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悲しかったプレゼント [画家時代]

このブログを長く読んでくださっている方は、ご存知のように、私は、18才~27才まで、毒母を養う為に、画家をやっていた。
そして、テレビの美術番組や美術誌に私の作品が紹介されると、調べて、私の所に「絵を習いたい」という人が、何人もやって来たので、日曜の午後は、自宅アトリエで、絵を教えていた。

それとなく私の誕生日を聞かれたのか、クリスマスだったのか、中元歳暮の時期だったのか、そこは失念してしまったが、ある時、生徒一同が、私にプレゼントをくれた。
「先生!これを着けて、毎日お仕事してください!」
「みんなで相談して、選んだんですよ!」
「そうなんですよ!先生、絶対、お似合いになりますよ!」
と、一筋の濁りもない笑顔とともに。

教室が終わって箱を開けるとーーー
出てきたのは、40才代~60才代の主婦が着ける様な、いわゆるオバチャンエプロンだった。
私は確かにその頃、ほうれい線があご先までくっきり深々とあり、頬全体がブヨンと垂れ下がった、いわゆるギョウジのウチワ型の顔で、老けて見られている事は百も承知だったのだが、改めて鏡を突き付けられた様で、悲しさがこみ上げ、泣いてしまった。
生徒達には、いちるの悪意も無いと解っていたから、よけいに悲しかった。
悲しくて悲しくて、身体を二つに折り、一人、アトリエの真ん中で、わんわん泣いた。
それはもうアトリエ中響き渡る声で、わんわん泣き続けた。

ーーーその時、私は、19才だったのだ。

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絵を描くのに向かない人はいるか [画家時代]

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私は画家時代、それから画家を辞めてからかなり長い年月、習いたいという人に 絵をお教えしてきたのですが、その中で、よく こういう質問を受けました。
「絵を描くのに向かない人っていますか?」
答えは、「います」です。

絵を描くのに向かない人には、私がお教えしてきた体験上、ニタイプいらっしゃいます。

先ず、一タイプ目はーーー
「理解」ではなく「記憶」の部分の脳を使って学ぼうとするかたです。
そういうかたはーーー
「先生!これは何号ですか?」
「F6ですね」
「Fの6号なんですね。F6 F6 F6、、、ハイッ!先生!覚えました!」
「先生!これは、何という色名ですか?」
「カーマインですね」
「カーマイン カーマイン カーマイン、、、ハイッ!先生!覚えました!」
「ここでは、バックは、グリーンに赤を少し混ぜた色を、うっすらと塗りましょう」
「ハイッ!先生!赤いバラを描く時は、グリーンに少し赤ですね!覚えました!」
「いえ、今回は、白い一輪挿しに赤いバラだけを描いているから、このバックの色が適切なのであって、脇役に、レモンを置いた場合、ぶどうを置いた場合、又、一輪挿しの色が違う色になった場合、テーブルクロスを敷いた場合などなどで、そのつど全て、何色のバックが適切かが違ってきます。 
それに、何号かや色名も、画材屋さんになる訳ではないので、覚える必要はないですよ。 
このくらいの大きさに描くのが相応しいからこの大きさを選んで、たまたまそれがF6だったというだけであり、赤いバラを描くのに適切であったのが、たまたまカーマインという色名であっただけで、覚えなくとも、『これと同じ大きさの水彩紙を下さい』『このチューブと同じの下さい』と画材屋さんに行けば それで済む話しですから。 
絵を描く時は『記憶』ではなく『理解』の部分の脳を使って、『こういう絵が優れているのだ!』と、描くたびに、理解を重ねて学習をしてゆかれて下さい」
と言うと、そのようなタイプのかたは決まって
「絵を描くって、難しいんですねぇ、、、」
と、途方に暮れたお顔をなさいます。
そして、前述の様な質問はなさらなくなっても、「理解」で学習するという事が、そのようなタイプのかたには無理らしくて、全く上達しない場合が殆どです。

