傷痍軍人の思い出 [独り言]

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私は9才の時、福岡の米軍基地にかこまれた町から 東京郊外の国立に越して来た。1971年だった。

派手な遊び好きの母は、父が帰って来る日曜日、父に車を出させ、新宿まで出向き、伊勢丹の駐車場に車を入れ、伊勢丹であれやこれや買い物をして、一旦、車に買い物袋を押し込み、そして、父と母と私と まだヨチヨチ歩きの弟は、現・アルタ前から、現・思い出横丁の間をつなぐ 西口地下通路を通り、その頃 出来立てだった京王プラザホテルで コース料理をとり、再び、西口地下通路を歩いて、伊勢丹の駐車場に戻り、帰路につくのをならいとしていた。

その時、西口地下通路に必ずいたのが、傷痍軍人だった。
白い着物をまとった片脚の痩せこけた 目ばかりギョロついた初老の男が、ハーモニカで短調の曲を吹いていた。
戦争が終わって何十年も経って、いくら片脚を失ったからといって、傷はもうとうに治っている筈なのに、すりこぎの様な片脚に真っ白い包帯が巻かれているのが、子供心に不思議だった。
その様は、哀れでもあり、不気味でもあり、恐怖の念を抱かずにはおれず、完全に高度成長期が熟成しきった華々しい新宿の中で、切り取られたが如くに異質であった。

その白装束の男の前には空き缶が置かれていて、小銭が数えるほどに入っていた。
母は、「アタシは金持ちの夫人なんだっ!」と ひけらかしたくて、京王プラザホテルに入ると、ふんぞり返ってピラピラとチップをホテルマンに渡していたのに、その男の人には 何故渡さないのだろう?と思っていた。
ハーモニカの音に振り返って見たりすると、父に小声で、「見んでよか」と たしなめられた。

母が、伊勢丹と京王プラザホテルに飽きたのと、父が日曜日も帰らない日が多くなったのがきっかけで、我が家の新宿通いは、一年ほどで了ってしまった。

そして、私は、中学は新宿にほど近い所に通う事になったので、しばしば放課後、新宿の繁華街をうろつき、西口地下通路も何度もくぐったが、その時には、あの白装束も 痩せこけたギョロリとした目も すりこぎに巻かれた包帯も 通路に響き渡る湿ったハーモニカの音もなかった。

30代になりーーー
私は、塚本晋也監督の映画のファンになり、塚本監督の書かれた書物やインタビューを、むさぼり読んだ。
うちーーー
「子供の頃の思い出ではですねぇ、新宿に傷痍軍人がいましてね、それが恐くて恐くて、強烈に脳裏に焼き付いてますね。 傷痍軍人を見たのは、僕らの世代が最後ではないでしょうか?」とあった。
塚本氏は、私より2才上の、1960年生まれである。

塚本氏の映画作品を初めて観た時、「この監督は、私と同世代で、東京育ちに違いない!」と直感し、プロフィールを調べたら、その通りだった。
そして、傷痍軍人への恐怖感というのも同じで、それは、表だって表現されてこそいないが、塚本作品の奥底を流れ、観る側の私も、無意識的に共通認識を覚え、それが、塚本作品群に惹かれた一因だったのだと、気がついた。

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taku1_lily

わたし、1959年生まれ。
大きな神社の鳥居の前でハーモニカを吹く傷痍軍人さんを目にした記憶があります。5~6歳の記憶ですから戦後20年以上経ってたわけで真贋はともかく傷痍軍人を見たのは、僕らの世代が最後ではないでしょうか?には納得!
by taku1_lily (2022-08-23 06:25) 

我流麺童

私も同世代のため池袋駅の地下道で傷痍軍人が白い包帯をしてハーモニカで軍歌を吹いていた記憶があります。
後で聞いた限りでは国から傷痍手当を貰っていたので生活には困っていなかったようです。
by 我流麺童 (2022-08-23 06:30) 

拳客の奥様

ぼんばちさんの記憶にも有るのですね^ ^
私の記憶は、正月の神社へと続く参道に数年見かけました
小さなレコードプレーヤーで、軍歌を流して…
最初は2人居たのに、最後には1人になってましたー



by 拳客の奥様 (2022-08-23 06:31) 

mm

おはようございます^^
傷痍軍人ってそんな時期までいたのですか。東京だからかな・・・
飯塚の町で、子供の頃よく見かけました。戦後の何もない頃、いろんな
人がいました。例えば虚無僧、家の前で尺八を吹いてお金を出すまで立ち去らない・・・怖かったです。
by mm (2022-08-23 06:36) 

