傷痍軍人の思い出 [独り言]

20200909_162255.jpg

私は9才の時、福岡の米軍基地にかこまれた町から 東京郊外の国立に越して来た。1971年だった。

派手な遊び好きの母は、父が帰って来る日曜日、父に車を出させ、新宿まで出向き、伊勢丹の駐車場に車を入れ、伊勢丹であれやこれや買い物をして、一旦、車に買い物袋を押し込み、そして、父と母と私と まだヨチヨチ歩きの弟は、現・アルタ前から、現・思い出横丁の間をつなぐ 西口地下通路を通り、その頃 出来立てだった京王プラザホテルで コース料理をとり、再び、西口地下通路を歩いて、伊勢丹の駐車場に戻り、帰路につくのをならいとしていた。

その時、西口地下通路に必ずいたのが、傷痍軍人だった。
白い着物をまとった片脚の痩せこけた 目ばかりギョロついた初老の男が、ハーモニカで短調の曲を吹いていた。
戦争が終わって何十年も経って、いくら片脚を失ったからといって、傷はもうとうに治っている筈なのに、すりこぎの様な片脚に真っ白い包帯が巻かれているのが、子供心に不思議だった。
その様は、哀れでもあり、不気味でもあり、恐怖の念を抱かずにはおれず、完全に高度成長期が熟成しきった華々しい新宿の中で、切り取られたが如くに異質であった。

その白装束の男の前には空き缶が置かれていて、小銭が数えるほどに入っていた。
母は、「アタシは金持ちの夫人なんだっ!」と ひけらかしたくて、京王プラザホテルに入ると、ふんぞり返ってピラピラとチップをホテルマンに渡していたのに、その男の人には 何故渡さないのだろう?と思っていた。
ハーモニカの音に振り返って見たりすると、父に小声で、「見んでよか」と たしなめられた。

母が、伊勢丹と京王プラザホテルに飽きたのと、父が日曜日も帰らない日が多くなったのがきっかけで、我が家の新宿通いは、一年ほどで了ってしまった。

そして、私は、中学は新宿にほど近い所に通う事になったので、しばしば放課後、新宿の繁華街をうろつき、西口地下通路も何度もくぐったが、その時には、あの白装束も 痩せこけたギョロリとした目も すりこぎに巻かれた包帯も 通路に響き渡る湿ったハーモニカの音もなかった。

30代になりーーー
私は、塚本晋也監督の映画のファンになり、塚本監督の書かれた書物やインタビューを、むさぼり読んだ。
うちーーー
「子供の頃の思い出ではですねぇ、新宿に傷痍軍人がいましてね、それが恐くて恐くて、強烈に脳裏に焼き付いてますね。 傷痍軍人を見たのは、僕らの世代が最後ではないでしょうか?」とあった。
塚本氏は、私より2才上の、1960年生まれである。

塚本氏の映画作品を初めて観た時、「この監督は、私と同世代で、東京育ちに違いない!」と直感し、プロフィールを調べたら、その通りだった。
そして、傷痍軍人への恐怖感というのも同じで、それは、表だって表現されてこそいないが、塚本作品の奥底を流れ、観る側の私も、無意識的に共通認識を覚え、それが、塚本作品群に惹かれた一因だったのだと、気がついた。

20200909_162255.jpg

nice!(241)  コメント(65) 
共通テーマ:映画