく、自分のための生活を続けていました。

と、ある日の夕方、表から帰ってきた母は、般若のような顔で 私に怒鳴りかかりました。
「さっき、立川(隣街の歓楽街)のソープに行って『ウチに十八過ぎた娘がいる。 安くていいから買いとってくれ。 嫌がって泣きわめいても構わずに しばって連れてってくれ』って頼みこんだんだよっ! そしたら店の男が『奥さん、アタマおかしいんじゃないの?』って相手にしないんだよ! おめーが率先してソープで働かないから アタシが恥をかかされたじゃないかっ! 親のために娘が風俗で働くのは当たり前の親孝行だろがっ! この、親不孝モノがあっっっっっっっ!!」
と、地団太を踏んでわめき散らしました。
私は一日も早くお金をためて家を出よう と思いました。

私が家を出るまでの間、母親は、今度はとんでもない狂言で 救急車やパトカーを幾度も呼び、騒動をくり返しました。

長い文章であるにも関わらず、読んでくださりありがとうございました。
こうして吐露し、みなさんに読んでいただけたことで、また一つ 私の中の膿が絞り出されたようにすっきりしました。
感謝いたします。
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タグ:虐待
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 ルビーの指輪  [毒母]

私の母親は七月生まれだったので、父から結婚記念に贈られたという ルビーの指輪を持っていた。
両端のツンととがった縦長の 一点の曇りもない それは大きな深紅のルビーだった。
「こんなデッカいルビーを持ってる女は 他にいないよっ!」
母はよく 左手の指をひらひらさせながら、猿のようにずるそうにふふんと笑っていた。
紅さと大きさに圧倒されながらも、しかし私はその度に、ある一つの疑問を抱かないわけにはゆかなかった。
----父が母に こんなプレゼントをするだろうか?

ルビーの指輪.jpg父と母が結婚したいきさつは----
母が望まぬ妊娠をしたことによる。
母の妊娠をこころよく思わなかった父に対するあてつけか意地か はたまた妊娠を利用してモテた父を一人占めして勝者になりたかったのか、とにかく母は、強行突破をして一人で勝手に私を産み、「これ、アンタの子だから責任取ってよ!」と迫った。
結果、父は、しぶしぶ結婚せざるを得なかったのである。
そんな顛末の末に一緒になった母に、結婚記念の指輪なんて贈るだろうか?
確かに父は、右に出る者はいないのではなかろうか?というほどの楽天的な性格の持ち主ではあったが、いくらなんでもそんな女に、とびきり紅くて大きなルビーなんて渡すだろうか?

私だったら贈らない。
否、それ以前に、私だったら結婚はしない。
ルビーの指輪1.jpg認知をして養育費だけ払う という最低限の手段を取り、籍は入れない。
強行突破をするような女と籍を共にするなんて、何か こう---自分の精神が汚されてしまうような気がして耐えられないのだ。
私には、かたくなで潔癖なところがある ということなのかも知れないが。

五十二才の時、母は突然の病で死んだ。
私には他に女兄弟はいなかったので、ルビーの指輪は自動的に私の物となった。
それで、自分の指にサイズ直しをするために 宝石屋に持ちこみ、ついでに鑑定も依頼した。
眼鏡の奥の宝石屋の目は嘲笑した。
「これはニセモノですよ」

----なるほど!そういうことだったのか!!
私は合点がいった。
父は、この指輪に託して 密かに主張していたのだ。
「こんな結婚は、すべて嘘事だからな」----と。



タグ:指輪 ルビー
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大量購入・大量廃棄---私の母親の美徳 [毒母]

以前、「冷たい廊下---母親に虐待され続けた子供時代」という記事で、母親は何故 私を虐待していたかを綴りましたが、今日は私との関係ではなく 母親自身は物質に対してどういう価値観を持っていたか について記したいと思います。

母親は、私が物心ついた頃から毎日毎日、「貧乏人だと思われたら恥ずかしい」「田舎モンだと思われたらみっともない」と、般若のような目をして口の端をピクピクとけいれんさせながらモノローグしていました。
そして、自身が信じてやまない そう思われないがための言動に、日々盲進するのでした。

