父に会わせてもらえなかった9年間 [父]

私の両親は、私が高校卒業と同時に離婚しました。
元々結婚した理由というのが、モテた父のとりまきの一人だった母が、父を一人占めしたくて、秘密で私を産んで、「これ、アンタの子だから責任取ってよ!!」と 強引に産んじゃった婚にもっていったからでした。
父は、「ぼんぼちが高校を卒業するまで」という期限つきで 結婚を了解しました。
そして、約束の、私が高校卒業時がきたので、予定通りに離婚し、二号さんにしていた女性を本妻にしました。

母が何故、ぼんぼちが高校を卒業するまで、という期限に承諾したかというと、「以降はぼんぼちに養ってもらえばいい」という算段があったからでした。
母が、私が母を養う母の出した条件というのは、「画家になって月々100万アタシに渡す事」でした。
私は幼い頃からファッションの仕事に就くのが夢でしたが、母の強引さに勝てずに、高校卒業後の進路を最終決定させて学校に提出するのが 高校2年の了りだったので、泣く泣くファッションの専門学校受験準備をあきらめ、高3で画壇デビューしました。

プロの画家になって稼ぐには、必ず画商につかなければ 月々安定した一定以上の収入は得られないので、画商がつくに値する大きな賞をいくつも取りました。
そして、高校卒業と同時に プロとして画家デビューをしました。

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しかしーーー
日曜も盆も正月も祭日もなく、画壇のパーティーと個展開催期間以外は、毎日毎日、一日18時間 筆を持ち続けても、母に渡せる金額は、30万がやっとでした。

母は、「30万しか稼げねーなんて、おめーはなんてダメ人間なんだ! これじゃあ産み損じゃねーか! 子供は18になったら親に100万渡して左団扇させるのが当たり前の親孝行ってもんだろーがっっ!!」と 般若の様な顔でののしりました。

それでも、次々と来る注文を徹夜でこなしても、個展で展示した60作品を完売させて追加で20作品受けても、30万代渡すのが、精一杯でした。

母は、「パパからは、土地と家をもらっただけで、離婚後は一銭も受け取ってねーし、どころか、パパとの連絡もつかなくなったんだよ。居所も解んねーんだよ。 だからおめーも、どんなにパパに会いたくたっても会えねーんだよ!」と 吐いていました。

私が身を粉にして次々30万渡し続ける生活が、8年続きました。
私は26才になりました。 私には、青春らしい青春など、何一つとしてありませんでした。
そんなある日ーーー
30万にしては母の豪遊っぷりがずいぶん派手なので、密かに調べてみるとーーー
母は父から月々40万送ってもらっていて、私にもまとまった額のお金をくれていた事が発覚しました。
母は、私と父から二重取りして、私へのお金もガメていたのです。
だから当然、父の連絡先も居所も知っていました。
母が私に、「パパの連絡先も居所も解らない」と言っていたのは、この事実がバレたくなかったからに他なりませんでした。
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私は、この8年間 生命がけでやってきた事があまりにも馬鹿馬鹿しくなり、同時に母に騙されていた事に、頭の中の糸がプツン!と切れ、「物心ついてからずっと母には虐げられてきたけれど、もう言いなりにはなるまい! 私は私の人生を生きてやるんだ!!」と 自分に誓いました。

すぐに母にこの事実を突き付け、「私はもう、金なんか渡さない! 画家なんて なりたくてなった訳じゃないから辞めて 自分の好きな人生、歩んでやる! この事をパパにも白状しろっ!!」と 強く強く出ました。
母は逆ギレし、私に馬乗りになって髪の毛をギューギュー引っ張ったり、「娘に殺されるー!助けてくださーい!」と狂言の電話で、パトカーや救急車を呼んだり、隣街のソープに、「ウチの娘を買い取ってくれ!」と交渉に走ったりしましたが、世間が、そんな嘘や馬鹿げた交渉を受け入れるはずもなく、私は画家を辞める事にし、父からのまとまったお金を母から渡させ、父の連絡先も居所も知りました。
父は、郷里の久留米に、本妻となった元二号さんと住んでいる、という事でした。

その旨を画商に話し、「今来ている注文を全て描き了えたら、私は画家を辞めます」と 決意のほどを伝えると、画商は、「ぼんぼち先生が筆を折られるのは、もったいないですねぇ」と残念がりつつも、一つ、私に言わないでおいた出来事がある、と打ち明けてくれました。
なんと! 母は、画商を私に秘密で表に呼び出し、「ぼんぼちのギャラをぼんぼちに払わずに、前払いでアタシに渡してほしい」と 頼んでいたというのです。
画商は、速攻 断った、と言っていました。
当然です。
作品のギャラは、画商から直接画家に支払われるものであって、いくら家族であっても、そんな形を取るとトラブルの元になるからです。
画家と画商との契約には、「あずかり制」と「買い取り制」の二種類がありますが、私は、より安定した収入の得られる「買い取り制」を選んでいたので、常に、作品を渡した時点でギャラ受け取り でした。
画商は、「僕が断った時、お母さんの手、震えてたけど、お母さんアル中?」と けげんな顔をしていました。
母は、逆上してくると、手が震え、その感情にもっと拍車がかかると、両手共つっぱってパー状態に筋肉が硬直するのでした。
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注文を受けていた作品を全て描き上げ、画商との最後の挨拶を交すと、私は迷う事なく、父が私にくれていたまとまったお金を元手にマンションを借り 家を出ました。
その事を知った父は、月々、私に生活費をくれました。
しかし、その生活費は、母が、父が直接私に送るのを嫌がりゴネて、一旦、母の所に送り、母が現金で、月一で私の住んでいるマンションに手渡すんだと 譲らなかったそうです。
理由は、今度はシタテに出て、何とか私に再び、今までの生活をさせようという魂胆が見え見えでした。
私は毎月、金だけ受け取ると、玄関ドアをピシャリ!と閉めました。