Rchoose19

浅草にも上野にも、傷痍軍人さんがいましたよ。
子供心に「怖い」と思いましたし
うちの親からは
「あの人たちはお国からお金を貰ているのだから」と
言われて育ちました。
アコーディオンとハーモニカでしたね。
いつの頃からか全く目にしなくなりました。
知り合いのお父さんは普通の生活をしていましたが
『傷痍軍人さん』でしたよ。
by Rchoose19 (2022-08-23 07:37) 

猫の友 メルティー

傷痍軍人、杉並の神社で秋のお祭りの時、見ました。
1972,3年頃です。同じ風景でした。宮司さんが退去を促すと、動くのもやっとの様子でした。しかし、座していた神社の奥は、高い段差を越え長い距離をあるかなければ来られない場所で、子供心に変だなと思いました。
by 猫の友 メルティー (2022-08-23 08:11) 

りみこ

そういう方々がいらっしゃったのですね
知りませんでした
もしもそういう姿を見たのなら怖かったと思います
塚本監督は役者としての姿も素晴らしいですよね
沈黙での演技には心打たれました
by りみこ (2022-08-23 08:12) 

marimo

傷痍軍人の記憶・・・私は池袋駅前や上野公園?
あたりにいたのを思い出します。当時小1くらい。
同じように「じろじろ見ないの」と母にたしなめられ
何故この人たちはこんな所で楽器を奏でているのだろう?
不思議でなりませんでした。
そしてその謎が解けるまで長い年月を要した気がします(笑)

by marimo (2022-08-23 08:43) 

Boss365

こんにちは。
伊勢丹の駐車場から京王プラザホテル、子供には結構距離ありますが・・・
新宿の色々な風景・光景に遭遇した感じですね。
傷痍軍人、小生が東京に出て来た時も地下と地上に数人いました。
また、上野でも傷痍軍人を見た事あり。
戦後から数十年経っていた当時ですが・・・
世の中的には「3日やったらやめられない」風潮があり?
怖いと言うより、不思議な光景・不可解な風景でした!?(=^・ェ・^=)
by Boss365 (2022-08-23 09:39) 

kousaku

お国の為に尽くされたと思い幾ばくかのお金を入れておりましたね。

by kousaku (2022-08-23 09:51) 

JUNKO

私も子供の頃傷痍軍人をたくさん見ました。いつの間にか偽傷痍軍人の時代まで。
by JUNKO (2022-08-23 12:28) 

斗夢

傷痍軍人の白い和服のような服を着た姿は記憶にあります。
戦争で怪我したのに、なぜ国が面倒を見ないんだろうと子供ながらに
思っていました。
そしていつの間にか姿を見ることがなくなりました。どこへ行ったんでしょう。


by 斗夢 (2022-08-23 12:52) 

トモミ

私にも微かに似た様な記憶がアルのですが、う~ん、全くもって定かではアリません。

by トモミ (2022-08-23 13:47) 

英ちゃん

伊勢丹と言えば、府中にもあったんだけどいつの間にか無くなりました(^_^;)
まぁ、私はデパートでは買い物はしないけどね。

by 英ちゃん (2022-08-23 14:26) 

newton

傷痍軍人は小生(1955年生まれ)も、池袋や上野で見ましたね。小学生ながらインパクトが強かったと思います。

by newton (2022-08-23 15:02) 

みうさぎ

傷痍軍人 白いサラシの様な着物着て
痩せコケて 音楽奏でてました。上野
浅草 見かけてました。母に見てはダメみたいなこと言われた。
なんで?と聞いたがなんと言われてか?
覚えてないけど 恩給を国から貰っていると聞いた気がするけど お金じゃないその姿を晒す意味がその人が生きて行く上で必要だったと思います。
でも子供心にコワかったし何で皆見て見ぬふりしてるのか?どんな生活してるのか
不思議に思ったし どんな思いで
立っていたのか・・それを塚本作品から読み取った訳なんですねっ
昭和は色褪せて来ますが 平和が
続いて欲しいと思います。
by みうさぎ (2022-08-23 15:12) 

