「女番長 野良猫ロック」ーーー意外なミュージシャンが出演している映画 [映画・演劇雑記]
昔の映画を観ていると、今や大御所になっている役者さんがほんの脇役で出ていたり、後年、誰もが知る事となるミュージシャンが端役で歌っているシーンを目にする事がある。
1970年製作・長谷部安春監督「女番長 野良猫ロック」も、そんな作品の一つである。
新宿をねじろにする女不良グループとやくざの対決を派手に非リアリズムに描いた、いわゆる超娯楽劇映画なのであるが、この作品に、なんと、アンドレカンドレさん、つまり、現・井上陽水さんが、ほんのワンシーン出演されているのである。
あの時代の映画は、スタッフ・キャストのクレジットがオープニングに流されたので、クレジットを凝視していたら、キャストの終わりのほう、つまり、端役の枠に、モップス、オックス、そしてアンドレカンドレとあったので、一人、劇場内で、声を立てずにアッ!と驚いた。
当時、GSグループが映画に出る事は珍しくはなく、GS主演映画も幾多作られていたほどだが、シンガーソングライターで、名をあげてからもTVの露出が殆どなかった陽水さんが、この様な娯楽映画に出演なさっていたとは、夢にも思わなかった。
おそらく、この映画を観た事のある人と陽水さんのファン以外は知らない情報なのではなかろうか?
陽水さんの出演シーンはかなり終わりの方のシークエンスで、今でいうライブバーの様な店の中で弾き語る、というものである。
まだヘアスタイルはアフロにはしておられなかったものの、アゴのラインとあの良く通る声質と、歌の中に「アンドレカンドレアンドレカンドレ〜」と繰り返す部分があるので、すぐに陽水さんだと判る。
私はラピュタ阿佐ヶ谷で開催されている「戦うガールズコレクション2024」のプログラムの中で観たのだが、こんな思わぬ発見があるとは、本当に観て良かったと思った。
昔の映画を観る面白さというのは、こんな点にも、ある。
シークエンスとは [映画・演劇雑記]
みなさん、映画評などを読んでいると「シークエンス」という言葉に出逢う事がしばしばあると、お察しします。
今日は、この「シークエンス」とは何なのか、を、簡単に説明したいと思います。
シークエンスとはーーー
シーンより、も一つ大きなひとまとまりの事です。
具体的に、私が創作したシナリオの一部を表記して説明するとーーー
・
・
・
⑯○△デザイン事務所
「お疲れ様でしたー!」の声が飛び交う。
ミキ、パソコンを閉じ、帰りじたくをする。
スマホチェックをすると、トオルから「今夜、空いてる?」というメール。
ミキ、「うん、空いてるけど」と返信。
速攻、「じゃ、いつもの場所で7時に待ち合わせね♡」と返ってくる。
ミキ、「了解」と返信。
⑰電車の中
ミキとトオル、並んで吊り革を握っている。
ミキ「今日、どこ行くの?」
トオル「いつもの店だよ!」
と、自信満々に親指を立てる。
ミキ「ふうん」
⑱小洒落たイタリアン
ミキとトオル、向かい合って前菜を食べている。
トオル「でさあ、来週、ミキちゃんの誕生日じゃん。だけど、オレ、来週、出張なんだよね。だっかっらー!今日は一週間早い誕生日プレゼント!!」
トオル、リュックから包みを取り出す。
ヴィトンの包みである。
トオル「(ミキに差し出しながら)ジャンジャジャーーーン!!」
ミキ「、、、、、私達、出逢ってもう1年近く経つよね。、、、トオルさんって、私の事、何にも見てないし、何にも聞いてないんだね。、、、、、もう二度と、メールも電話もして来ないで(その口調は抑えられているが、ナイフの如く冷ややかで怒りに満ち満ちている)」
トオル「へっ?!、、、、、(ポカンとする)」
ミキ、席を立ち、店を出る。
ホール係り「お待たせいたしました。カルボナーラでございます。ご注文通りアルデンテに仕上げました」
ヴィトンの包みの横で湯気を立てているカルボナーラ。
⑲○△デザイン事務所
「おはようございます!」の声が飛び交う。
ミキ、自分の席につく。
スマホを開く。トオルから6件、メールが入っている。
6件とも内容を見ずに消去し、パソコンに向かう。
⑳同日・焼き鳥屋のカウンター席
ミキ「じゃあ、次は、ボンジリとセセリと鶏皮、1本づつ、塩で!」
大将「おっ!おねえさん、ツウだねぇ〜!へいっ!ボンジリ、セセリ、鶏皮ね!」
カウンター席の初老の男性客二人組、口々に
客A「おじょうさん、カッコイイねー!」
客B「1人で楽しんでるねー!」
ミキ、焼き鳥の一粒をむしり食い、ゴキゲンに「んふふ〜」と、串をタクトの様に振る。
㉑わいわいと更けてゆく焼き鳥屋の遠景。
・
・
・
ここで、ワンシークエンスに相当するのは、⑯〜⑱、⑲〜㉑になります。
これが、シークエンスと呼ばれるまとまりです。
DVDを購入すると、トップの画面に「チャプター」というのが出て来ますが、おおかた、チャプターはシークエンスに非常に近いもの、と解釈して間違いないでしょう。
世界一の美女・マリリン・モンローに関する私的考察 [映画・演劇雑記]
みなさんは、世界一の美女というと、誰を挙げますか?