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ニタイプ目はーーー
美的感覚がはなはだしく間違っているかたです。
「美しさの基準って、万人それぞれ全部違うものでしょ?」というお声も出てきそうですが、又、美術は芸術の一分野ですから、正解は必ずしも一つではなく、ある程度の幅はありますが、明らかにこれは間違っている、というのはあります。

ある生徒さんに、極めて彩度の高い色だけしか使わないかたがいらっしゃいました。
そして、「赤いバラを、赤ーくキレイに見せたいんだけど、こんなに鮮やかな赤を使っているのに、全然 キレイな赤が目立たない」と仰るので、私は
「赤いバラの鮮やかさを引き立てるには、バックを補色を混ぜるとかして彩度の低い色を使ってごらんなさい。彩度の低い色と隣合っていることで、彩度の高い色は、より彩度高く見えるんです。 
それから、バラの葉っぱに限らず、葉っぱというのは、そのような彩度の高いビリジアンではありませんよ。
ビリジアンに少し赤を混ぜて鈍らせてごらんなさい」
と言うと、そのかたは、「私は、そんな汚い色は使いたくないっ!」
と、ガンとして使わず、それでいて、「バラの赤がキレイに見えない、バラの赤がキレイに見えない」と繰り返すのでした。
どうやらそのかたは、極めて彩度の高い原色以外は全て、「汚い色」と感じておられるようでした。
ですから、桜色も、薄紫のスミレも、淡い黄色のハイビスカスも、そのかたは、「何でこんな汚い色の花があるんだろうねぇ。汚くって、見ていられない!」と仰るのでした。

美的感覚というものを、みなさんに解りやすく説明するとーーー
女優さんに例えるのが解りやすいでしょう。
若かりし頃の加賀まりこさんと、若かりし頃の松坂慶子さんは、どちらが美人?と多くの人に聞いた場合、意見は二分されるでしょう。 又、「二人とも甲乙つけがたい美人だよ」と仰るかたも、少なくないでしょう。
けれど世の中には、「加賀まりこも松坂慶子も酷い醜女だよ。女優でダントツ一番美人なのは、なんといっても片桐はいりだよ!」というような事を、主張するかたというのが、ごく一部にいらっしゃるのです。
つまり、そういうかたは、美的感覚が間違っている、と言えますね。

極めて彩度の高い原色以外は全て「汚い色」と感じていた生徒さんも、色彩に於いての美的感覚が間違っているのです。
そういうかたには、「淡い色やくすんだ色の中にも、美しい色というのはたくさんあるんですよ」と何度説得しようとしても、ご自身の美的感覚こそが正しいとガンとしてゆずらなく、彩度の高い色だけで描き続けるので、主役にしたいものが前に出ず、画面全体のバランスが取れずに、少しも上達しませんでした。

これらのかたが、たった一人で描いて、自室に飾って悦に入るのは、勿論 自由です。
けれど、師について少しでも上達したいとか、美術展で入選したいとなると、美術の専門家の第三者に肯定されなければなりませんから、このニタイプのかたは、明らかに、絵を描くのに向かない人、と言えます。

人それぞれ何かしら自分に向く分野というのは、必ずあると思うので、このニタイプのかたは、絵は描かずに、他にご自身に適した趣味をお探しになった方が、どんどん上達するし、ご自身も楽だと思います。
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「デッサン」と「スケッチ」の違い [画家時代]

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このブログを長く読んでくださっている方はご存知のように、私・ぼんぼちは、18才から27才まで 画家をやって、毒母を養っていました。

画家でしたから当然、定期的に個展を開いておりました。
個展というのは、いちどきに多くの収入を得られ、新規顧客の開拓も出来る 画家にとっては必須の仕事の一つなのです。

画家というのは個展会場で、画商を間に挟んで お客さん達と会話をする訳ですが、個展のたびに私は、こう 驚かされていました。
「お客さんというのは、何て、絵画の事を知らないのだろう?」ーーーと。
個展会場に来てくださるお客さんは、皆、絵画が好きか興味があるか、どちらかの方達ばかりに決まっているにも関わらずーーー

