ウサギの置き物 [写真]
地元西荻窪の雑貨店のウィンドウで遭遇したウサギの置物。
ぼんぼちには珍しく 爽やかで優しい雰囲気の写真でやす。
ま、たまにはこういうのもあっていいかな・・・・・・と。
ウサギといえば、ウサギとカメのかけっこのお話はあまりにも有名でやすが、あっしは昔から あの話には無理がありすぎると感じてやす。
たまたま運のいいラッキーなカメの物語ならあれでいいんでやすが
寓話として語るのなら、少なくとも、居眠りするウサギと全力疾走するカメのほかに、全力疾走するウサギと居眠りするカメが必要なはずでやす。
そして勝利するのは、全力疾走するウサギ以外の何者でもないはずでやす。
エクスパンデッド・シネマ再考 [感想文]
恵比寿の東京都写真美術館に「エクスパンデッド・シネマ再考」展を観に行く。
エクスパンデッド・シネマ-----映画に明るいかたは 言わずもがなご存じで その作品の二、三はご覧になったことがあると思うのだが、映画に明るくないかたのために簡単に説明すると-----
既成の映画館などでの通常の投影とは別の場所・別の方法で投影される方式の、日本語では拡張映画と呼ばれるもので、1960年代半ばに出現した映画ジャンルである。
本展は、日本に於けるエクスパンデッド・シネマの代表作品の上映とその資料を展示したものである。
主な出品作家は、松本俊夫 シュウゾウ・アヅチ・ガリバー 飯村隆彦 ジャド・ヤルカット 等。
内、私が特に印象深かった作品は、やはり 松本俊夫の「つぶれかかった右眼のために」であった。
2スクリーンに3プロジェクターで 60年代の事件や風俗がめくるめくテムポで映し出されるアートドキュメンタリーである。
私はこの作品は、過去に何度も劇場で観、又DVDも所有していてしばしば自宅でも鑑賞していたが、改めて熱い創作意義を感じずにはおれなかった。
(本展をはじめ劇場再映やDVDでは、3プロジェクター分が1つに収められている)
シュウゾウ・アヅチ・ガリバーの「シネマティックイリュミネーション」も、強烈に吸引させられ しばらく立ちつくし観入ってしまった。
これは、巨大な輪っか状のスクリーンの内側に 18枚のスライド写真が次から次へと投影されるもので、本展で約50年ぶりの貴重な公開ということであった。
又、ジャド・ヤルカットの「EXPO67」も、二重に映された映像が理屈抜きに美しかった。
60年代は、社会が大きく揺れ動き、そのために文化も異様なエネルギーを持ち爆発した 実に刺激的な時代であったが、本展ではその片鱗を垣間見ることが出来、60年代文化をリアルタイムで体験できなかった私としては、非常に嬉しい催しだった。
又、これまでエクスパンデッド・シネマという映画ジャンルがあることをご存じないかたが 本展を通じて認識され 興味深く感じてくださったら、一映画ファンとして本望でもある。
木目 [写真]
木目を撮り、白黒加工してコントラストをあげたものでやす。
木目が木目であるという説明ではなく 抽象画のような面白さが出ればなぁと思いやした。
古い旅館などに泊まると、天井が木目・・・・・よくありやすね。
その中でたまに 顔に見えてしまう木目ってありやすよね。
一度顔に見えてしまうと もぅ顔以外のナニモノにも見えなくなってしまいやすね。
夜更けに「ひゃぁ~ またあの顔と目が合っちゃったよ~」って ね。
私の部屋 [独り言]
ガラス器 織部の湯飲み 和布のテーブル掛け かたつむりの形の電気スタンド 自在燭台 船箪笥・・・・・・
私の部屋は、私の選りすぐりの愛しい物達で ひしめき合っている。
別の言い方をすると、私の愛していない物は、何一つとして ない。
私はこの最上級に居心地のいい部屋で、日々 寝起きし くつろいでいる。
この部屋は、もはや私という人間の一部である。
もしも帰る所がこの部屋でなくなったら、私は私でなくなり 歪み狂ってしまうだろう。
だから、死ぬ時は、穏やかに この部屋の中で死にたいのだ。
選りすぐりの愛しい物達ばかりに囲まれて・・・・・・・
私の部屋は、私の選りすぐりの愛しい物達で ひしめき合っている。
別の言い方をすると、私の愛していない物は、何一つとして ない。
私はこの最上級に居心地のいい部屋で、日々 寝起きし くつろいでいる。
この部屋は、もはや私という人間の一部である。
もしも帰る所がこの部屋でなくなったら、私は私でなくなり 歪み狂ってしまうだろう。
だから、死ぬ時は、穏やかに この部屋の中で死にたいのだ。
選りすぐりの愛しい物達ばかりに囲まれて・・・・・・・
タグ:部屋 自分の部屋で死にたい
緑色の花 [写真]
春に上野のぼたん園で撮ったぼたんをネガ加工したものでやす。
ぼたん園のぼたん、当たり前じゃない写真にするのが難しかったのでやすが、これは当たり前じゃなく成立したので 作品として公開することにしやす。
この写真はネガ加工で緑色にしたわけでやすが、あっしは天然でも緑色の花って大好きでやす。
クリスマスローズやチューリップって緑色がありやすね。
ああいうの、強く吸引されやす。
どしゃぶり [独り言]
生々しい看板 [写真]
亀戸で遭遇した看板。
ホルモンではなく内臓と表記してあるところが生々しいでやすね。
木に黒でちょっと乱暴に書かれた字体や右に血のように真っ赤な提灯が下がっているところも 生々しさをアップさせてやすね。
この生々しさをより強調するために pcでコントラストを少々あげやした。
内臓、みなさんはお好きでやすか?
