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新宿梁山泊「新二都物語」観劇そして打ち上げ参加 [映画・演劇雑記]

新二都物語.jpg
6月27日(月)
唐十郎氏の劇団と姉妹劇団という関係にある 金守珍氏率いる新宿梁山泊の公演「新二都物語」を 新宿花園神社境内に張られたテント小屋---通称紫テントに観に行く。
楽日ということもあってか、紫テントは 階段部分通路に補助席を設けるほどの飽和状態。

台本は唐十郎氏、主演は唐氏のご子息である大鶴義丹氏。
唐氏のところで看板だった大久保鷹氏や下北沢で幾つもの劇場を経営する本田一夫氏も 出演される。
60年代アングラの世界を崩したり発展形にしたりせずに なおかつ現代(いま)のテムポで もったりさせずに押し切る金氏の演出力は流石。
水を使った壮大な装置が圧巻で、演劇が演劇である事の意義を実感する。
----カーテンコール
元唐氏夫人の李麗仙氏が客席に来ておられ、観客一同に挨拶をしてくださる。

公演終了後、客出しが了るや、客席桟敷部分にビールやつまみが置かれ、打ち上げ会場となる。
麗仙氏の乾杯の音頭で、和やかに歓談し 飲み食う。
金氏がキャスト・スタッフのかたがたに ねぎらいの言葉と共に大入り袋を配る。
笑顔で受け取り 一言づつ感慨を述べるキャスト・スタッフ。
それが了ると 金氏は、麗仙氏に感謝の言を向けた。
唐氏の初期作品「腰巻お仙」にまつわる話 義丹氏の幼い頃の話など、麗仙氏は、貴重な昔話を幾つもしてくださった。
帰り際----
義丹氏と簡単な挨拶を交す。
義丹氏は非常に謙虚で礼儀正しく 好感の持てる人物だった。

紫テントを出、ネオン溢れる新宿の街を駅へと向かう。
非日常の高揚感と生きるエネルギーと人間の温もりを頂けた 有意義な一夜だった。

梁山泊.jpg



タグ:新宿梁山泊
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音量をゼロにして映画を観る  [映画・演劇雑記]

映画好きのみなさんは、達作だと思う映画・気に入った映画の脚本を入手し、それを読みながら画面を確認する という事をしばしばやられていると思います。
脚本家の仕事が、長所も欠点も手に取るように詳らかに解ってきますね。
出回っている脚本は、殆どが完成台本ではなく決定稿なので、現場や編集の段階で変更された箇所が発見できるのも 興味深いですね。

この観方を幾度か愉しんだら、次はこんな観方をしてみられては如何でしょうか。
「音量をゼロにして作品を観る」
すると----
キャメラの仕事と編集の仕事が面白いほどにぐぐっと前面に出て、音が付いていた時には気がつかなかったり何気なく見過ごしていた諸々が 明確に把握できます。
---この時、一つだけ気をつけたい点があります。
うっかり自分の好きな音楽をBGMとして流してしまわない事です。
流してしまうと、画面に集中できなくなるだけでなく、一つの別の世界観が立ちあがってしまうからです。

5~60回あるいは100回以上堪能した自身の特選作、シーーーーンと咀嚼するのも また一興です。
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タグ:映画
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私が商業映画を観るときの姿勢  [映画・演劇雑記]

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私は日頃から、偏らずに様々なジャンルの映画を観ようと心がけている。
そして、それぞれのジャンルに向く時には、それぞれのモードで以って 画面に向かう。

アート・実験映画系は、何も考えずに気楽に観ることができる。
作家の意図や技法などを 予備知識として後で時間のある時にちょっと調べてみたりはするが、基本的に、観ていると 安らぎやストレス発散になるので、手放しに娯楽として愉しめる。
対して、商業映画の場合は、心に余裕・エネルギーが溢れている時でないと 観ることが出来ない。
よいしょ!と 自分の中での大きな思い切り・気構えが必要とされる。
監督の計算や脚本の出来や役者の演技を真剣にチェックするからだ。

十五年ほど前に、映像理論やシナリオ作法や演技論を 素人の趣味の範囲ながらも勉強したのだが、それ以前は、アート・実験映画は非常に魅力に感じられたものの、商業映画に関しては、いったい何故 わざわざこういうことをフィルムに焼きつけるのか かいもく解らなかった。
専門的にあれこれ勉強して、初めて、見方というか興味を持てる要素が浮上してきたのだ。