今、思い返すとーーー
現在、私は、趣味で演技をお習いしていますが、お習いするたびに、「あぁ、私って、演技が好きなのに、先生に指摘されて初めて気付かされる事だらけだ。 何て自分は、演技の事を解っていなかったのだろう?!」と思い知らされ、つまり、プロとアマには歴然とした違いがあり、それと同じ理屈なので、当たり前といえば当たり前なのですが。

そこで、再び話しを絵画に戻し、みなさんに質問します。
「デッサン」と「スケッチ」の違いって、何だか、お解りになりますか?

正解はーーー
デッサン=基礎訓練
スケッチ=取材
です。
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つまり、デッサンというのは、まだデッサン力が完璧についていない絵画勉強中の者が、石膏像なり 器物なり 花なりの、形 質感 光の当たり方 影の落ち方を、事細かに正確に頭に叩き込み、絵画の基礎中の基礎であるデッサン力をつける訓練です。
ですから、プロの画家になったら、デッサンはしません。
プロの画家は、デッサン力を習得しきっていますから。
役者さんもプロになったら、「外郎売」の練習をしないのと同じです。

対して、スケッチというのは、例えば、ユリの花のつくりはどうなっているのか、などを観察し、描き覚えるものです。
花びらを裏側から観た形がよく解らなかったら、スケッチブックの一枚の中に、花びらの裏側だけを様々な方向から描いたりします。
これは、勉強中の者も勉強の為にしますし、プロの画家も、「壺いっぱいのユリの花を」という注文が来たりと、必要に迫られる事が多々あるので、やります。
役者さんに於いても、勉強中の役者志望の人が、出来る役柄を増やす為に、例えば、バーに行って、バーテンダーさんの所作を観察する事もあれば、プロの役者さんが「バーテンダー」という役を与えられてから バーに観察に行く事もあると思います。
それと同じです。

具体的に、デッサンとスケッチが、見た目にどう違うかというとーーー
デッサンというのは、白黒写真に撮った様に、綿密に描き込みます。
描く画材は、木炭か鉛筆です。
一方、スケッチは、自分が知りたい事が知れ、その部分が頭に入れば良いので、線だけで描いてあったり、色も覚えておきたい場合は、覚えておきたい部分にだけ 色をつけたりします。
画材は、鉛筆かペン、絵の具は、水彩絵の具の場合が多いです。

この様に、まったく目的の違う デッサンとスケッチですが、共通項もあります。
それは、タブロー(本制作)ではないので、基本的には 額に入れて人様にお見せするものではない、という事です。
あくまで描く本人が、勉強の為 覚え書きの為に描くものです。

しかし、何が何でも、それを守らなければならぬという規則などはどこにもなく、優秀な画学生の描いたデッサンは、見惚れるほどに美しいですし、プロが自分だけの為に描いたスケッチも、たまたま構図も色の乗せ具合もバランスが取れていて、鑑賞に値する事も少なくありません。
そういうデッサンやスケッチは、遠慮なく額にいれて飾ったり、買い手がつけば売って良いのです。

以上が、デッサンとスケッチの違いと、その概要です。

付けた画像は、某街の駅ビル構内の、食品コーナーの壁に描かれていた絵。
この絵などは、精密デッサン的に描かれた ディスプレイ画ですね。
デッサンで習得した技術を、この様な形で昇華させるのも、一つの画風です。

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「ようりょうの良さ」を「不正」のように言う人 [画家時代]

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少し前に、「私は、裏口 不正 縁故を嫌悪します」という内容の記事を書いたのですが、今日は、ようりょうの良さを あたかも不正の如くに言った人がいたので、その顛末について、持論を述べさせていただきたく思います。