けせらんぱさらん

私は小学生くらいまで 巣鴨の地蔵通り手前で数人見かけています
(他にも 池袋や上野でも見かけた記憶があります
みなさん地上の道路に居ましたので 怖いという記憶はありません)
ほとんどの方が片手か片足が無く 大抵ハーモニカか
アコーディオンで軍歌を演奏していた記憶があります
小学生ながら博識の友人いわく
「傷痍軍人は国から恩給を受けているはずだから 彼らは偽者だ」
と言っていましたが 本当の事は分かりません
それにしても 物乞いという言葉も 今では死語ですね

by けせらんぱさらん (2022-08-23 15:17) 

kiyotan

傷痍軍人 子供の頃に駅近くにいつも見かけました
怪我をして包帯を巻いて気の毒だと思ったけれど
ぼんぼちさんと同じように戦争の影もない街並み
に浮いて見えた・・そこにいる軍人さんが不思議な感じ
でよく覚えています。
日本中結構な人数いたんですねえ 
by kiyotan (2022-08-23 15:36) 

kuwachan

傷痍軍人、小学生の頃だったでしょうか
渋谷の山手線と井の頭線を結ぶガード下でもよく見かけましたよ。
カーキ色の軍服を着ていました。

by kuwachan (2022-08-23 15:52) 

hirometai

ぼんぼちぼちぼち様
忘れていました。昔の記憶。
田舎でおばあちゃんに手を引かれ、お彼岸に松尾寺にお参りするのが楽しみでしたが、途中で傷痍軍人の人がいるのが怖くて祖母の手をぎゅうっと握ったのを覚えています。
田舎の近所のおじさんは、戦争で片足を失くして、義足で野良仕事をして一生懸命働いてるのを見ていたので、どうして?と疑問に思いました。そのおじさんの茶色い義足も幼い頃の自分には怖い存在でした。
世界で戦争が続いていることに心が痛みます。早く終わりますように
by hirometai (2022-08-23 16:08) 

ゆう

広島の街角にもいらっしゃいましたね。
小学生の頃かな(1961年生まれ)
その頃
川沿いには、まだバラック小屋みたいなのがあって
その向こうは高層アパートがそびえていました。たしか。。。

by ゆう (2022-08-23 16:24) 

たいちさん

私も子供の頃、大阪都心部へ行くと、傷痍軍人を見かけた記憶がありますね。
by たいちさん (2022-08-23 17:33) 

kou

子供の頃、秋田の繁華街でも傷痍軍人がいました。両足がなくスキー板のような義足を付けてハーモニカを拭いていました。目の前には空き缶が置いてあり、父親が小銭を入れていたのを覚えています。
by kou (2022-08-23 17:45) 

めりー

同じような光景を新宿や池袋で見かけた記憶があります。
怖い感覚はありませんでしたが 不思議な感じというか。
やはり親から「ジロジロ見てはいけません」と言われたことを
思い出しました。
by めりー (2022-08-23 18:02) 

Take-Zee

こんばんは!
いましたね~!
正月初もうで、年末のデパート前などに必ず
いました。 白い装束に軍帽姿、子供ながら
異様な光景に違和感を感じたものです!

by Take-Zee (2022-08-23 18:05) 

わたし

みなさま同じような体験を持っているのですね、戦後5年してから生まれているわたしも東京育ちなので当たり前のように繁華街にいて知っています、特に上野には必ずいました、みなさんのお母さま同様に母は「見てはダメ」と言っていました。あの頃の大人はみんな身内をなくしたり、大変な苦労を経験しているのに傷痍軍人さんは恩給をもらって見世物にして働きもせず稼いでいる、と思ってでもいたのでしょう。
しかもわたしの記憶にあるのですから戦後10年以上たっているのにまだいる、もう「いいかげんに」と思っていたのかもしれませんね。
by わたし (2022-08-23 18:35) 

ヨッシーパパ

子どもの頃、50年以上も前には、そういう方を見かけましたね。子供心に、怖かったです。
by ヨッシーパパ (2022-08-23 19:10) 