リズ? ベベ? 李香蘭?
ーーー私は、誰が何と言おうと、マリリン・モンローです。
トロリとしたタレ目メイク、ぽってりとした唇、プラチナブロンドに染めた髪、飽満に張ったバスト、キュッとしまったウエスト、プリプリと揺れるヒップ、、、
幾度、彼女の映画やスチルを観ても、惚れ惚れとしてしまいます。
そんなモンローの生い立ちは幸せなものでなく、父はいなく、母親は精神に異常がありモンローを育てられなかった為に、孤児院で育ちます。
ーーー生まれた時から持ち合わせていたのは、その美貌だけだった訳です。
彼女は若くして女優を目指し、徐々に大きな役を手にしてゆきます。
醜く生まれた私としては、「結婚協奏曲」での脇役で、美人コンテストで優勝する美女の役をあてられた辺りで大満足して、「ああ、女優として食ってゆけるようになったし、何より『美しさ』を裏付けする役がまわってきたのだから、これでもう万々歳! これ以上望む事はないわ!」と悦に入るところですが、彼女はそうは思いません。
映画会社のお偉さんと愛のないベッドを共にして、11回も中絶を繰り返しつつも、トップスターを目指します。
「紳士は金髪がお好き」「ナイアガラ」で、見事、主役を射止め、ハリウッドを代表するセクシー美人女優へとのし上がります。
それでも彼女は満足しなかった。
アクターズスタジオに通いメソッド演技を学び、「演技派女優」と呼ばれる事を欲します。
結果、「バス停留所」で、さざなみの如く揺れ動く繊細な演技を披露し、ついに演技派と呼ばれる事にも成功します。
美しさも演技力も持ち合わせたハリウッドを代表する大女優になったのだから、もう他に欲しいものなんてないんじゃないの?と、私なんぞは思ってしまう訳ですが、プライベートでは、彼女は愛を欲し、ジョー・ディマジオ、アーサー・ミラーと、二度の結婚をしますが、二度ともあっけないほど短く失敗してしまいます。
二度も結婚に失敗したら、「あぁ、私って、結婚には向かない女なのね」と結論づけてもいいようなものですが、今度はケネディ大統領の愛人となり、夫人からケネディを奪い、自分が大統領夫人におさまる夢に向かって突っ走ります。
ーーーしかし、彼女は、国家秘密を知り過ぎた女として、事故に見せかけて暗殺されてしまうのです。
モンローは常に、これが手に入ったら次はこれ、と、欲望の果てしない女性で、その理由は、どの地点に登っても、常に精神的飢餓感を抱いていたからの様です。
一言でモンローの一生を語るなら、「美しさのみを与えられて産まれた努力家だったがために、不幸な人生を歩んでしまった女性」という事になるでしょう。
前述しましたが、私なんぞは、醜く産まれ、10代20代になるとますます醜いバケモノの様な顔になり、美しくなる事を人生の第一目標とし、美しくなれればあとは何もいらない、と日々その努力を続け、今現在は、あれほど醜かった顔がこの程度まで来られたのだからこれでいいんじゃない!と納得出来、幸せいっぱいな毎日ですが、それは、私は美しさ以外のものはおおかた与えられて育ったのに対して、モンローは、美しさ以外のものは何一つとして持たずに育ったからに他ならないからでしょう。
人間って、自分に欠落しているものを命がけで埋めて、完全な自分になることで、アイデンティティが満たされますからね。
不条理な役者 [映画・演劇雑記]
知り合いの、自称・職業「役者」の男性が、TVの青汁のCMのオーディションを受けて、落ちたのだそうだ。
彼は、「ああいう、青汁のCMのオーディションなんてのは、上手い人が落ちて、下手な人が受かるんだ」と言っていた。
「なら、どうして、狙ってわざと下手にやらなかったんだろー? どのジャンルでも、下手な人が上手くは出来ないけど、上手い人が下手には出来る筈なのに。 不条理な役者だなあ」と、首を傾げた。
あるいは、意地でも「自分は下手にはやりたくはない!」という信念を持っているのなら、そもそも何故、「上手い人が落ちて、下手な人が受かるオーディションを受けたのだろうか? それなら、最初から受けなきゃいいのに」と、ますます首を傾げた。
彼は、「オーディションというのは、どうやれば受かるのか、誰にもかいもく判らないものなんだ」と言ったが、「上手い人が落ちて、下手な人が受かる と判っているじゃないか。 ますますます不条理な役者だなあ」と、首が真横になって肩につくくらいに傾げた。
これぞ不条理三段発言!!