勉強したきっかけは、別に 商業映画を興味深く観ることが出来るようにとの目的ではなかったのだが、結果として 瓢箪から駒的な大きな収穫があった。
勉強していなかったら、今だに 何百何千何万本の商業映画を観ようが、ただただ首を傾げるだけだっに違いない。
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タグ:商業映画
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 観劇  [映画・演劇雑記]

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十年から十五年ほど前は、週に一、二度の頻度で あらゆるジャンル・方向性の演劇を観に出向いていた。
あくまで素人の趣味の範囲でではあるが、演劇の何たるかを知るための学びの一つとして、演劇史 演出論 演技論や実技とともに、とにかく我が内に取り込もうと努めていたのだ。

そして、自分なりにではあるが、一通り納得のいくまで勉強し、映画という表現手段のほうが嗜好に合っていることや ジャンルの中では不条理が面白いと感じることなどが明確に解ってからは、劇場に足を運ぶのは、年に片手の指に足りるほどとなった。

が、勿論、演劇に対する興味が失せてしまったわけではないし、今も心に熱く響き続けている舞台は幾多ある。
これまでで最も感動したのは、極小空間にてめくるめく展開をみせる社会派作品、坂手洋二・作演出 燐光群演ずる「屋根裏」である。
又、年一度の公演毎に何年間も繰り返し愉しんでいたのは、三木聡演出のシティーボーイズライヴ。
こちらは、独特の間・無意味さといったベケット的不条理を笑いに転換させた 肩のこらないコントだった。
三年ほど前には、唐十郎氏の戯曲「ベンガルの虎」を金守珍氏が現在(いま)のテムポで再構築した新宿梁山泊の公演に 呼吸(いき)つく間なく吸引され、アングラ健在!と唸った。

残念ながら、今年は一度も舞台を観なかった年になってしまったが、来年は、二月三日に、大好きな山田孝之氏が主演するとのことで、ミュージカル「フルモンティ」にゆく。
山田氏は映像のみの仕事をやり続けてゆかれる役者さんなのだろう と漠然と思っていただけに 嬉しく驚いている。
生で山田氏の演技を堪能できる日を 指折り数えるばかりである。

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タグ:演劇
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 映画的おわりかた・落語的おわりかた  [映画・演劇雑記]

私は、エッセイに近い文体の散文詩を しばしば綴っています。
又、散文詩に近いマチエールのエッセイも。

両者の間に歴然とした境界線はないと考えていますが、一応 私の中では、以下の基準で以って分類分けしています。
結びの一文が、ふわりと中間色的で 読者にゆだねる形をとっているのが 散文詩。
物理的・感情的に明確で、いわゆる「オチ」のつくのがエッセイ----と。

これは、前者が 映画的おわりかた、後者が 落語的おわりかた、とも言えるかも知れません。
映画も落語も、私はどちらの世界観も それぞれに好きだったりします。

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タグ:落語 映画
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 さようなら!高円寺・オービス!!  [映画・演劇雑記]

勝手なもので、自分は「仕事は仕事、趣味は趣味」と その両者が重なることはあり得ないくせに、趣味が高じて営っていると思われる店に客として行くのは 好きだったりする。
そして、そういう店が閉店してしまうと、「悲しい」だの「残念でならない」だの「何でやめてしまうかなぁ」だのと さんざん思いのたけを吐いてまわる。 まったく勝手以外の何ものでもないのだが。

オービス2.jpg5月31日、大手レンタル店では先ず見つからない 少数派の映画ファンが喜ぶ作品を主に扱うレンタルビデオ店 高円寺・オービスが閉店となる。
私は、既に劇場でも観た 三島由紀夫 監督・主演の「憂国」や マヤデレン短編集や、松本俊夫実験映像集シリーズの自分が所有していない版や、所有するほどではなくとも一度はチェックしておきたかった 寺山修司のラジオドラマ「コメットイケヤ」や 三島最期の演説や 若かりし高田渡 三上寛のライヴ映像や、お世辞にも秀作とは言えないものの上映禁止に追われ知る人ぞ知る映画となってしまった「追悼のざわめき」等々・・・・店内棚にて発見する度に小さく歓喜の声を上げつつ 借り愉しんでいた。