あっしは内臓よりも先端が好きでやす。
豚足 鶏足 ぼんじり・・・・・。
父と母の仲 [毒母]
これまで私は何度となく 母親に酷い虐待を受けてきたことを吐露してきましたが、今日は、母は父とはどんな様子だったのかを綴りたいと思います。
まず、何故 父と母は結婚したかを簡単に説明します。
父はオーケストラのバイオリンニストだったのですが、クラシックの仕事だけでは食えずに、テレビの歌番組のバックのオーケストラのアルバイトをやってしのいでいました。
今でいうと、ギタリストだけど自分のバンドが売れないからアイドルのバックバンドをやって しょっちゅうチラチラテレビに映っている といった所でしょうか。
加えて父はルックスが良かったので、ミーハーな女にはずいぶんとモテていた様で、常に周りにたくさん女がおり、母もそんな中の一人でした。
と、母は、望まぬ妊娠をしました。
それをチャンス到来とばかりに利用して、父を一人占めしたいがために 「産んでいいよ」と言わない父を無視して、子供嫌いだったにも関わらず 強行突破で勝手に一人で私を産み「これ、アンタの子だから責任とってよ!」とやったわけです。
父はしぶしぶ 私が十八才になるまでという期限付きで入籍し、私が三才になる頃には歌番組のバイトでも母と私を養いきれなくなり 全く別の仕事を始めました。
私の記憶にあるのは、父が別の仕事を始め、経済的にぐんぐん豊かになりつつある頃からとなるのですが、その頃から離婚するまで、母は、父が傍にいる時は しじゅうこんな言動をぶつけていました。
「昔は痩せててカッコ良かったのに今じゃ豚みたいに太って醜くなった! あー!まったく騙されたもんだよっ!」
「ヨーロッパ旅行に連れて行くって言ってたのに いつも国内ばっかりだーーーっ!この嘘つきがーーーっ!」
「アタシは世の中で一番サイテーな男と結婚するハメになった世の中で一番可哀想な女だぁっ!」
母が父のために料理を作ったことは一度もなく、鰯を甘じょっぱく煮たものなど 父は自分が食べたいものは自分で作って食べていたのですが、それを横目で見ては
「おーおーおー! また不味いもん作って食いやがってよー!」
と嘲笑し、私が食べようとすると
「あんなもん不味ーーーい! 食うなーーーっっっ!」
と、食べさせてくれませんでした。
父は、私が小学四年の時から会社経営を始めたのですが、母は経営のノウハウなど何一つとして解からないのに、
「大卒は甘チャンだから入れるなーーーっ!入社させるのは中卒か高卒だけにしろーーーっ!」
と命令したり、社長室の椅子にふんぞり返って座ったり、家族旅行に若い社員を運転手としてアゴで使ったりしていました。
又 夜になると、「ギャーーーーーーーーッ!!!」と奇声を上げながら ヤカンを床に叩きつけては拾ってまた叩きつけて・・・・を二時間くらい繰り返していました。
母が父に対して 優しい言葉どころか普通に話しかけたことは、私の記憶にある限り ただの一度もありませんでした。
そんな母に対して父は、いつも何も答えずにヘラヘラッと笑っていました。
私は漠然と「これが当たり前の夫婦」だと思っていたので、その様子を見ても 別に辛いとも悲しいとも思いませんでした。
むしろ父が傍にいる時は 怒りの矛先が父に向いていて私は母に殴られる可能性が低いので、そういう意味で嬉しかったです。
今思い返すと、父はよくこんな母親と入籍し 十八年間もの間辛抱してくれたものだと感心します。
私だったら 認知して養育費だけを送って他人のままでいます。
父が右に出る者がいないほどの楽天的な性格だったおかげで、十八年間、一般的とは言えなくとも家族でいる事がなんとか保てていたように思います。
まず、何故 父と母は結婚したかを簡単に説明します。
父はオーケストラのバイオリンニストだったのですが、クラシックの仕事だけでは食えずに、テレビの歌番組のバックのオーケストラのアルバイトをやってしのいでいました。
今でいうと、ギタリストだけど自分のバンドが売れないからアイドルのバックバンドをやって しょっちゅうチラチラテレビに映っている といった所でしょうか。
加えて父はルックスが良かったので、ミーハーな女にはずいぶんとモテていた様で、常に周りにたくさん女がおり、母もそんな中の一人でした。
と、母は、望まぬ妊娠をしました。
それをチャンス到来とばかりに利用して、父を一人占めしたいがために 「産んでいいよ」と言わない父を無視して、子供嫌いだったにも関わらず 強行突破で勝手に一人で私を産み「これ、アンタの子だから責任とってよ!」とやったわけです。
父はしぶしぶ 私が十八才になるまでという期限付きで入籍し、私が三才になる頃には歌番組のバイトでも母と私を養いきれなくなり 全く別の仕事を始めました。