そらへい

白い包帯の傷痍軍人の強烈な思い出は京都嵐山でした。
13参りの時なので1963年頃ですね。
1971年というと上京した年です。
新宿西口では、もう学生運動は終息していて
段ボールの小屋に入ったホームレスがたくさんいました。
私はあの人たちが怖かったですね。
自分もいつか仲間に入るのではと言う気がして。
by そらへい (2022-08-23 19:55) 

johncomeback

拙ブログへのコメントありがとうございます。
北海道の田舎町にも傷痍軍人が一人いました。
僕が小学生になる頃にはいなくなりましたが、
子供心に辛く悲しい人生なんだろうなぁって思いました。

by johncomeback (2022-08-23 19:55) 

hana2022

私の上京した70年代初頭、現・アルタ前から、思い出横丁←まだ戦後すぐのごみごみした雰囲気が怖く感じられたものでした。 西口地下通路で目立ったのはホームレスのおじさん達の段ボールハウス、日中でも固まって駄弁る姿も異様なものが。
現・中央公園も、淀橋浄水場の跡地から開園して間もなく。
新宿、上野公園でも目にした傷痍軍人の姿を知る私達が、最後の年代に思えます。
塚本晋也監督の映画は観ていませんが、俳優といてもM・スコセッシ監督作品「沈黙」では存在感がありました。
by hana2022 (2022-08-23 21:09) 

yes_hama

傷痍軍人さん、子供の頃に見たことがあります。
「一日中、ここにいるの?」と思っていました。
by yes_hama (2022-08-23 21:30) 

kick_drive

こんばんは。かすかに記憶があります。お祭りの時など
2~3人のグループのような感じで数か所にいた気がします。
世代的に亡くなったからいなくなったんでしょうね。
国からの保証とか無かったんでしょうかね?

by kick_drive (2022-08-23 21:36) 

エンジェル

私は中学に上がる時に東京に越してきましたが、新宿などに行っても傷痍軍人は見かけませんでした。小学校の頃名古屋に住んでいましたが、その頃は地下鉄の通路などによく見かけました。
by エンジェル (2022-08-23 22:52) 

サボテン

私も小さい頃よく街角で見かけました。父は結構冷たい態度をとっていましたが、私はトイレにも行けずに気の毒だなあと感じていました。後で知ったのですが、彼らの中には在日韓国人など日本政府から十分な援助の得られない人々もいたという事です。おそらく一言で傷痍軍人と言っても中身は色々だったのだと思います。懐かしい思い出を呼び起こしていただき、ありがとうございます。
by サボテン (2022-08-24 00:10) 

mau

地元でも居ました。
by mau (2022-08-24 00:23) 

yamatonosuke

「見んでよか」はちょっと懐かしい響き☆
インパクトのある出来事は覚えていますよね。
by yamatonosuke (2022-08-24 01:03) 

向日葵

ワタクシも数か所で見た記憶があります。
地下道だったり、駅近くの繁華街の路上だったり。。
当時、たぶん小学生だったワタクシが一人で繁華街など
行ける筈が無いし、見かけた時は大抵親と一緒だったように
思います。
確かに高度成長期だった日本の大都市には異質な存在でしたね。
by 向日葵 (2022-08-24 02:47) 

ヤマカゼ

小学生だったころ、家族で上野動物園に行ったとき見た記憶があります。
by ヤマカゼ (2022-08-24 06:41) 

さる1号

路地の傷痍軍人さんは見たことないなぁ
普通に働いている傷痍軍人さんは記憶にあります
by さる1号 (2022-08-24 08:42) 

ぼんぼちぼちぼち

みなさん

わ!傷痍軍人を観た記憶のあるかた、あっしが想像してたより遥かに多くいらっしゃるのでやすね!かなりびっくり!
そして、あっしと同じように、怖さを感じていたかたも多く、親に「見ないでいい」とたしなめられていたかたも。

ほんとに全国にたくさんいたんでやすね。
一度に数人の傷痍軍人を見たことがあるというかたも。
あっしが見たのは、記事にも書いたように、新宿西口の地下道の一人だけでやした。
ほんとに、街に座る傷痍軍人が少なくなった最後の最後だったんだなあと、思いやした。
当時の新宿西口地下道は、今みたいに明るい色のペンキが塗られてなくて、コンクリートのどんよりした灰色で、真昼でも薄暗くて、ハーモニカの音が、そのコンクリートの壁に大きく反響してたんでやすね。
だからよけいに、不気味なものがありやした。