殊に、キノビデオの「エクスペリメンタルシネマ・オブ・ザ1920アンド1930アヴァンギャルド」2枚組は、欧米実験映画史に遺り続ける達作が数多つめこまれ、以前 講座を通して初観し、反芻したいと願いながらもその術を得られなかった作品が幾つも入っており、ネットで米国から直接取り寄せたという店主の拘りに いたく感服した。

オービス1.jpg5月上旬、レンタル作品は全て販売となっていたので、私はこの「エクスペリメンタルシネマ・オブ・ザ1920アンド1930アヴァンギャルド」2枚組を 記念の意も込め 買い求めた。
店主は、実験映画にまつわる与太話に笑顔で応えてくださったり 電話で待った!をかけて返却にあわてて駆け込む私を閉店時間が過ぎても待っていてくださったりと、そういった点でも、大手チェーン店では絶対に体感不可能な温度と湿度だったことに 感謝と恐縮の念でいっぱいになる。

ありがとう!店主!!
さようなら!オービス!!
オービスは永久に、私の頭蓋という再成装置でカイテンし続けるよ!!!


タグ:オービス
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 映画館でやってしまいがちなうっかり  [映画・演劇雑記]

先日、某映画館にて----

そこは、製作年度・作品名・監督名を スタッフのかたが紹介した後で本編スタートとなるシステムで、その日も時刻になるや、女性スタッフが出入り口に立ち、これから上映される GSに材を取った60年代青春映画の製作年度とタイトルを ニュースを読み上げるアナウンサーさながらに 無表情に淡々と発した。
と、
「えぇぇぇ~~~っっっっ!!!???」
劇場中に響き渡る声を飛ばした人がいた。
うっかり2.jpg私の前列に座る男性だった。
「えぇぇ~~っっ!!?? 違いますよねぇっっっ!!!」
スタッフの女性は、後ろに立つもう一人のスタッフと 間違っていない旨を確認するらしいやりとりを小声で交し、すぐにまた、アナウンサー的な表情と発声で 監督名を続けた。
「違いますよねっ!! 『○○チャンバラ○○』ですよねっ!!」
男性は、再び 言いさえぎった。
隣の席の人が「『青春○○○』ですよ」と、プログラムを手に スタッフと同じタイトルを静かに教えると、男性は
「えっ?えっ?えぇっ!! そっ・・・そんな・・・・・・・・・こりゃ大変だ!!いかんいかん、早くしないと!!!」
火事場から逃げ出す勢いで 手荷物を引っ掴んだ。
「それでは、最後までごゆっくりご覧ください」
スタッフ女性は、いつもと同じ〆めの言葉を いつもと寸分違わぬやはりアナウンサー調で了え、いつもと同じ角度で会釈し いつも通りに消えた。
場内暗転----と ほぼ同時に、荷物を抱えた男性が駆け出て行った。

うっかり.jpg通常 モギられたチケットの払い戻しは受け付けないものだが、この男性の場合に限っては、理由が理由なだけに 払い戻しをしてもらえたらいいな と思った。
又、男性が目当てだった タイトルにチャンバラが入る作品はいつの上映なのかプログラムを見ると、次の日からの三日間であると解り、これから観ることができるのでよかったな とも思った。

私には、この男性が劇場中に声を飛ばさずにおれなかった気持ちが 痛いほど解る。
何故なら、私にも 似たような経験があるからだ。

前口上のない劇場だったので、随分長い予告編だなぁと 約二十分ほど観すすんだところでようやっと気付き、「えぇぇっっ~~!!??」と声を飛ばした。 私は、心の中で だったが。
そして、既に席を立つに立てない状況だったので、その作品を目当てに来ている他の客と同じように ラストまでじいっと観て帰ったのだった。


タグ:映画館
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 間違った言い方をする人  [映画・演劇雑記]