ちなみに、この役者は、自らが不条理なのであって、不条理演劇の役者では、ない。
彼は、「ああいう、青汁のCMのオーディションなんてのは、上手い人が落ちて、下手な人が受かるんだ」と言っていた。
「なら、どうして、狙ってわざと下手にやらなかったんだろー? どのジャンルでも、下手な人が上手くは出来ないけど、上手い人が下手には出来る筈なのに。 不条理な役者だなあ」と、首を傾げた。
あるいは、意地でも「自分は下手にはやりたくはない!」という信念を持っているのなら、そもそも何故、「上手い人が落ちて、下手な人が受かるオーディションを受けたのだろうか? それなら、最初から受けなきゃいいのに」と、ますます首を傾げた。
彼は、「オーディションというのは、どうやれば受かるのか、誰にもかいもく判らないものなんだ」と言ったが、「上手い人が落ちて、下手な人が受かる と判っているじゃないか。 ますますます不条理な役者だなあ」と、首が真横になって肩につくくらいに傾げた。
これぞ不条理三段発言!!
ちなみに、この役者は、自らが不条理なのであって、不条理演劇の役者では、ない。
やっぱりアングラ演劇が好き!やっぱり実験映画が好き! [映画・演劇雑記]
私・ぼんぼちは、今年の初めまでの2年間、シェイクスピアの台詞のレッスンを受けていた訳ですが、何故、そのレッスンを受けていたかというと、決して「シェイクスピアが好き」だったからではないんですね。
理由は、「演劇・映画に興味があると言いながら、天下のシェイクスピアを殆ど知らないというのは恥ずかしいから、基礎知識くらいは知っておこう」という訳だったんです。ーーーまあ、他にも理由はありましたけどね。
私が演劇でダントツ一番に好きなジャンルは、「アングラ」です。中でも寺山修司氏の作品。
残念ながら年齢的に、寺山演出の寺山舞台を観に行く事は叶わなかったんですが、万有引力とかは鑑賞した事がありますね。
他に、今、現存するアングラ劇団で好きなのは、新宿梁山泊。
あぁ、第七病棟も良かったな。
何故、アングラが一番好きかというと、テントや手造りの木造りの小屋の、土俗的な見世物小屋の様な非現実な空間に、わくわく感を無性に感じてしまうからです。
舞台上もーーー装置も見世物小屋みたいだし、役者さんは、白塗りをしたり、真っ赤な襦袢を羽織って登場したりと、これまた、土俗的で和の匂いに溢れています。
そういう所に惹かれるんですね。
ニ番目に好きな演劇ジャンルは、「不条理」です。
あの、訳の解らなさ に、前のめりになってしまいます。
不条理演劇といえば!のベケットは何作品も観ましたし、ピンターやイヨネスコも愉しみました。
残念なのは、私が不条理の戯曲で最も好きな安部公房氏の「友達」を、まだ舞台では観た事がない事ですね。
どこかの劇団で「友達」を上演するおりは、是非とも足を運びたいと考えています。
三番目に好きな演劇ジャンルは、「社会派」です。
いっとき、坂手洋ニさん作・演出作品は必ず観に出向いていた時期があったのですが、それまで、役者さん達が、きちっと、テーマを運ぶ舟の役割りに収まっていたのに、ある時からポンと、前に出て、自由な事を演り始めたので、私の好みとする社会派ではなくなったため、出向くのをやめました。
さて、映画でダントツ一番に好きなジャンルはーーー
何と言っても「実験映画」です。
長編の実験劇映画にも好きな作品は何作品もありますが、ストーリーのない短編の方が、より好きですね。
松本俊夫先生の「アートマン」、「つぶれかかった右眼のために」、伊藤高志さんの「スペイシー」、ヤン・シュヴァンクマイエルの短編諸作品。
実験劇映画だと、やはり松本俊夫先生の「ドグラ・マグラ」、「薔薇の葬列」、勅使河原宏氏の「砂の女」、「おとし穴」、「他人の顔」、寺山修司氏の「田園に死す」。
ーーー映画を作るなら、つまり、フィルムに焼き付けるなら、このくらい画づらに凝っていただきたい! だって映画って、「映像を観る」のが第一目的なんだから。 それに、テーマのテーゼの仕方も、このくらい安直ではなく、観客を考えさせる哲学を持っていてほしいと思います。
二番目に好きな映画ジャンルは、ビートルズ映画を始祖とする「GS映画」です。
観る側は、「わあ、楽しい!面白い!楽曲にノレる!」と、手放しに愉しんでいい訳ですが、作り手には、複雑なパズルを構成するが如くの、緻密な計算が求められます。