ある時、一作も絵が売れたことがない「画家」だと名乗る人に、「金を稼ぐ画家っていうのは、ずる賢いんだよね」と、あたかも 絵が売れることが不正であるかの如き言い方と表情を向けられたことがありました。
長くこのブログを読んでくださっている方はご存知のように、私は、18才から26才まで、母親を養うために画家をやって、月々30万稼いでいました。
なので私はムカッ!として、「ずる賢いって何ですかっ?!どこが『ずる』なんですかっ?! 理由を説明してくださいっ!!!」と詰め寄ると、その人は、「あー、はいはいはいはいはいはいーーーっ、アナタの生き方は否定はしませんよーっ、じゃっ」と、ほうほうのていといった様で去ってゆきました。
それを「ずる」だと私を論破出来る正論を 何一つとして持っていなく、単なる感情論、ハッキリ言ってしまうと 負け犬の遠吠え だったからです。

プロの、つまり月々安定した収入を得られる画家になるには、画力が高いだけでは、まずなれません。
そこに ようりょうの良さ 計算高さ 的を見抜き射られる能力が必要となります。

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具体的にいうとーーー
日本はブランド志向の国ですから、「優秀な画歴」がないと画商がついてくれませんし、お客さんも、それ相当の値を出して買いたいと思ってはくれません。
ですから、優秀な画歴を作るには、名のある美術団体で大賞やそれに準ずる賞を幾つも取るのです。
名のある美術団体で賞を取るには、そこの美術団体の審査員(特に審査員長である会長)好みの画風を描かねば、大賞・それに準ずる賞は取れません。
そこを狙って描くのです。 その的がどこにあるのかを見極め ウケる画風を技術を駆使して描くのです。
そして、美術団体は、団体ごとに「良い」とされている画風がそれぞれ違います。
Aという団体で大賞を取れる画風の作品が、Bという団体では落選したりします。
よって、A団体に出品するにはA団体にウケる作品を、B団体に出品するにはB団体にウケる作品を見極め、描き分けられるようりょうが必要となります。
又、小さな美術団体でいくら大賞を取ろうが、それはたいした画歴になりませんから、時間のムダ と判断するのが賢明です。

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もう一つはーーー
美術団体で賞を取れる画風と客ウケする画風というのも、又違ってくるので、お客さんに売る用には、客ウケする画風も描けなければ、安定した生活収入は得られない ということです。
画商はたいてい、何十人か顧客を抱えていますから、その顧客ウケする画風を狙って描くのです。
美術作品の顧客というのは、必ずしも美術を見る眼に長けているとは限らないので、注文をしてくる顧客顧客それぞれの好みに合った モチーフや色使いや構図を把握して、クオリティの高さよりも 如何に好みにバッチリ合っているかを狙って描けなければなりません。

そして個展の時には、画商を介して顧客や新規のお客さんと話しをする訳ですが、その時に、「お客さんが思い描いている画家像」の演技ができなければなりません。
お客さんというのは美術畑の人ではないので、たいてい、「絵描きさんというのは、朴訥で話し下手で、純粋に好きな方向性の絵だけを無心に描いている」と思っていらっしゃいます。
饒舌でロックを聴きながら描いている、などというのは、お客さんの画家への夢を壊すことになります。
ましてや、「安定した生活収入を得るために、売れ線を狙って描いています」などという金銭面の話しは、口が裂けても言ってはなりません。

以上のことができなければ、安定した生活収入の得られるプロの画家にはなれません。
ーーーまあ、稀に、奇跡的な確率で、自分の描きたいものと賞ウケ客ウケ 人となりが一致する画家もいるでしょうが。
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これらのことをやるのは、果たして「ずる」でしょうか?
「ようりょうが良い」ということではないでしょうか?
言い換えると、「画家の実力」というのは「画力」だけでなく、ようりょうの良さも大きな実力の要素であって、「画力」は、実力の一部だと思うのです。

ですから、前述の、絵が売れることをあたかも不正であるかの如くに吐いた自称画家は、「画力」は持っているのかも知れませんが、「ようりょうの良さ」という部分の実力を持ち合わせていないのです。