なるほど、傷痍軍人と一言に言っても、国からお金を貰えなかった人や、偽者もいたのでやすね。
それは知りやせんでやした。

あっしは、40才くらいになった時に、別役実先生の書かれた「象」という芝居を観に行った時に、新宿で観た傷痍軍人を思い出しやした。
「象」の主人公は、広島で被爆して背中がケロイドになったのを、人々に見せて拍手喝采を得ることを生きがいにしてる、って話しなんでやすね。
あくまでこれは、戦争を知らないあっしの憶測に過ぎやせんが、
街街に座っていた傷痍軍人の人達の少なからずには、「象」の主人公のように、もげた足や腕を見せることによって、自己肯定感で満たされるというか、お金を貰うことだけが目的なんじゃなくて、そういった精神的な欠落感を埋めたい、というのもあったんじゃないかな、、、と思いやした。
「もはや戦後ではない」と言われて何十年も経っているのに、彼らの中では、まだ終戦直後は続いていて、自身の中で、戦後を了えられないんだろうなあ、、、と。

あっしがあと何年か、東京に越してくるのが遅かったら、一生、傷痍軍人を知らない人生になっていたので、そういう意味では、貴重な人を見たんだなあと思いやす。
それまでいた福岡の町には一人もいやせんでやした。
何故なら、米軍の基地だらけの町で、町の人達はみな「基地があるおかげで、税金も安くて、子供の学校も至れり尽くせりで、とても暮らしやすい」と、ほこほこしてやしたから。
米兵も普通に町を歩いていたし。
そういう町で、傷痍軍人稼業(稼業という言葉が適切かどうかは解りやせんが)は、やりずらいでやしょう。
by ぼんぼちぼちぼち (2022-08-24 08:53) 

なかちゃん

ボクも子供のころ傷痍軍人を見ましたよ。
富山市の中心にあった百貨店の出入り口から近い場所に座っていました。
やっぱりボク達くらいが最後の目撃者になるのかもしれませんね。ちなみに1961年2月生まれです(^^;

by なかちゃん (2022-08-24 09:31) 

drumusuko

この辺の年代の方は、ほとんど傷痍軍人に出会っていると思います。
たしかに哀れっぽくて、あまりいい感情は持てませんでしたね~。
戦争の犠牲者ではありますが、もう少し何とかならなかったのかな~と思いました。
今思えば、遠い昔のことにような気がします。
by drumusuko (2022-08-24 14:41) 

ChatBleu

傷痍軍人、知らないですー。
年齢はぼんぼちさんよりちょっと下なくらいですけど、やっぱり田舎だったからかな(^^;)
by ChatBleu (2022-08-24 16:34) 

フヂ

傷痍軍人を実際に目にしたことはない世代ですが、
小学生の時の担任が平和教育に熱心な人でした。
大学出たてで熱量がものすごく、結構リアルな
絵本などを見せられトラウマ級の怖さ
だったのを思い出しました。
by フヂ (2022-08-24 18:34) 

JUNJUN

傷痍軍人、昭和のころは見ましたね。
子供のころ、お彼岸にお墓参りに行くと、傷痍軍人が通りがかりの人の前でアコーディオンを弾いていました。
私は恐怖は感じませんでしたが、彼らは戦争の犠牲者なんだと思い、彼らを哀れに思いました。
母は、ああいう人は、国から保証されているはずなのにね、と言っていましたが。
ちなみに、1980年代、横浜市でのことです。
by JUNJUN (2022-08-24 19:42) 

八犬伝

小学生の頃、よく見ましたよ。
そうそう、白装束で
私が良く見たのは、アコーディオンを弾いていたかな。
by 八犬伝 (2022-08-24 20:07) 

リンさん

私は東京じゃないけど、お祭りの時に見ました。
白い服で道端に座ってて、腕や足が片方なくて、可哀想と思う反面、すごく怖かったのを憶えています。

by リンさん (2022-08-24 20:47) 

まこ

ほんと傷痍軍人は、なんだか全体的に怖かったですよね。。
わたしも、ぼんぼちさんとは同年代なので、よく見かけました。
母が「戦争からずい分経っているのにあんな若い傷痍軍人が居るわけがない」ってよく怒ってましたが・・
by まこ (2022-08-24 21:53) 