巧いタイミングで違和感なく何曲も楽曲を挿入出来ているか、グループのメンバーは、ファンをがっかりさせない様に、出番が多く大活躍しているか、それでいてストーリーが成立しているか、等々々、、、
私は、その、複雑なパズルが如何に精巧に作られているかを観るのが、好きなんです。
三番目に好きな映画ジャンルは、50S~60Sの、商業の劇映画です。
これは、私がこの時代に大変興味があり、シノプシスや役者さんの演技のみならず、当時のファッションや街並みを、画面を通じて知る事が出来るからです。
ちなみに、好きなスターさんは、海外ではマリリンモンロー、日本では、小沢昭一さん、緑魔子さん、加賀まりこさん です。
以上が、私・ぼんぼちが好きな、演劇・映画のジャンルです。
それにしても、好きなジャンルって変わらないですね。
演劇を知りそめし時から、映画を知りそめし時から、ずーっとこれらのジャンルが、これらの順位で好きです。
演劇・映画に限らず、音楽でも漫画でもタイプの異性でも、変わらないです。
おそらくそれは、私が生まれ持った血液型の様な、連綿と私の内を流れ続けるものが、それらを呼ぶのだと思います。
映画作りに関する些細な雑文 [映画・演劇雑記]
もしも私・ぼんぼちが、映画に関われるとしたら、松本俊夫先生の「アートマン」や伊藤高志さんの「スペイシー」の様な、短尺のスチルアニメーションを作りたいです。
スチルアニメーションがピンと来ないかたはーーー
今記事に付けた3枚の写真が、入れ替わりつつ微妙にアングルを変えながらパパパパパッと映り、間に時折、真っ白な画面がパッ!パッ!と挿入されたものーーーつまり、アート写真作品に時間軸が加えられた表現ジャンル、と解していただくと、解りやすいかと思います。
タイトルは「水面」とし、水面に反射する光や水草の揺れが、半抽象的に訴えかけてくる、美しいアートアニメーションに仕上がると想像します。
私がスチルアニメーションを最初に作りたいと色めき立ったのは、中学1年になろうという時でした。
映画部に入ってそこで作ろう、と、中学受験合格時から、楽しみにしていたのです。
けれど残念な事に、私の入った中学には映画部がなく、仕方なく他の部に入りました。
そして、自分に自由な時間が出来た38才の時ーーー
私は、せっかく潤沢に時間が出来たのだから、先ず映像理論から学ぼうと、イメージフォーラム映像研究所の夏期講習会で、世界実験映画史を学び、あくる年、世界インスタレーション史を受講しました。
どちらも、たくさんの、テキストとされた秀逸な映像作品を観せていただき、講師の講義が詳らかに1作毎に入った、大変に得る所の大きな納得出来る濃密な授業でした。
3年目にはいよいよーーー私は、実験映画を自ら作る、というコースに臨もうと、研究所のパンフレットのそのコースの欄を熟読しました。
すると、「3人ひと組になって1作を作る」とあったので、参加するのをやめました。
私は、自分の映画作りに対する絶対条件として、「スチルアニメーションである事」の他に「たった1人きりで作りあげる事」があったからです。
大好きな映画制作に、自分以外の人間の考えや技術が入って来られるのは、私にとって耐えがたい事なのです。
3人で作らねばならないのなら、何も作らない方を、迷わず選びます。
時はくだりーーー
今現在、スマホとパソコンがあれば、スチルアニメーションは、1人でなんぼでも制作可能な時代になりました。
公開も、YouTubeでなんぼでも出来ます。
けれど今、私はそれをやっていません。
何故かというとーーー
ブログを始めて何年かしてから、アート写真を撮り公開する様になったのですが、時間軸の加わらないアート写真という表現に、まだまだ飽き足らなく、もっともっとたくさんのアート写真作品を生み出したい、という気持ちが強くなったからです。
そうこうしているうちに、私の寿命は尽きるでしょう。
それでもいっこうに構わないと、思っています。
それはそれで、運命の様なものなのでしょうから。
映画やドラマの中の画家はやっているけれど現実の画家はやらない事 [映画・演劇雑記]
長くこのブログを読んでくださっている方はもうすでにご存知の様に、私・ぼんぼち、18歳~27歳まで、画家をやって母親を養っていました。
という事で、今日は、映画やドラマの画家役はしばしばやっているけれど、現実のプロの画家は絶対にやらない事を、挙げたいと思います。
・絵筆を縦に持ち、モチーフに向かって「う〜む」と、しかつめらしい顔をする。