美徳2.jpg週に三日はデパートに出掛け、その度に、試着もせずに履き試しもせずに もとよりよく見もせずに服や靴を幾つも買い、結果、気にいらなかったりサイズが合わないものが部屋に溢れかえり、何週間かに一度 どさりと捨て をくり返していました。
母親言うところ、商品をよく見たり試したりしてから買うのは貧乏人のとるみっともない行動で、新品をたくさん捨てるのは 金持ちの立派な行い とのことでした。

料理を作る主婦は貧乏人の主婦だと嘲笑し、食事はほとんど外食あるいはテイクアウトあるいはてんやものでした。
それらの手段での食事の内容にも執着があり、外食ならイタリアン ステーキなどの西洋料理。 
和食は、どれほど高級な寿司屋や割烹でも 田舎者の行く恥ずかしい所 ということでした。
ホテルの中華のコースはしばしば利用していましたが、いつも野菜料理はすべて肉料理に変更し、父母弟私の四人で食べるのに、追加で 大きな鯉を丸丸一匹揚げた甘酢あんかけなどを別注文し、毎度 お腹がいっぱいで一箸もつけられなく、「食べきれないから捨ててちょうだい!」と ふんぞり返って得意満面に言い放っていました。
ホール係が「えっ?!そんな・・・・」という表情をすると、「どうだい! あまりにウチが金持ちなんで驚いてるよ」と ますます以って鼻高々なのでした。

テイクアウトでは、マクドナルドとケンタッキーが大のお気に入りでした。
母親の辞書には「ジャンク」という語はなかったようで、それらはアメリカ発祥の 東京人の豊かな肉料理と映っていたようです。
てんやものでは、メニューの中から一番高いものを家族人数分プラス天ぷら。
天ぷらに付いてくる天つゆは、「田舎モンの味だ! そんなもんまずーーーい!!」と捨てさせられ、代わりに ハイカラな調味料だという塩コショウを作らされました。

美徳.jpg生活をしていると どうしても家で作って食べなければならない事情も出てくるわけで、そういう時のために 週に一度は紀ノ国屋に買い物に出向き、ステーキやパンやケーキを求めていました。
そこでも 少しだけ買うのは貧乏人だと思われてみっともない と、カートに山盛り二台分放り入れ、レジで、店員や周囲の客が驚くのを、「ふふん! ウチほどの金持ちはいないんだよ!」と満悦していました。
求めた食材は、みるみる消費期限が来て ほとんど捨ててしまっていましたが、ゴミ袋に投げ入れる時の母親は、それはもぅ嬉しくてたまらない!といった勝ち誇った面持ちでした。

母親は、昭和九年生まれで、群馬は赤城山の中腹の寒村の 大工の家に生まれたそうです。
子供の頃はいつも飢えていて、近隣の畑のものを盗んで空腹をしのいでいたそうです。
大人になり、前橋や高崎や そして東京に出てきたら「田舎モン」「田舎モン」と馬鹿にされたそうです。
それらの体験が母親の物質的価値観を形成したことは、火を見るより明らかです。

しかし----
理由はどうあれ、私はそんな母親を見ていて 身内でいるのが非常に恥ずかしかった。
「もったいないよ」などと意見しようものなら また記憶を失うほど殴られる理由づけを自ら作ってしまうこととなるので 口が裂けても言いませんでしたが。
私はそういった面でも 母親を反面教師として大きくなりました。
母親は五十二歳の時 突然の病で亡くなりましたが、最期まで自分の物質的価値観が 極端でへんてこで歪んだ間違ったもので 世間の人達からどう思われる言動であるか つゆ気付かなかったようです。
本人は、気付かなくて幸せだったでしょう。

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タグ:母親
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 冷たい廊下---母親に虐待され続けた子供時代--- [毒母]

今月の十六日で、私は ちょうど五十才になります。
やはり五十となると、改めて 己れの生い立ちを振り返り 噛みしめ、己れに宛てた感想文のひとつも記しておきたい衝動に突き動かされるものがあります。