私は決して、自分が売れていたからといって、「ようりょうの良さ」を持ち合わせていない自称画家を見下すつもりはありません。
好きな画風の絵だけを描いて、生活収入は他で得てゆく、、、それはそれで、恥ずことなき一つの人生ではないでしょうか?
だからといって、売れた画家を「ずる賢い」と 歪曲させた解釈で己れのアイデンティティを保守するのは、お門違いというものだと、不快さを覚えずにはおられません。

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私が非具象写真を公開する理由 [画家時代]

今、私は当ブログで、ニ記事に一記事は写真作品を公開しています。
私のブログを以前からご覧になっているかたはお解りのことと思いますが、私の写真作品は セルフポートレートを除いては、ほぼ モチーフに形を借りただけのデザイン的作品だったり 白黒ハイコントラストの表面的な美しさではないものを追求した作品ばかりです。
「ここにこういう建物があります」「花がキレイでした!」といったような直接的・具体的な説明写真は 殆どありません。

何故、私は、このような方向性の写真ばかりを 撮り 公開しているかというとーーー
私は、しばしば過去記事にて綴らせていただいてるように、若い頃、家庭の事情で 画家をやって母親を養わなければなりませんでした。
生活収入を得るための画業でしたから、月々 ある一定以上の金額は何が何でも稼がねばならず、そのためには 画商に指示された「売れ線」の画風の作品を描かなければなりませんでした。

写真記事1.jpg画商に指示された売れ線の画風ーーー
それは、明度の高いバックに赤やオレンジ色や黄色の花が当たり前の生け方で生けられていたり リンゴやレモンが何のひねりもなく盛られていたりといった いわゆる「具象王道」の画風でした。
私はそういった画風が ヘドが出るほど嫌いでした。
ーーーそもそも絵を描くことからして好きだったわけではなく、母親の意志で美術の中高に入れられ、美術学校の学生は絵を描くことが当たり前の勉強なので 描いていただけでした。
卒業したら、ファッションの専門学校に進み アングラ演劇の衣装作りをするのが夢でした。
写真記事2.jpgですから、ヘドが出るほど嫌いな画風を来る日も来る日も描かねばならないことは大変な苦痛で、しかも個展の時は、客の夢を壊してはいけないという理由から「私が好きで表現した世界を解っていただけて嬉しいです!」と 微笑む演技をせねばならず、そのことも輪をかけて苦痛でした。
今と違いネットが無かったので 本音を吐き出せる場もなく、高校時代の学友に電話をしても「画家になったアナタは もう私達とは別世界の住人だから」と 友人関係も切られてしまいました。
くだをまきに行ける行きつけの飲み屋もなく、もとより 寝る間も削って描かなければならなかったので そんな時間もなく、いくら稼いでも「まだ足りない!」と 自分の自由になるお金も母親から与えてもらえず、ストレスが 破裂寸前の風船の如くに 膨らみに膨らんでいた毎日でした。

ーーーよく、元アイドルの女優さんが、アイドル時代は、自分の意志などまるでないがしろにされ、寝る間もなく食べる間もなく 大嫌いなフリフリの衣装を着せられて 歌いたくもない歌を歌わされ、好きな色から好きな食べ物まで どう答えなければいけないか プロダクションに決められ とても苦痛だった、と打ち明けられているインタビューを聞いたりしますが、あれと同じようなものです。

ですから 私は今、絵画と写真というジャンルの違いこそありますが、あの頃描かなければならなかった画風と真逆の非具象の写真を撮り 公開することで「あんな仕事やりたくなかったんだーっ!」と叫び 人生の帳尻を合わせているのです。
人生というものは、振り子がマイナスの方向に30度傾いたら その次はプラスに30度傾かなければ、精神の帳尻が合わず、心の膿が抜けずに 気持ちが「チャラ」にならないのです。