これ、画学生の一年生ですらやりません。
ある程度画業を積んだ者が見ると、まるでコントです。
私は、そういうポーズと表情を役者さんにやらせる監督と もしもお話し出来るチャンスがあったとしたら、「あれは、一体全体、役者さんに何をやらせているつもりなのですか?」と問いたい、謎のポーズと表情です。
・プロの画家なのにデッサンをやっている。
劇中で、プロの画家が、木炭デッサンや鉛筆デッサンを描いている、もしくは、描きあげたデッサンが画室にある、という設定を見ますが、プロの画家は、すでに十二分にデッサン力がついているので、もう一切、デッサンはやりません。
デッサンをやるのは、プロを目指している最中の画学生、もしくは、美術学校を卒業してもまだデッサン力がついていない 出足の遅い志望者かアマチュアだけです。
プロの画家の画室には、デッサンなどという過去に学びきった遺物は、捨てているか、画室の奥深くに放り込んであります。
・専門用語や画材の使い方がめちゃくちゃ。
台詞で「デッサン」「スケッチ」「クロッキー」「エスキース」「タブロー」などの専門用語が間違って使われていたり、画用紙に木炭で描いていたり、鉛筆デッサンを指でこすったり、油絵の具を指で画面に乗せたりと、画学生でも、言わないやらないめちゃくちゃが、しばしば見られます。
・個展の時に、画商がその場にいない。
プロの画家の個展会場で、その場に画商がいなくて、画家と客が話しをしている、という場面をよく見ます。
これも、絶対にありえません。
プロの画家には必ず画商がつき、画家の傍らにピッタリと画商が寄り添っているのが現実です。
何故なら、画商が最も恐れているのは、とっぱらいをされる事なので、画家と客が名刺交換をしたりなどして、とっぱらいに至らない様、客の名刺は全て画商が受け取り、直接の仲にならない様に、常に目を光らせています。
とっぱらいをされると、画家と客が大得をして、画商一人が大損をしてしまう結果となってしまいますから。
・画家が、ギャラリーの搬出入などを、一人でやっている。
これをやるのは、趣味で描いている日曜画家、つまりアマチュアだけです。
プロの画家の個展の場合は、搬出入は業者に任せ、搬入日は、画商は画家の自宅に車で迎えに来て、一緒にギャラリー入りし、届いている作品を「この作品はここがいいですね」と二人で話し合って、展示作品の場所を決めて、業者に指示します。
搬出は簡単なもので、業者がサーッと全ての作品を画商の自宅に送り届け、後日、画商がそれぞれの作品を買った客に配りまわります。
どうでしたか?
みなさんがこれまでに、映画やドラマで観てこられた画家像と、大きく違ったのではないでしょうか?
何故、映画やドラマの中で、こんなトンチンカンな間違いばかりが行われているかというと、脚本家と監督が、きちんと画家に取材をしていないからに相違ありません。
漠然とイメージだけでとか、「以前、○○さんが書いた脚本ではこうだったから、なんとなく真似しておこう」とか「☓☓監督と同じ様に作っとけば、たぶん正解だ」とか、そんなあいまいさで作っているからに相違ありません。
これが、突拍子もない非リアリズムの方向性の作品ならいいんですよ、コントめいたポーズも逆に活きてくる。
けれど、プロの画家の現実をリアルを描くなら、プロの画家にしっかり取材すべきです。
勿論、取材期間は、「はじめまして」から20~30分で、自身の職業のホンネを話してくれる人間などいませんからーーー手品師がタネ明かしをするのと同じですからねーーー少なくとも一年は、密着取材をして、何度も食事や呑みを共にすれば、得られます。
職業によっては、みっちり密着取材をしてから作る映画やドラマも多いのに、何故、画家となると、こうもイメージばかりでトンチンカンな事が連綿と続いているのか、元画家として、首を傾げるばかりです。
映画館で映写装置に不具合が生じ上映が中断した、の巻 [映画・演劇雑記]
先日、渋谷の映画館・ユーロスペースに、「みんなのジャック・ロジエ」特集の中の「メーヌ・オセアン」という作品を観に出向いた。
1980年代半ばのフランス映画である。
観映していると、残り30分と思われる辺りで、画面がすうっと黒くなった。
溶暗の多い作品だったので、私は最初は、「これも溶暗の効果の一つで、ちょっと長めの溶暗なのかな?」と思いつつ、流れるピアノの音楽だけを聴いていたが、いつまでたっても次の画面が出て来ない。
ーーーちょっとおかしいぞ!