風の友

私も街角で何度か見かけましたが、何故か同情心より
異様さにひいてしまいました。
が、彼らの姿は、何故か赤線廃止と同じ頃に見なくなりましたね。

by 風の友 (2022-08-24 23:05) 

Ja-Kou66

それはトラウマといっては失礼ですが、心に残りそうです。。
『傷痍軍人』という名称、初めて知りました。
わたしはそういう方々に出会ったことはたぶんないと思いますが
横浜の伊勢崎町で有名な「ハマのメリーさん」も
戦後の名残なのかなぁと思います。(以前映画を観に行きました)
しかし伊勢丹から京王プラザホテルまではなかなかの移動距離でしたね!
by Ja-Kou66 (2022-08-25 00:10) 

sakamono

私も傷痍軍人を見た記憶があるのですが、結構大人になってから
なんですよね。たぶん90年代、中野で。あれは本当なのかなぁ、と
いう気持ちでした。
by sakamono (2022-08-25 08:52) 

NO14Ruggerman

正月に川崎大師へ初詣に出かけると駅前でアコーデオンを弾いていた複数の傷痍軍人の姿が脳裏に焼き付いています
確かに旧◯ョンベン横丁に繋がるトンネル付近で見かけたことも思い出しましたが感覚的には1960年代までかと思っておりました。
京プラオープン時まで居たことに少々驚いています。
そしてぼんぼちさんの「哀れで不気味で恐怖だった」という思いは私もまったく一緒で、言葉の力によって一瞬にしてあの頃にタイムスリップさせて貰えました。ありがとうございます。
by NO14Ruggerman (2022-08-25 09:00) 

ぼんぼちぼちぼち

みなさん

やはりあっしのブログの読者のかたは、殆どのかたが、傷痍軍人を見た記憶がおありなのでやすね。
そして、印象も同じように、同情心より、怖さ、のかたが多いのでやすね。
世の中が賑わって、戦争のかけらもなくなった街だからこそ、異様に浮き上がって見えやしたね。

あっしよりほんの少しだけ下でも、見たことがない、というかたもおられれば、なんと!80年代90年代に見かけたというかたも!
そうでやすねぇ、90年代ともなると、ホンモノだったのかなぁ?と疑ってしまいやすね。

絵本で見せられて恐怖を感じたというかたも!
絵本にも描かれていたのでやすね。

伊勢丹から京王プラザホテルまで、そうでやすね、けっこう距離がありやすね。
その道中、傷痍軍人だけを憶えているのでやすから、やはりトラウマ級の衝撃だったんでやすよね。

ハマのメリーさんは、実際に見たことはないけど、ドキュメンタリー映画で見やした。
とてもよく出来た映画でやしたね。
メリーさんも、戦後を延々とひきづり続けたお一人だったと言えやすね。

by ぼんぼちぼちぼち (2022-08-25 09:17) 

横 濱男

傷痍軍人は田舎にも居て、子供の頃よく見ましたね。
それが、何なのかは分かっていませんでしたが、、。
軍人恩給がいくらほど貰えたのかは知りませんが、
生活が苦しいんだろうと思ってました。
その頃は、乞食もよく見かけました。。

by 横 濱男 (2022-08-25 15:42) 

ヤッペママ

子供の頃に見ました。
お祭りの時や人通りの多い所で見かける事が多かったような。
子供心に怖さみたいなものを感じました。
by ヤッペママ (2022-08-25 15:54) 

sara-papa

新宿区の柏木(現北新宿)に6歳まで住んでいました。
そこには祖父母と伯母家族が地上げに遭うまで住んでいたんですよ!^^;
子供の頃にはそのような方々がたくさんいました。
大ガードの中には靴磨きの人たちが並んでいましたよ。
そこから見上げるネオンが大好きで、引っ越してからも一人で柏木に遊びに来ていました。
それと、あのころはやたらとビニール袋を吸う兄さん姉さんが沢山いたっけ!
by sara-papa (2022-08-25 17:16) 

kazu-kun2626

子供の頃平塚の七夕祭りでよく見かけました
今思うと白装束に包帯とよれよれの軍帽で
ハ-モニカですから組織立ってたんでしょうね
by kazu-kun2626 (2022-08-25 19:35) 