そのちょうど一年後ーーー
母はクモ膜下出血で脳死になり、あとは心臓死を待つだけの状態となりました。
病院のICUの患者の関係者控室の畳敷きの部屋に行くと、かっぷくのいい白髪の男性が、背を向けて寝転がっていました。
寝返りを打つと、それが父でした。
かっぷくの良さは以前と変わりませんでしたが、真っ黒だった髪が真っ白になっていたので、ちょっと驚きました。
起きて、9年ぶりの対面の喜びの挨拶を交わした後、父は、「とし江(母の名)には、月々100万送れ!と迫られたけど、もう他人になったから、そんなには送りたくなかったんだよ。 そしたら、『銀行強盗やってでも100万送れ!!』ってギャーギャー騒いでたけど、パパは銀行強盗なんてしなかったよ」と 笑っていました。
その後、「あの土地と家は、これでぼんぼちのものだから、ぼんぼちの好きなように何とでも使いんしゃい」と コロンとあぐらになりました。

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懐かしの父の味・福岡仕込みのすき焼き [父]

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私が育った家庭は外食とてんや物中心の家庭だったので、家で夕飯を作って食べるという事がめったになく、あるとすればそれは、父が家に帰る たまの日曜日だけだった。
このブログを長く読んでくださっている方は既にお察しの事と思うが、私の母は人格が破綻した人間だったので、弁当はおろか料理など、作ろう筈もなかったからだ。
父が作ってくれる料理は、決まって すき焼きだった。

父はキッチンに立ち、長葱 春菊 糸こんにゃく 焼き豆腐 えのき茸を切り、そして紀ノ国屋で求めた特上の霜降り牛肉を大皿に乗せると、大皿を両手でかかげ、おどけたガニ股で太っちょの身体を左右に揺らしつつ「ハイハイ!すき焼きの始まりですヨ!!」と ダイニングのテーブルに置くのだった。
私と弟は「わーい!」と とんすいの中の生卵をチャチャッとかき混ぜ スタンバイする。

父は福岡出身だったので、父の作るすき焼きというのは、鉄鍋をラードでくるくると馴染ませ、牛肉をペロペロと並べ、砂糖をエベレストの如くに山盛りにするのだった。
それから、酒 醤油を足し、その後で その他の具材を投入していくのだった。

父の作る福岡仕込みのすき焼きは、甘ーーーく、それは、とんすいの卵を追加するほどに美味だった。
その間、母はダイニングテーブルの向こうの方で、薬味を刻むのも麺つゆを作るのも面倒らしく、生醤油に蕎麦を浸して ビール片手に「そんなもん不味ーーーい!!!そんなもん不味ーーーい!!!」と 相変わらず鬼の様な形相をして 一人で叫び続けていた。

大人になり、東京の人は「わりした」というものですき焼きを食べると知り、何年か前に、東京ですき焼きといえば、、、の今半に、わりしたすき焼き体験をしに出向いた事がある。
果たしてーーー
具材はいずれも最高級だったが、わりしたは私の舌にはただただしょっぱいばかりで、何度も喉元まで「砂糖を下さい」と出かかったが、郷に入れば郷に従え 何の為に自分はここに来たのだ? と我慢して完食した。

やはり父のすき焼きの味は、私の味覚形成期に深く根を張り、これは一生 みぢんも揺らぐ事はないと 痛感した。
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「寂しくなかったですか?」 [父]

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よく話しの流れで「私の父は複数人愛人さんを囲っていて 私の家である本宅に帰るのは二ヶ月に一度くらいでした」と言うと、時々「寂しくなかったですか?」と たずねてくる人がいる。
そのたずねかた・そこに見える感情が「寂しかったのか寂しくなかったのか かいもく想像がつかないから教えて?」というのならいっこうに構わない。いくらでもたずねてほしいと思う。
そして「ぜんっぜん寂しくなかったですよ。だって、私にとってはそれが当たり前だったから」と 笑顔で答える。