するうち、音楽も、プツリと消えた。
そこで完全に、これは劇場側の何かのトラブルだと気がついた。
と、劇場内が明るくなり、スクリーンは真っ白になった。
それから何分後かに、劇場スタッフさんと思われる マイクを通した男性の声が、場内に響いた。
「大変申し訳ありません。只今、映写装置に不具合が生じてしまいまして、急いで復旧作業を行っております。大変申し訳ありませんが、それまでお待ちください。」
私達観客一同は、全員、席に着いたままで、静かに待った。
ーーー20分ほど経った頃だろうか。
今度は女性スタッフさんが、劇場扉を開け、扉の前に立ち、「大変申し訳ありません。映写装置の復旧のメドが立たないので、お客様がた、半券を払い戻すか、次回、無料でご覧になれるチケットとお取り替えしますので、受け付けにお越しください。本日は大変に申し訳ありませんでした。」と仰り、扉から去った。
私達観客は、誰一人文句を発する者もなく、すみやかに座席を立ち、受け付けに向かい、一列に並んだ。
そして、払い戻しかチケットかの希望を伝え、手続きを済ませると、ユーロスペースを出て行った。
受け付けのスタッフさんは、一人一人に「大変申し訳ありませんでした。」と頭を下げていた。
今の時代、映写装置は、ほぼ全てと言っていい率の映画館で、フィルム上映ではなく、DCP(デジタルシネマパッケージ)である。ユーロスペースも例外ではない。
今でもフィルムに拘って、映写技師さんが映写機を回しているのは、私が知る限り、杉並区・阿佐ヶ谷のラピュタ阿佐ヶ谷だけである。
フィルムは、たまに、途中で切れたり止まったりと、不具合が生じてしまうものだが、DCPでも、このような不具合が起ることもあるのだ!この回に観に来たという事は、ある意味、非常に非常に貴重な体験かも知れないな、と思った。
DCPの不具合で、ラストの30分が上映不可能になってしまった事態に対して、スタッフさんがたは、十二分に、埋め合わせになる対応をしてくださったと思う。
ユーロスペース、また観たい作品が見つかったら、出向こうと思った。
ぼんぼちが好きな映画監督・ベスト5 [映画・演劇雑記]
映画好きの向きなら、自身の中で一度は、「好きな映画ベスト○」や「好きな監督ベスト○」を挙げてみたことがおありだろう。
以前、私も当ブログで、「好きな映画」については列挙したので、今日は、「好きな監督ベスト5」を、並べてみたいと思う。
「好きな」だから、客観的には優秀だと評価するけれど、ぼんぼちの好みに合わない監督は入れてなく、又逆に、無骨な面もあるけれど、メンタリティとして大きく共感できる監督は入っている。
では、いってみよう!
第1位 松本俊夫監督
ぼんぼちにとって、松本俊夫監督は、映画の神である。
これほど、「映像」というものに、多視点から多実験を試みた監督は、日本には他にいない。
海外でも、特にフランスで高く評価されている、実験映画監督である。
代表作は、赤外線フィルムで撮影された 怒涛の迫力のスチルアニメーション「アートマン」、
1960年代後期の文化・風俗・ニュースを、2スクリーンに3プロジェクターで映写した「つぶれかかった右眼のために」、
劇映画だと、夢野久作の同名小説を、あえてつじつまの合わないシークエンスにつなげ、観客を訳の解らない世界に陥れる「ドグラ・マグラ」、
ゲイボーイの世界を、オイディプス王を下敷きに構成し、劇中に何箇所も、二丁目を歩くゲイや本物のゲイの出演者へのインタビューなど、ドキュメンタリーを入れ込んだ「薔薇の葬列」などである。
第2位 ヤン・シュヴァンクマイエル監督
アートアニメーション映画では、世界一著名な、チェコのアニメーション作家。
スチル、オブジェクト、クレイ、ピクシレーション、カットアウトと、あらゆる技法のアニメーションで、複雑な事情下にあったチェコへの反体制や、食べる事への異常な執着を表現している。
やはり手作りのアニメーションなので、長編より短編作品の方が圧倒的に充実度・密度が濃く、秀逸である。
私があえて、その秀逸な短編作品群から1作選ぶとしたら、無機物で構成された顔と有機物で構成された顔が戦いを重ね、ラストは、粉々に一体化してゆく「対話の可能性」である。
第3位 勅使河原宏監督
原作脚本・安部公房、音楽・武満徹との三者で創り上げた三部作、「砂の女」「他人の顔」「おとし穴」は、安部氏でこその理論的なシナリオといい、斬新な画といい編集といい、前衛的な効果音といい、名優の名演技といい、非の打ち所のない完璧無欠な映画である。
劇映画というジャンルも、このくらい画に拘ってくれると、美術畑出身の私としては、ストレスを感じずに心地よく鑑賞する事が出来る。
この三部作の中でも、個人的には、非現実な病院内セットや、主役の顔を亡くした男が観た映画という設定の劇中劇が挿入された「他人の顔」に、特に惚れ込まずにはおれない。
第4位 塚本晋也監督
「六月の蛇」で世界のtsukamotoとなる以前の、初期塚本純正作品が好きである。
デビュー作「鉄男」の、鉄化してゆくアニメーションは、目眩を覚えるほどに圧巻である。
又、「東京フィスト」は、私にとっての青春映画で、東京に育った者にしか解らない ビル群こそが己れを包み込んでくれる母体だという観念性には、骨の髄から共感する。
私が、全ての映画の中で、一番泣いた映画作品である。
第5位 寺山修司監督
私は、中学生の時に知った寺山修司氏の存在がなければ、映画にも演劇にも短歌にも俳句にもエッセイにも、ここまで興味を持ち、入り込む事はなかったと言い切れる。
辛い事しかなかった思春期の、心の救済者である。
寺山氏がこの世に存在しなければ、今の私は存在しなかったとすら言える。
それほど己れに影響を及ぼした人物でありながらも、何故5位なのかは、寺山氏の全ての表現ジャンルを観、読み込んでゆくと、氏はやはり「書き言葉」の世界の人だと気がついたからである。中でも、短歌は氏の真骨頂だと思う。
映画作品では、劇映画では「田園に死す」短編実験映画では「ニ頭女」が、良くまとまっていると評する。
とまあ、以上が、ぼんぼちの好きな映画監督ベスト5である。
みなさんは、どんな監督がお好きでおられるだろうか?