ブログを始め、私はこれまでに 300以上の非具象写真作品を公開してきました。
私の心の膿はすっかり絞り出され 画家時代の辛さはチャラになりました。
これからも、ブログを続けてゆくかぎりは、このペースで 非具象写真を公開し続け、ますますプラスに傾斜させてゆくつもりです。


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かんちがいな絵の生徒 [画家時代]

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長くこのブログを閲覧くださっているかたは既にご存じのことと思いますが、私・ぼんぼちは、18才から26才まで 母親を養うために画家をやっていました。
プロの画家をやっていると、個展での売上げ状況や受賞歴などを見て、「ぼんぼち先生の弟子になりたいんです。 教えてください!」 という人が幾人も来ました。
月謝は収入になるので、したがって 毎日曜日の1時から4時までは生徒を自宅に寄せて 絵を教えていました。
生徒はあくまで遊びで習うのですから、「趣味」というスタンスを越境しない領域で、「あらぁ! いいですねぇ!」「ここは ちょっとこうしたほうが、もっと良くなりますよ!」 と、上達することより、「わぁ!楽しい!」「まぁ!綺麗!」 と喜んでもらえることを一にも二にも念頭に置いて指導していました。

すると、生徒の中に、稀に必ず こういう人が出現するのでした。
「アタシ、ぼんぼち先生のようなプロの絵描きさんになりたいんです」
そういう人は例外なく 子供が社会人になったくらいの年齢の ちょっと経済的に余裕のある専業主婦でした。
私は内心、「随分 思いきった人生の転身に踏み切る決意をしたものだなぁ。 のみならず御主人も、心の広い 理解のあるかただなぁ」 と驚きつつ、
「では貴女には、プロの画家になるためのカリキュラムを組みますね。 今、他の生徒さん達はお花やフルーツを描いていますが、貴女は石膏デッサンをしてください。ウチに石膏像は何体もありますから。 お宅でも石膏像を購入してください。 それで毎日5時間はデッサンをし、ここに来た時に見せてください。講評します。 それから、美術理論と美術解剖学と西洋及び東洋美術史の本をお貸ししますので、十二分に読みこんで 頭に叩き込んでください。 石膏デッサンは、2000枚くらい描くと 大抵の人は基礎を習得できるレベルまで到達しますから、先ず2000枚描いてください。 それが、プロの画家を目指すための いろはの「い」です。」
と、サラッと返すと
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「えぇっ!? ここのお教室以外でも 家でも描くんですか?? アタシ、家事もあるし、主人のお世話もしなければならないし、息子もしばしば遊びに来るし、お友達とのお付き合いもあるので、家で描いたり本を読んだりする時間はとてもありません!」
と、驚いた顔をする。
「では貴女は、週に3時間 教室で描くだけでプロの画家になれるというおつもりだったのですか? 貴女はご自分を天才だと思っておられるのですか?」
と、疑問を向けると
「いいえーーっ! 天才だなんて思ってませんっ!・・・・・・・・だって、ぼんぼち先生は、そんなにお若いのにプロの絵描きさんになれていらっしゃるから・・・・・・・・・」
「私は美術中学校の学生だった時に 何の努力もしないで学年で一番だったんです。 美術高校に進んだら 親友も作らずに 学友達が遊んでいる時間に学友達の何倍も自主勉強をしていたんです。 公募展では、受賞しやすい方向性の作品を狙って描いて受賞を重ねて 値の付く画歴を作って画商に見初めさせたんです。 画商が付いてからは 次から次へと注文が来るので、毎日18時間仕事をこなしていますよ。徹夜仕事もしょっちゅうです。 それも注文通りの作品を描かないと売れませんから 自分の描きたいものなんて一つも描けませんよ。 プロの絵描きになるということは こういうことですよ。」
と答えると、驚愕し
「・・・・・・・・・・・・・・そうだったんですか」
と、うなだれ
「アタシ、やっぱり 今まで通り 皆さんと一緒に趣味がいいです・・・・・・・」
と、シュンとしぼむのでした。