しかし、たずねてくる人の中には 以下の感情が見え見えの輩が少なからずいるのである。
「寂しかったよねー!寂しくなかったわけないよねー!愛人囲うなんて酷いお父さんだよねー!」と言わんばかりの 眉をハの字にした いかにも哀れな者を見おろすような「寂しくなかったんですかあっ?」。
何?その決めつけ!愛人囲うことがさも悪いような 家に帰らないことが絶対的にいけないような、一方方向からのかたくなな考え。
どういうお父さんがいいお父さんかどうかは、その子供本人が決めることだろうが。

そういう感情で以て「寂しくなかったんですかあっ?」と迫ってくる人には、売り言葉に買い言葉で こう返してやりたくなる。
「ということは、アナタのお父さんは毎日家に帰ってきてたんですね。愛人の一人も囲えなかった 甲斐性無しのお父さんなんて、情けなくなかったですかあっ?」ーーーと。

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 父が入院した思ひ出  [父]

私が高校二年のある日、帰宅すると、母がメモ書きをリビングテーブルに放るように置いた。
「パパが入院してるんだとよ! おめーに見舞いに来てほしいだとさ!」
その頃、父は、一カ月か二カ月に一日しか家に帰らなかったので、それで初めて入院していることを知った。
----家に帰らない日 父はどこに寝泊まりしていたかというと、複数人囲っている愛人さんのいずれかのマンションだった。
メモ書きには、病院名とその病院であるらしい電話番号が記されていた。

入院している病院は、新宿御苑近くの父の会社の本社のすぐ並びに在った。
----後で聞いた話によると、社員がいつでも会社の状況を報告に来られるように その病院を選んだとのことだった。

土曜日の学校帰り、私が父の病室を訪れると、父は意外と元気そうにベッドに座っており、いつも私と逢う時と同じく上機嫌で 学校はどうだとか勉強頑張っているかなどと話しかけてきた。
と、財布から札をぴらっと出し、こう発した。
「ぼんぼち、一階の喫茶店でミックスサンドを包んでもらって来い! 釣りはお前のこずかいだ!」
私は首を横にふった。
何故なら、父の病気は、食事制限が必要な病気だったからだ。
私が動かないと見るや、もう一枚札をぴらっと足し、
「ぼんぼちちゃん、これで包んでもらって来てちょうだいナ」
やはり私が動かないと、もう一枚ぴらっと加え、
「ぼんぼちさん、どうかこれでお願いしますヨ」
ぴらぴらぴらっの手を引っ込めないのだった。
私は、制服の腰をあげないわけにはゆかなかった。
私は決して、こずかいをつりあげる駆け引きをしたのではなかった。
食べることは父の大の楽しみの一つだとよく解っていたので、父の気持ちを考えると 折れないわけにはゆかなかったのだ。
一階で680円のミックスサンドをホイルに包んでもらい、病室の父に渡し、29320円を学生鞄に 病院を後にした。

母は、父の入院中 一度も見舞いに行かなかった。
入院 入院中 退院の身の周りの世話は誰がやっていたかというと、愛人さんの一人だった。
大人になってからは、うちのような家庭は極めて稀なのだと解ったが、当時の私には 何から何までただただ当たり前の「父の入院」という 日常の中のちょっとした出来事なのだった。

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 親近感  [父]

いつだったか テレビを点けたら、出川哲朗さんという芸人さんが こう話していた。

「小学生の時、友達に『明日は日曜日だから、お父さん帰ってくる日だね』って言ったら、その友達は『何言ってるの? ウチのお父さんは毎日帰ってくるよ』って 不思議な顔するんですヨーー。 で、ボクは、その子の家が特別なんだって ずーーっと思ってたんですヨーー。 ボクのお父さんは、愛人さん何人も抱えてて、日曜日以外は愛人さん宅を泊まり渡ってて、どこの家もそれがフツーだって 当たり前に思ってたんですヨーー」

でがわ.jpg自分は、苦笑しないわけにはいかなかった。
同時に、テレビの中の出川さんに、物心ついた頃から 共に遊び 一緒に白黒のスナップ写真におさまってきたような近しさを 感じずにはおれなかった。
自分も まるで同じ家庭だったからである。

小学四年か五年の時、一旦 家にカバンを置き、級友の家で 時の経つのも忘れ ゲームに夢中になっていたある日------
「ただいま」
級友のお父さんが 現れたのである。 ニコニコと穏やかな笑みと共に。
「お父さん帰ってきたーーー!」
級友も、軽々とゲーム盤から立ち 走って行った。
時計を見ると 七時前だった。

でがわ2.jpg自分は、級友とその父親は 実は火星人なのではないか というくらいに驚いた。
こんなに摩訶不思議な家庭も 世の中には ごくまれにあるものなのだな と思った。

自分は、それから 幾多の摩訶不思議な体験を重ね、そして、現代の日本に於いては 自分の家庭こそが 極めて少数派であったという事実を ようやっと認識した。
おそらく、出川さんも そうなのではなかったかと思う。

以来、テレビで出川哲朗さんをお見かけする度に、自分の細胞の一つ一つから えもいわれぬ親近感があふれ出るのを感じる。

親近感というものは、そこに各当する人間がまれであればある程、それが 秘められた物事であればある程 強く感ずるものである。

 
タグ:出川哲朗
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