以前、私も当ブログで、「好きな映画」については列挙したので、今日は、「好きな監督ベスト5」を、並べてみたいと思う。
「好きな」だから、客観的には優秀だと評価するけれど、ぼんぼちの好みに合わない監督は入れてなく、又逆に、無骨な面もあるけれど、メンタリティとして大きく共感できる監督は入っている。
では、いってみよう!
第1位 松本俊夫監督
ぼんぼちにとって、松本俊夫監督は、映画の神である。
これほど、「映像」というものに、多視点から多実験を試みた監督は、日本には他にいない。
海外でも、特にフランスで高く評価されている、実験映画監督である。
代表作は、赤外線フィルムで撮影された 怒涛の迫力のスチルアニメーション「アートマン」、
1960年代後期の文化・風俗・ニュースを、2スクリーンに3プロジェクターで映写した「つぶれかかった右眼のために」、
劇映画だと、夢野久作の同名小説を、あえてつじつまの合わないシークエンスにつなげ、観客を訳の解らない世界に陥れる「ドグラ・マグラ」、
ゲイボーイの世界を、オイディプス王を下敷きに構成し、劇中に何箇所も、二丁目を歩くゲイや本物のゲイの出演者へのインタビューなど、ドキュメンタリーを入れ込んだ「薔薇の葬列」などである。
第2位 ヤン・シュヴァンクマイエル監督
アートアニメーション映画では、世界一著名な、チェコのアニメーション作家。
スチル、オブジェクト、クレイ、ピクシレーション、カットアウトと、あらゆる技法のアニメーションで、複雑な事情下にあったチェコへの反体制や、食べる事への異常な執着を表現している。
やはり手作りのアニメーションなので、長編より短編作品の方が圧倒的に充実度・密度が濃く、秀逸である。
私があえて、その秀逸な短編作品群から1作選ぶとしたら、無機物で構成された顔と有機物で構成された顔が戦いを重ね、ラストは、粉々に一体化してゆく「対話の可能性」である。
第3位 勅使河原宏監督
原作脚本・安部公房、音楽・武満徹との三者で創り上げた三部作、「砂の女」「他人の顔」「おとし穴」は、安部氏でこその理論的なシナリオといい、斬新な画といい編集といい、前衛的な効果音といい、名優の名演技といい、非の打ち所のない完璧無欠な映画である。
劇映画というジャンルも、このくらい画に拘ってくれると、美術畑出身の私としては、ストレスを感じずに心地よく鑑賞する事が出来る。
この三部作の中でも、個人的には、非現実な病院内セットや、主役の顔を亡くした男が観た映画という設定の劇中劇が挿入された「他人の顔」に、特に惚れ込まずにはおれない。
第4位 塚本晋也監督
「六月の蛇」で世界のtsukamotoとなる以前の、初期塚本純正作品が好きである。
デビュー作「鉄男」の、鉄化してゆくアニメーションは、目眩を覚えるほどに圧巻である。
又、「東京フィスト」は、私にとっての青春映画で、東京に育った者にしか解らない ビル群こそが己れを包み込んでくれる母体だという観念性には、骨の髄から共感する。
私が、全ての映画の中で、一番泣いた映画作品である。
第5位 寺山修司監督
私は、中学生の時に知った寺山修司氏の存在がなければ、映画にも演劇にも短歌にも俳句にもエッセイにも、ここまで興味を持ち、入り込む事はなかったと言い切れる。
辛い事しかなかった思春期の、心の救済者である。
寺山氏がこの世に存在しなければ、今の私は存在しなかったとすら言える。
それほど己れに影響を及ぼした人物でありながらも、何故5位なのかは、寺山氏の全ての表現ジャンルを観、読み込んでゆくと、氏はやはり「書き言葉」の世界の人だと気がついたからである。中でも、短歌は氏の真骨頂だと思う。
映画作品では、劇映画では「田園に死す」短編実験映画では「ニ頭女」が、良くまとまっていると評する。
とまあ、以上が、ぼんぼちの好きな映画監督ベスト5である。
みなさんは、どんな監督がお好きでおられるだろうか?