Azumino_Kaku

こんばんは、
伊勢丹のあとに京王プラザでお食事ですか・・新宿フルコースですね。
私も、上野駅で同じような軍人さんを観ました。記憶が定かでないですが、1970年代後半だったかと思います。たしかにそこだけ戦争をひきずっているような異様さが漂っていましたね。
by Azumino_Kaku (2022-08-25 21:23) 

ぼんぼちぼちぼち

みなさん

傷痍軍人、けっこう遅くまでごくごく一部には残っていたようでやすね。
組織化、、、あ!確かに!そうでやすよね。
みんな全国、お決まりのように、白装束に軍帽、ハーモニカかアコーディオン。
組織化されてなかったら、こんなに統一されるわけないでやすものね。
尤も、楽器は、哀しさや憐れさを訴えるのには、ハーモニカとアコーディオンが最適で、これがウクレレとマラカスだったら、哀しくもなんともないでやすもんね。
街なかで傷痍軍人をやってた人達は、手紙で遠い地の同士と交流されていたのでやしょうね。

上のブロックにも書いてくださってるかたもおられやすが、
お祭りの時に見たというかたも、多いでやすね。
いやあ、子供がお祭りの中にあの光景を見ると、よけいに怖いでやすよね。
お祭り(特に昔の)って、怪しさがつきもので、闇夜に浮かびあがるように白装束の人がいると、それはそれは子供にとって怖かったの解りやす。

ビニール袋をすうお兄さんお姉さん、、、フーテンでやすね。
当時フーテンをやってたという男性に何年か前に会ったことがあるんでやすが、「どうやって生活資金を稼いでたんですか?」って聞いたら、
その人は、「年上の女性の家に泊まらせてもらったりお小遣いもらったりしてた」と言ってやした。

あれもこれも、今は昔となりやしたね。
by ぼんぼちぼちぼち (2022-08-26 09:03) 

koto


いましたね。
私も鮮明に覚えています。
切ないメロディーのハーモニカやアコーディオンも全国共通だったんですね。
そうするとひょっとして・・・
そう、組織化ね、
大元締めがいて、全国にその人達を派遣していたりしてね〜
マニュアルもあったのかもしれない。

しらんけど。

by koto (2022-08-27 11:27) 

ぼんぼちぼちぼち

kotoさん

今回この記事を公開して、ほんとに全国共通で、同じような出で立ちで同じ楽器を奏でていたことに驚きやした。
上のブロックにも書き込んでくださっているかたもおられるように、
そう、組織化されてたようでやすね。
びっくりでやす!
この記事を公開したことによって、気づかされやした。
by ぼんぼちぼちぼち (2022-08-27 14:27) 

rannyan

わたしもよく母親とあの地下街を通り、伊勢丹などへ行ったので、
そこにいつも包帯巻いた元軍人さんがいました
怖いという記憶はあまりなく、まだ痛いんだろうかとか
そんなことを考えて、チラ見していた気がします
いつのまにか傷痍軍人がホームレスに変わっていた新宿地下街です
by rannyan (2022-08-27 16:58) 

ぼんぼちぼちぼち

rannyanさん

やはりあの地下通路で見かけてらっしゃいやしたか。
そうでやすね、仰るとおり、あの地下通路は、その後、ホームレスのたまり場になりやしたね。
一時期、新宿の地下は、ホームレスがあちこちにいやしたね。
by ぼんぼちぼちぼち (2022-08-27 17:54) 

yokomi

ずーっと田舎暮らしでしたが傷痍軍人は何人か見ました。都会じゃ偽物も居たかもしれませんが、田舎では素性が知られています。↑皆さん恩給を貰っているんだから....と言っていますが、大した額じゃ無かったような。なので片腕で自転車に乗って行商したり、義足で畑仕事に汗を流していたのですね。
by yokomi (2022-08-31 11:40) 

ぼんぼちぼちぼち

yokomiさん

恩給って、そんなにたいした額ではなかったのでやすね。
それなら、お金を恵んでもらいたい気持ちも解りやす。
偽者もいた、、、今回のみなさんからのコメントを読んで初めて知りやした。
それは、気分悪いでやすね。
by ぼんぼちぼちぼち (2022-08-31 14:48) 

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