私が画家になったのは、「母親を養わなければならなかった」 ただそれだけの理由でした。
養ってくれる御主人がいるのなら わざわざ人生の全てを犠牲にしなければならないプロの画家なんぞにならずに、趣味で、楽しく、描きたいものを描きたい時だけに描いていればいいじゃないか、そっちのほうが絶対的に幸せじゃないか、と思うのでした。

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タグ:絵描き 画家
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 小説家のイメージ---山口瞳氏にお逢いして--- [画家時代]

仕事で、小説家の山口瞳氏にお逢いしたことがある。
私は十八歳から二十七歳まで家庭の事情で画家を生業としており、氏と逢ったのは 二十六歳の時の自分の個展の会場でだった。

個展開催何日目かに、静かに会話のできる二階会場で、画商を傍らに 氏と向き合った。

私は、山口氏の作品は一作も読んだことはなく 顔も知らず、要するに何の予備知識もなかったが、それまで小説家と対話したことは一度もなかったので、「小説家ってどんな感じなんだろうな?」と、想像を膨らませていた。
---やはり、痩せこけていて神経質そうで、抒情に溢れた話し方をするのだろうな・・・・と。

しかし、現実に目前にする山口氏は、決して痩せておらず 堅い風貌で 淡々としたしゃべり方の 非常に理論的な思考の持ち主であった。

今思い返すと、私が何故 小説家にそのようなイメージを抱いていたかというと、それまでの人生で数少なく知っていた作家---川端康成や太宰治や別役実らのイメージを それの全てとしていただけだったのである。  
山口氏にお逢いした直後は、「何て小説家らしくない人なのだろう?」としきりとつぶやいたものだが、歳を重ね、様々な作家の作品を読み 話す映像を見ると、私の認識の方がはなはだトンチンカンだったと 恥ずかしく思う。

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タグ:山口瞳
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 個展会場に来た非常識な人達  [画家時代]

私・ぼんぼち、今現在は 教えるのみの立場にありますが、二十代の頃は 絵描きをしておりました。
前々回記事「某ライヴで見た非常識な人達」に続き、今回は、絵描き時代に遭遇した 強烈に負の感情に印象深い人達の話をしたいと思います。

先ず、絵描きがどういう仕組みの中で仕事をこなしてゆくのかを 簡単に説明します。(あくまで私の場合は ですが)
仕事は全て、「画商」と呼ばれる人を通して行われます。
画商は 作品を客に売るだけでなく、額の手配 個展会場の手配 般出入とそれに当たるアルバイトの手配 新聞掲載についての社とのやりとり 個展告知の葉書きの印刷屋への注文 等々、ありとあらゆることをします。
絵描きが直接 客とコンタクトを取ることは禁じられています。
個展会場で客と話をする時は、必ず 画商が傍らにつきます。
そして、連絡先を交換したりしないか、また、客の質問に対して 夢をこわさない いわゆる「創られたメイキング話」をきちんとしているかどうか チェックします。
「創られたメイキング話」を用意しなければならないくらいですから、当然、客に、どんなとんちんかんな どんなみょうちきりんな どんな奇妙奇天烈な どんないんぎん無礼な言葉をぶつけられようと 怒りをあらわにすることは御法度です。
静かに微笑んで応えなければなりません。

非常識とまではゆかないにしろ、とんちんかんな 半ば肯定前提の質問をする人は多かったです。
「音楽は クラシックしか聴きませんよね」とか 「こんなにたくさんの作品を画廊に持ち込むのは 随分 重かったでしょう」とか 「せっかく心を込めて描いた作品が売れて御自身の元を離れてしまうなんて 寂しいがろう1.jpgでしょう」とか・・・・。
音楽に関しては「ロックンロールやGSを聴きながら描いています」という事実は口止めされていましたが、「クラシックしか・・・」とまで肯定する必要はなかったので、微笑みながら「いいえ」と答えていました。
また、上に挙げた その他の半肯定質問も 演技をして首を縦にふるべき類のものではなかったので やんわりと本当のことを答えていました。
すると 殆どの人は、愕然とし、「えっ!?・・・そっ・・・そういうものなんですかぁっ???」と、眉間にしわを寄せ 目をまん丸にし 受け入れがたい という感情を前面に出すのでした。