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「映画はかなり勉強しています!」と揚々と目を輝かせてまっすぐにこちらに向く人と映画についての話をしてみると、まるでダイヤローグが成立しないことがある。
妙な間ができ、「いやぁ、私はまだまだ勉強が足りませんねぇ」と、あわててその間を埋めむが如く つとめて明るく頭を掻いたりするので、「はて?この人は、一体映画の何について学んできたのだろう?」と心の首を傾げ、どこの学校・研究所に通っていたのかと問うと、「・・・・いえ、学校や研究所に行ったことはないんです」、やや目の勢いを弱めて答える。
「独学で学ばれたのですね。 映画の何について勉強されたのですか? 映像理論ですか?映画史ですか?脚本ですか?演技ですか?機材ですか?もしくは・・・」と 可能な会話の糸口を探ると 「・・・あ、いえ・・・それも 何も・・・・」 視線を自身の膝の辺りに迷走させる。
よくよく聞いてみると、単に「映画が好きで 漠然と楽しく観ている」だけだったと判る。

「勉強として映画を観る」というのは、「この脚本家は、小道具を使って登場人物の性格を表わすのが巧いな」とか 「この時代の役者さんの演技は、現代(いま)とはメソッドが違うから 呼吸と感情が連動していないな」とか、基礎的な理論を踏まえた上で、主観的な感情とは別に 技術や感性を 肯定的にも否定的にも吸収してゆくことである。
どの分野に於いても、基礎を何一つ学んだ経験のない者が観たり聴いたりするのは、どれほど真剣に神経を研ぎ澄まして対峙しようと 「鑑賞」である。
---無論、私は、「鑑賞」がくだらぬ無意義な行為だなどとはみぢんも思っていない。 私だって、ブルース音楽に関してはCDの収納に困るほどに数多の「鑑賞」をしている。
「鑑賞」を重ねて分厚く豊かになるのは 「心」「感性」、「勉強」で蓄積されるものは 「理論的理解」「方法論の会得」と、ベクトルがまるで違うものだ と言っているのである。
基礎を学んできた者が、「勉強しながら鑑賞する」ことはいくらもあるだろうが。
話の流れで、「あー、今日は時代劇観たから 日本史の勉強になったねー」などと言うのは笑って頷ける。
こういう時の勉強とは、「今日はいっぱい散歩したから荷風の気持ちが解ったよ」という程度の半ばジョークだからである。
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テレビでお馴染みの有名人を偶然街で見かけたことを 「会った」という人がいる。
その言葉を疑わずに 「どこで会ったのですか?」と聞くと、「昨日の夕方、新宿の紀伊国屋書店の裏を歩いていたらバッタリ!」などと 勢いづいた返事が来る。
ということは、パーティーに出席したら その有名人が来賓として来ていたとか あるいは司会進行役をやっていたとか、自分が勤めている会社や店に取材で来たとか ではないのだから、元々の知り合いなのだな という解釈になる。
「○○さんとはどういうご関係なのですか?」と尋ねると、「・・・いや、知り合いじゃないですけど・・・・」 ちょっと口ごもる。
「でも、『会った』のでしょ?」
「会いましたよ! 絶対間違いなく○○でしたよ!!」
・・・・・ただ一方的に「見かけた」だけだという訳である。

「会った」というのは、双方共に認識し、会話こそ交さずとも目と目を合わせ 心の中で「あ!久しぶり!こんにちは~」とか 「チッ! 相変わらずの様子だぜ」などと言いあうことである。
たとい本名や職業や住んでいる所は知らずとも、「バー○○のカウンターの端っこで いつもジントニックをやってる競馬好きの奴だ」くらいに個人として識別していることである。
もしも「会った」という言葉の定義が「見かけた」と同義であれば、「今日は新宿まで出たから 何万人もの人達と会ってきたよ」と 大真面目に話すこととなる。

間違い2.jpg

街の商店の一つがその場所で営業をしなくなったことを全て「つぶれた」という人がいる。
勿論その場所で営業をしなくなる理由の一つには 本当に「つぶれた」場合もあるだろうが、別の場所に移転するのも 道路拡張で引っ込んでまた営業するのも 内装工事でしばらくシャッターが閉まっているのも 全て「つぶれた」という語を使う人がいる。

「つぶれる」というのは、多大な負債を抱えて倒産することである。
そういう言い方をする人は、自分が勤める会社が別のビルに移転したら、「俺の会社つぶれちゃってさー」と言うのだろうか?