私の記憶にあるのは、父が別の仕事を始め、経済的にぐんぐん豊かになりつつある頃からとなるのですが、その頃から離婚するまで、母は、父が傍にいる時は しじゅうこんな言動をぶつけていました。
「昔は痩せててカッコ良かったのに今じゃ豚みたいに太って醜くなった! あー!まったく騙されたもんだよっ!」
「ヨーロッパ旅行に連れて行くって言ってたのに いつも国内ばっかりだーーーっ!この嘘つきがーーーっ!」
「アタシは世の中で一番サイテーな男と結婚するハメになった世の中で一番可哀想な女だぁっ!」
母が父のために料理を作ったことは一度もなく、鰯を甘じょっぱく煮たものなど 父は自分が食べたいものは自分で作って食べていたのですが、それを横目で見ては
「おーおーおー! また不味いもん作って食いやがってよー!」
と嘲笑し、私が食べようとすると
「あんなもん不味ーーーい! 食うなーーーっっっ!」
と、食べさせてくれませんでした。
父は、私が小学四年の時から会社経営を始めたのですが、母は経営のノウハウなど何一つとして解からないのに、
「大卒は甘チャンだから入れるなーーーっ!入社させるのは中卒か高卒だけにしろーーーっ!」
と命令したり、社長室の椅子にふんぞり返って座ったり、家族旅行に若い社員を運転手としてアゴで使ったりしていました。
又 夜になると、「ギャーーーーーーーーッ!!!」と奇声を上げながら ヤカンを床に叩きつけては拾ってまた叩きつけて・・・・を二時間くらい繰り返していました。
母が父に対して 優しい言葉どころか普通に話しかけたことは、私の記憶にある限り ただの一度もありませんでした。
そんな母に対して父は、いつも何も答えずにヘラヘラッと笑っていました。
私は漠然と「これが当たり前の夫婦」だと思っていたので、その様子を見ても 別に辛いとも悲しいとも思いませんでした。
むしろ父が傍にいる時は 怒りの矛先が父に向いていて私は母に殴られる可能性が低いので、そういう意味で嬉しかったです。
今思い返すと、父はよくこんな母親と入籍し 十八年間もの間辛抱してくれたものだと感心します。
私だったら 認知して養育費だけを送って他人のままでいます。
父が右に出る者がいないほどの楽天的な性格だったおかげで、十八年間、一般的とは言えなくとも家族でいる事がなんとか保てていたように思います。
青いネオン [写真]
街なかの青いネオンをわざとぶらして撮り、抽象画のように仕上げたものでやす。
これからはこういう写真を多く撮ってゆけたらな・・・と考えてやす。
青という色は大好きでやす。でも、洋服ではめったに着やせん。
何故なら似合わないから。
肌の黄色味が強いあっしは、青はよけいに黄色味強く見えてしまうのでやす。
と、先日、青に紫とカーキ色のタイダイのTシャツを求めやした。
こんなふうに混ざっていたら着こなせそうだぞ と。
実際、違和感なくしっくり似合いやした。
着た初日に 友人にさっそく「青が入ってるの着てるなんて珍しいねー」と言われやした。
バーテンダーさんとバーテンさん [洋酒・カクテル]
みなさんは、オーセンティックなバーで、ネクタイをきちんとしめてベストもピタリと着用し 一筋の乱れもなく髪を撫でつけ、洋酒・カクテルのことなら専門書のごとく知識があり それでいて決して出過ぎない態度の従業員のかたを何と呼ばれているであろうか?
-----「バーテンダーさん」 その通りである。
「バーテンさん」と呼ぶのも あながち間違いというわけではない。
しかし、バーテンさんという呼び方には、ちょっと大衆的で小馬鹿にしたニュアンスが入ってしまうのである。
解かりやすく例えるのなら、ハイヤーの運転手さんを「運ちゃん」と呼ぶのと同じである。
バーテンと呼ぶのに相応しいのは、昔イッセー尾形さんが演じていたような 洋酒の知識もろくになくまともなカクテル一つ作れず、客のいない時間にはカウンターにテレーッと肘をついて与太話に余念のない お世辞にも品がいいとは言えないバーの店員である。
中には、「バーテンさん」という呼称がそういったニュアンスを含んでいる事を知らずに バーテンダーさんをそう呼んでおられるかたもいるかも知れない。
勿論バーテンダーさんの側では、前後の言葉づかいや表情から 蔑称として使っているのではないとピンと察してくださる。
「このお客様は正しい言い方をご存じないだけなのだな」と。
だから、笑顔で接客を続けてくださるに違いないが、内心はあまり気持ちのいいものではない筈である。
オーセンティックなバーの席に掛けたら、きちんと「バーテンダーさん」と呼び、心底気持ちのよい接客で 迎え送られたいものである。