タグ:好きな映画監督
ぼんぼちが発表会のある所では演技を習いたくない理由 [映画・演劇雑記]
少し前からこのブログを閲覧くださってる方々はご存知の様に、私・ぼんぼち、今、月ニのペースで、演技のレッスンに通っています。
今お習いしている所は、十二分に納得出来、レッスンが開催され続ける限り、通い続けたいと思っています。
理由は先ず、先生が大変に優秀でいらして、「この先生にならついて行きたい!」と、心底思えるからです。
もう一つの理由は、「発表会」なるものがないからです。
これも私にとっては、非常に重要な条件なのです。
何故、私が、発表会がある所では演技をお習いしたくないかというとーーー
20年前、某演劇研究所の日曜クラス(アマチュアのクラス)に在籍していた事がありました。
そこでは半年に一度、研究所内発表会がありました。
ズブの素人ばかりですから、勿論チケット料金は発生せず、観てくださるのは、校長や本科(本格的にプロを目指す人のクラス)の先生や本科生、あとは、日曜クラス生の友人や家族、といった程度でした。
そこで、私が何が嫌だったかというと、発表会そのものが嫌いだった訳ではなく、同じクラスの中に、こんな人が一人いたからですーーー。
ゲネプロの時までは、台本通りの台詞をしゃべっていたのに、本番になると、突然、その人が家で独自に創作してきたらしき台詞を、台本にすると2ページくらい、延々としゃべり始めるのです。
私を含めた他の日曜クラス生は、その人の創作台詞が、いつ始まっていつ終わるのか、皆目解らず、冷や汗タラタラでした。
その人はいつも脇役しかもらえず、いつも主役だった私の4倍くらいの量の長台詞をしゃべらなければ、気が済まない様でした。
創作の長台詞は、ホンの内容には関わらず、必ず、泣き叫ぶものでした。
他の日曜クラスのメンバーが、「はぁ、、、また、やってくれちゃったね」といった呆れ顔を見合わせていると、その人は一人、笑顔で「えへへ〜、台詞、間違えちゃった〜」と、悪びれた様子もなく舌を出すのが常でした。
又、私はその人に、ゲネプロが終わって本番が始まる寸前に、こんな事を言われた事もあります。
「アタシが前を向いて、しゃがんでいる時に、ぼんぼちさんが後ろからそーっと来て、アタシの背中をポンと叩いて『わっ!』って驚かす動きがあるじゃないですか。そこ、そうじゃなくて、アタシのメガネのツルの後ろをガクガクガクってやって、驚かせてもらえませんか?」と。
私は、いきなり先生の演出とは違う、ゲネプロとは別の動きはやりたくなかったので、ゲネプロ通りの、背中を叩いて「わっ!」をやったら、発表会が終わった幕裏で、「ぼんぼちさん!なんで、アタシの言った通りにやらなかったんですかっ!ぼんぼちさんのせいで、アタシが面白く見えなかったじゃないですかっ!!」と、すごい勢いで責められました。
彼女は、自分がやっているこれらの行為が、いけない事だという認識はみぢんもないらしく、「アタシは素直で馬鹿正直だから、人に陥れられるんです」「アタシには何一つとして非がないのに、不当に先生から差別されて、嫌われてるんです」「演劇みたいに集団で何かをやるには、アタシみたいに一人ガマンする人がいないと、成り立たないんですよね」という事を、しょっちゅう吐いてました。
それに対して私が、「、、、えっとねぇ、私が思うにはねぇ、、、」と、原因は彼女自身にあるのだと解らせようとすると、決まって、「あー、はいはいはいはい、ぼんぼちさんのお説教なんて、聞く気ありませんからっ!」と、プイッと横を向いて、話しをシャットアウトしてしまうのでした。
私がそこの研究所の日曜クラスにいたのは三年半の間でしたが、とにかく、発表会でのその人の突然の言動のために、発表会が了ると、いやぁ〜な感情だけが残り、その日の夜は、行きつけのジャズ喫茶で、記憶がなくなるくらいまでしたたか酒をあおらなければ、ストレス解消できませんでした。
これが、私がもう二度と、発表会がある所では演技をお習いしたくない理由です。
無論、どこの発表会のあるクラスにも、こんな人が一人づついるとは限らないとは百も承知ですが、「もしも、もしも、又あんな人がいるとしたら、、、」と、その可能性はゼロではないと思うだけで、私の精神はフリーズしてしまうのです。
もぅ、あんな理不尽な理由でストレスを溜めるのは、こりっごりなので!!
タグ:アマチュア演劇の発表会