いずれも、二、三分話を聞いているうちに何を言はむとしているのか判明する 別段こちらの生活に支障をきたすこともない程度の間違った言い方に過ぎないのだが、流行語でも プロ以外は正しく認識していなくとも仕方のない専門用語でも 「自分の勤めている会社」を「私の会社」「自分の注文するコーヒー」を「私はコーヒー」というような慣用語でもないのに、一体何故、いい大人になってこんな間違った言い方をする人がいるのか はなはだ疑問に感ずる。
こういう人と話をするのは 非常にイライラさせられ、同時にその人となりに大きく失望させられる。

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 テーマ「映画」で綴りきて  [映画・演劇雑記]

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私は この三年余の間、ソネットブログのテーマ選択肢から「映画」を選択し、拙いながらも記事を重ねてきました。
勿論 映画以外の話題も幾多あり----というより、映画とはまるで関係のないもののほうが多かったりするのですが----ブログテーマに「映画」を選んだ時点で、自分の中で迷わず決めたルールが一つあります。
それは----
「かたよりなく あらゆるジャンルの映画にふれてゆこう」 ということです。
実験映画もアートシネマも音楽映画もアニメーションも商業の劇映画も個人映画もドキュメンタリーも文化映画も、米国作品も東欧作品も北欧作品も西欧作品もアジア諸国の作品も そして日本の作品も、映画創世期から現代の最新作まで・・・・・。
これには、私が子供時代 映画というものに出逢って間がない頃に感じた疑問に基づく理由があります。

私が「世の中には映画というものがある」 と初めて認識したのは、小学校に上がるか上がらないかの頃、1.5時間弱の尺に再編集された ○曜映画劇場なるテレビ番組からでした。
「グレンミラー物語」 「ホワイトクリスマス」 「バス停留所」 「帰らざる河」 「鳥」 「雨に唄えば」 「黒いじゅうたん」 「ジョニーは戦場へ行った」 「死刑台のエレベーター」・・・・
夜九時になると リビングのなだらかな四角から流れる異国の物語を 観るともなしに観ていました。

親が洋画好きの邦画嫌いだったので、ウチではチャンネルを合わせないだけで、日本では 裕次郎や小林旭や寅さんの映画が映られていることは知っていましたし、学校の体育館で 米国のセルアニメの劇映画を体育座りで鑑賞したこともありますし、私の爬虫類好きを思ってか 父がゴジラ映画に連れ出してくれたこともありますし、大人の男の人向けに おっぱいの大きな裸の女の人ばかりが出てくる映画があることも 電柱に斜めにくくりつけられたステカンから 黙って学習していました。 
映画1.jpg
しかし、小学校高学年になった頃----
漠然と、ただ漠然とですが、私の中に もやもやっとした不定形の疑問が湧き出でてきました。
「何でこういうのばっかりなの? もっと他にあるんじゃないの?」
----と。

「こういうの」の中には、幼い無知な私に様々な知識----ジャズという心地いい音楽ジャンルがあることや 米国ミュージカルスターの技術の高さや マリリンモンローというこの世の者とは思えないほど可憐な女性が存在していたことや 生物大発生の恐ろしさ----を吹きこんでくれ、今も反芻する度に 感嘆のため息を吐き、本当に出逢って良かった!と深く頷く作品が幾多あります。
殊に 「ジョニーは戦場へ行った」あたりは、映画という文化にまるで興味のない人も絶対に観ておくべき作品だと 変わらず思い続けています。
けれど----
私の疑問は、分裂を繰り返し増殖する細胞のように もやもやもやもやと膨らみ続け、同時にそれは、「精神の飢餓感・欠落感」でもありました。

----身体に置き換えて例えると、こういうことです。
自分が日々 家や外で食べているのは、チャーシュー ハンバーグ 角煮 ステーキ フライドチキン・・・・様々な味付けの様々な料理・・・けれど、それらはすべて 肉。
肉料理の中にはとても美味しく明らかに身体によいものも沢山あるのだけれど、なんだか肉体の深い部分でバランスの悪さを覚えずにはおれない。 身体の調子が悪い。 これは健康とは言えない。
人間の食べ物って、肉以外にも もっと他にいろいろあるんじゃないだろうか?
でも、その他の食べ物って何があるのだろう?
必ずどこかに 肉以外の食べ物がある筈なんだけど、自分はまだ それを知らない。
肉以外の食べ物も食べてみたい!
食べなきゃ 身体が壊れちゃうよ!!
----と。
えいが4.jpg
飢餓と欠落を増殖させつ中学に入り----
私は、寺山修司の書物をひもとく中で、自分が視界ゼロの霧の中で探していた映画ジャンルの一つが「アート・実験映画」と呼ばれるものであることを知り、時間に余裕の出来た三十代、研究所の講座を通じて 怒涛の数のアート・実験作品を浴び、ようやっと、精神の飢餓感・欠落感を埋め始めるスタンスに辿り着きました。
そして、資本主義社会の構造や国交事情なども 理解のできる年齢になっていました。