正直なところ、私は この年齢まで生きられるとは思っていませんでした。
幼少期、母親に虐待されていたからです。
毎日 意識がなくなるまで殴られ続け、頬にあたる廊下の冷たさに目を覚まし、「あ・・・生きてた。 でも、明日は解らないな・・・」という日々を送っていたからです。
今と違って、「子供への虐待」という言葉の認知度もゼロに等しく、「女は母性本能があるのだから 他人の子供であっても殺しはしない」という迷信を 警察ですら信じていた時代ですから、逃げる所・訴え出る所など どこにもありませんでした。

何故 母親が私を虐待していたかというと-----
自身のエゴイズムによる目算が外れたからです。
思わぬ妊娠をきっかけに、モテた父を一人じめしたかった。
しかし 父は、首をたてに振らなかった。
母は一人で強行突破に出た。
結果、本妻の座と財力は得られたが、父の心まで手中に収めることは出来なかった。
そのうっぷんが、全て 私に向けられた訳です。

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強行突破という手段を選ぶ時点で、絶対的に得られるものとひきかえに 父の心が彼方に遠のくことくらい ちょっと考えたら解りそうなものですが、つくづく愚かな女です。
「お産のとき、病院に来てもくれなかった」 とか 「お前の名前も アタシ一人で決めるハメになった」 とか 「お前が随分大きくなるまで(父の実家の)敷居をまたがせてもらえなかった」 とか、いかに まっとうな自分が不当に辛い目に合わされてきたかを、私が大きくなってからも、負の題目を唱えるように 歯がみしながら繰り返していました。
無論、父の側に何一つ非が無かったか というと、そんなことはないと思いますが。

父は、私が生まれたが為に、ひりつくほどに好きで就いていた仕事を 辞めざるを得ない状況におわれました。
クラシック一本では食えずに流行歌のアルバイトでしのぐ 売れないバイオリンニストではありましたが、私が生まれた時、未だ二十代前半だったので 未知の可能性もおおいにはらんでいた筈です。
けれど 父は私に、「ぼんぼちさえ生まれてこなければバイオリンやってられたのに」というようなグチを吐いたことは一度もありませんでしたし、私に手をあげたことも 怒鳴ったこともありませんでした。
目の前で母に殴られ続けていても、黙って見ていましたが。

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母が私を殴り始めるきっかけは、「しつけ」と称する ささいな理由づけからでした。
「テストが100点じゃなかった」 とか 「ピアノやバイオリンの自主練が 決められた時間より五分短かかった」 とか 「都営住宅に住んでいる子と仲良くしてるそうじゃないか」 とか 「今、一人言 言ったろー」 とか。
最初は先ず、「その甘チャンな根性を叩き直してくれるわーーーー!!!」 と仁王立ちになり 始まります。
そして、一時間を過ぎたあたりから 決まって 「産みたくもないのに勝手に生まれてきやがってーーーー!!!」 という 自身を被害者へと置き換える理不尽に変換された言葉が登場します。
それからまた一時間以上、すでに自分の意志で身体を起こすことも出来なくなった私は、母の力まかせの負のエネルギーのままに 単なる物体さながらに 廊下をころころと転がり続けます。

私の成長につれて-----
今度は、精神的虐待や 「実の母親である」という立場を利用しての狂言騒動などをさんざん繰り広げ、私が二十七才の時、突然の病いで死にました。
私は自分の人生のやり直しを図り、結局 好きな仕事に就くことは叶いませんでしたが、それ以外は、今現在では かなり埋め合わせが出来たように自覚しています。

父に対しての気持ちは、プラスマイナスゼロです。
殴られる私を黙って見ていたけれど、お金の面で 世間の同世代の多くの子供達が体験できなかったことを 随分 味あわせてもらえたからです。
しかし、母には 憎しみの感情しかありません。
もしも、「産んでもらったんだから 感謝すべきよ」 「お母様だって 本当はアナタを愛しておられたのよ」 「もう亡くなったことだし、いいかげん許してあげたら?」 などと知った風を投げかけようという人がいるとしたら、私が生きてきた人生をそっくりそのまま体験して その後で モノ申して頂きたい。
頬にあたる冷たい廊下の感触は、一生 薄れることはありません。

※左側のマイカテゴリーの欄に「毒母」として、母親は、他にどんな虐待をしていたかや 日常生活ではどんな人間だったかを綴った記事をまとめています。 お時間のあるかた、覗いていただけると幸いです。

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