まぁ、その程度は、私も 自分が知らない職業に対しては やはりとんちんかんな認識や発言をしてしまっているかも知れない訳ですし、「しょうがないか」と、顔で笑って心に小さなため息を一つ落とすほどで わだかまりも残りませんでしたが、以下の人達には 流石に、言葉こそ荒立てませんでしたが、静かに微笑み返そうとはみぢんも思えず、血の滲むほど唇を噛み 真っ黒く焼け焦げるほどギロリと相手を睨みつけずにはおれないものがありました。

ぐるぐると作品を一通り観、私が作家であることを認識するや
「こういう優れた絵が描ける人っていうのは、皆 ちょっと知恵が遅れているのよね、山下清みたいに」
と、当たり前という顔で まっすぐに話かけてきた 中年女性。
がろう2.jpgトントンと一階会場から上ってくるなり
「アンタ、死んだほうがいいっっっ!!」
怒鳴りつつ指差した六十才くらいの男性。
「はぁ・・・・・・・・・何故ですか?」
心の口を唖然と開けながら、極力 穏やかに返すと
「芸術家っていうのは 売れちゃぁいけないんだよっっっ!!」
私は自らが「ゲイジュツカ」だ などというたいそうな者だとは、公言してもいないし つゆも思っていないのに。
絵を売って生活収入を得ているので 絵描き・画家ではありますし、表現の仕事の一つですから 表現者ではありますが。
仮に、百歩譲って 表現者=芸術家 と認め、加えて 表現者は客受けを狙った仕事はせずに我が道を独走するものである という考えもありだと寛大になったとしても、いきなり初対面の人間に開口一番「死んだほうがいい」とは・・・・・。
「あのぉ~~~・・・・売れなかったら どうやって生活すればいいんでしょうか?」
「売れないで飢え死にするのが 芸術家なんだよっっっ!!!」
また、一見 普通に品の良い五十才くらいの御婦人は、あたかも「関西のかたは うどんがお好きなのよね」とでもいうような、言うまでもなく といった口調と面もちで
「絵描きさんて、全員 覚せい剤やってらっしゃるんでしょ。 だから素晴らしい絵が描けるのよね」
と、微笑んできました。
こてん4.jpg私は一瞬、ここは不条理演劇の舞台なのではないか?と、自分の居る時空を疑いました。
御婦人は、うどんと同じ空気感で「アナタ、犯罪者よね」と、初めて対面する人間に笑んでいるのですから。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ??? やってませんけどぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ・・・・」
「えっっっ??? やってないんですか??? やってないのに こんなに描けるんですか???」(笑顔は瞬時に失せ、まるで以って信じられない といった表情)

非常識な人というのは、必ずといっていいほど どんな場にも居るものです。
あらゆる職業の人が、自身の仕事場で 非常識な人間に 一度や二度は遭遇していることと察します。
職業によって、マナーの悪さの向けられ方というのは様々だと思います。
弱い者イジメ的であったり 羨望・嫉妬の裏返しのイジワルだったり 子供のようなワガママだったり・・・・・
前々回・今回と、ライヴで見た 個展会場に来た 非常識な人達を思い返し 書き記しましたが、ここまで書いてきて、こういう理屈なのかなぁ と、曖昧な輪郭ながらも 私なりに推測しました。
あれらの人は、表現の仕事をする者----音楽家 役者 小説家 詩人 舞踊家 画家 陶芸家 彫刻家 等々-----を 自分とは何か根源的にまるで異質な人間だと思い込んでいるのではないだろうか?------と。
だから、わざわざ好き好んでやってきて 平然と 非常識な言動が出来るのではないだろうか?------と。
表現者も 普通の人間です。

がろう3.jpg

タグ:個展
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