映画にはどのようなジャンルがあるのか一通り認識できた今現在、「どのジャンルが一番好きですか?」と問われたら、やはり 「アート・実験系です」と 間なく答えます。---無論、アート・実験系であれば何でも好き という訳ではありませんが。
ドキュメンタリーも、リーフェンシュタールのようなアート系の撮り方に魅入ってしまいます。
好きな映画を順に挙げてゆくと、どの時点で集計を取っても 7割くらいの割合で、アート・実験系が占めます。

「それなら、ブログに於いての映画感想も その比率で書けばいいじゃない。 一個人が、趣味・道楽で 金儲けとは関わりなく自己満足でやってるんだから」と言われそうです。
確かにそれはそうなのですが、私は、子供の頃に自分が覚えた疑問と同類の感情を私のブログを読んだ人が感じる可能性のあることをする----というのが嫌なのです。
単なる自意識過剰に過ぎないかも知れませんが。
けれど、おしなべる為に無理して、駄作だと感じる作品 嫌いな方向性 バランスを欠いた映像 偉大だと思えない監督・映像作家・役者さん・・・・を取りあげて心にもない持ち上げをしようとは みぢんも考えません。
以前鑑賞して自分の内にある、あるいは新たに覚えた感動の中からだけ、かたよりのないジャンルで公開してゆきたい・・・・と 固く思っています。

・・・・ともあれ、こんな私の拙いブログ。
あなたに読んでいただけて 光栄です。
ありがとう!
えいが2.jpg

タグ:映画
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 役者・自由か不自由か  [映画・演劇雑記]

無名の役者さん達と話をすると、おおかたの人が 「舞台は自由だから好き。 映像は不自由だから嫌い」 と仰います。
「自由・不自由」とは一体何を指しているのかと問うと、判で押したように 「たんさん動きまわれるか否か」 という答えが返ってきます。
「だから 舞台はやりがいがあるのだ」
----と。
役者1.jpgしかし----
私は この決まり台詞を向けられる度に 幾つもの疑問符を押しこめた「」で 彼らの顔を覗きこまない訳にはゆきません。

確かに、細かな指示無しに役者自らの意思で舞台狭しと動けることは、自由の一つには違いありません。
けれど、何故 彼らは その点ばかりに価値を持つのか----?
何故、「既存の戯曲はテーマを変えようがないけれど、自分達で創作すれば、自分が常日頃から世の中に訴えたいと拳を硬くしている思想を発信できるから 創作モノが自由で好きだ」 とか、「文学的な科白劇は台詞を一字一句変えることは許されないけれど、即興性を重視した作品は 大きな流れから逸脱さえしなければ 語尾や感嘆詞など その時 湧き出でた感情のままに発することができるから、それが自由で好きだ」 と役者2.jpgか、「不条理演劇は様々な解釈が成立するから、それこそが自由というものだから好きだ」 といった声はあがらないのか??
役者の役割りは 物理的に動くことだけではない訳ですから、あらゆる視点からの 自由・不自由の意見があって然るべきだと思うのですが。

そんなに物理的に動くことに大きな拘りを持ち それ以外に執着がないのなら、どうして 役者を選択したのか? どうして 創作舞踏家にならなかったのか?
私は首を傾げてしまいます。

----デザインの基礎的勉強の一つに、「平面構成」というものがあります。
画面は何号で 色数は何色使用し 直線は可で曲線は不可・・・等々、その都度都度で幾つもの指定があり、指定を全て守りつつ 可能な限り高い完成度の作品を目指す勉強です。
役者の役割りというのは、理屈として これに近いことのように思います。
あらゆる指定の中で どれ程 その役者にしかできない良い仕事をするか----
つまり、不自由であるという前提を受け入れ、その中で どんな自由さを追求できるか----
役者であることに真正面から向き合ったらそういう答えが出るのではないか と 私は思います。

タグ:役者
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