映画「三沢川いきものがたり」を観て [感想文]

我らがSo-netブロガーのsigさんが、「三沢川いきものがたり」という映画を作られたので 観てまいりました。

sigさんは、本名・島倉繁夫さんとおっしゃり、長年 映像のお仕事に携わってこられた 映像ディレクターです。
私もこれまでに、島倉氏の映画史考察の講演の場などに しばしばお邪魔してきました。
そして今回は、氏が監督・編集をされたドキュメンタリー映画が完成し試写会が催されるというので、ちょっとしたご縁もあり 招待された次第です。

三沢川いきものがたり.JPG「三沢川いきものがたり」は----
タイトルが示す通り 三沢川に生息する様々な生物の生態系を観察したもので、三沢川というのは、東京郊外の稲城市と神奈川県川崎市の 住宅と梨畑のひしめき合う 「街なか」を流れる川です。
島倉氏は、この三沢川の近くにお住まいだそうで、映画では、主に川の「中流域」と呼ばれる 京王よみうりランド駅から稲城駅の間付近までの様子が 描写されています。

今まで数々のドキュメンタリー映画を観てきた私は、「この作品もおそらく、多くのそれのように 淡々と生物の生態を追っているだけの 緩急に乏しい映画だろう」くらいに想像しながら 会場の椅子にかけました。
ところが----!
引きあり寄りあり遥か彼方に広がる風景あり、よくこんなシーンに遭遇出来たな!と舌を巻かずにおれない カラスと蛇の格闘や 亀やスッポンの縄張り争いや サギやカワセミがトカゲや魚を捕っては飲みこむところや 腹を膨らませた蛇が飲んだばかりの餌をぐいぐいと長い腹の奥へ押しやる様子などが、テムポ溢れる鮮明な画で描写されていたのです!
しかも、付けられている音楽が、いかにもその場その場に相応しい効果的なもので、より映像に惹きこまれ 呼吸(いき)もつかずに見入ってしまいました。
又、全編に流れるナレーションも、解かり易いだけでなく とてもユーモラスで、思わず手を叩いて笑いたくなるセンテンスが幾つもありました。

三沢川いきものがたり1.JPG私はこれまでも、講演やブログを通じて島倉氏を尊敬してきましたが、この作品を観たことによって 尊敬の度合いは100倍に膨れあがりました。
終映直後にお話を伺うと、なんと! 撮影に6年 編集に2年費やされたのだとか!
感嘆の溜息とともに深く頭が下がりました。
そして同時に、映画を作るということは、ここまでも 辛抱と執念と努力の結晶なのだと、鑑賞と研究ばかりで現場を知らない私は、思い知らされました。

「三沢川いきものがたり」、生物に興味のある人や三沢川周辺の人達には勿論、それだけでなく、小中高校の芸術観賞会や ドキュメンタリー映画を多く扱う映画館「ポレポレ東中野」での上映など、これから一人でも多くの人に観てほしい! と願わずにはおれない 素晴らしいドキュメンタリー映画です。

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映画「あしたはどっちだ、寺山修司」 [感想文]

あしたはどっちだ.JPG

寺山修司のドキュメンタリー映画「あしたはどっちだ、寺山修司」が公開されるというので、早々に劇場に足を運んだ。
監督・相原英雄氏 製作・2017年

私は観映前、いわゆるありきたりのパターンのドキュメンタリー映画だと思っていた。
つまり、近しかった人達の寺山を誉めちぎるインタビューが次々と流れ 昔の映像が挿入され、寺山を神のように礼賛して了る映画だ---と。
しかし、この作品はそれを大きく嬉しく裏切ってくれた。
映画は、一人の少女が寺山の謎を追究するという形で進行し、短歌作品が部分盗作だと騒がれた事や 作品上であたかも現実のように表現されている事が実は虚構だったという事や ノゾキで逮捕された事などの マイナスイメージに受け取られる諸々も 隠されることなく取り上げられていたのである。
インタビューも、天井桟敷に在籍していたかたがたの話のみならず、それまで表に出て来ることのなかった寺山の親戚のかたにマイクを向け、幼かった頃の寺山がリアルに語られる。
そして、寺山の母は、米兵のオンリーさんだったという これまで表向きにされなかった事実が明かされるのである。

又、寺山の仕事全般をまんべんなく追うのではなく、市街劇ノックに特にズームし、どれほど寺山が市街劇にエネルギーを注いでいたかが説かれ、当時の資料映像も長時間流された。
私は、ノックの映像は、以前イメージフォーラムの講座の中で観たものが全てだと思っていたのだが、他にも多数遺されている事が解かり、非常に興味深く吸引された。

あしたはどっちだ.JPG

もう一つ、この作品が達作と成っている大きな要因がある。
青森の美しい風景の映像を巧く取り入れ、それがリズムと変化をもたらし、ありきたりの人物ドキュメンタリーの枠を大きく越境しているのである。
人物を扱うドキュメンタリー映画も、映画作品の一つに他ならないのだから、このくらい映像に拘ってくれると、観客も観ていて気持ちがいいものである。

最後に、この作品を観た個人的主観的推察を述べると----
寺山が何故あれほど 現実かと思わせる虚構に執着したかというと、それは、母がオンリーさんをやっていた後ろめたさ・悲しさと そうやって自分を養ってくれている という憎と愛の二律背反にゆきつくのではなかろうか、と思わずにおれない。
二律背反の中に置かれて 身動きの出来ない寺山少年は、嘘を吐くことで せめて虚構の中で母を殺すことで 自身の精神を保っていたのではなかろうか。
そしてその嘘が、寺山個人を突き破り、他者を街を国家を巻き込むことで アイデンティティを勝ち取ろうとしていたのではなかろうか。

「あしたはどっちだ、寺山修司」
相原監督の手腕によって 寺山の深い闇の奥底まで考え至り着地せずにはおれない 人物ドキュメンタリーの大傑作である。
あしたはどっちだ.JPG

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映画「ザ・タイガース 世界はボクらを待っている」 [感想文]

GS映画作りは、緻密なパズルを完成させるが如きものである とつくづく痛感する。
何故なら、GS映画を観に来る客というのは、主演のGSのメンバーが 数多く登場し カッコよく活躍し 楽曲を何曲も披露するのを観たい訳で、これらの、客を納得させる条件を全て満たしながら 矛盾・疑問を感じさせない劇映画を作らなければならないからである。
今回紹介する「ザ・タイガース 世界はボクらを待っている」(監督・和田嘉訓 脚本・田波靖男 製作・1968年)は、それを見事なまでにクリアした作品である。

世界はボクらを待っている.JPG
シノプシスは----
彼らのヒット曲「銀河のロマンス」の歌詞を元に起こしたもので、地球に不時着した異星の王女を ふとしたきっかけで人気絶頂で日々ステージをこなすタイガースがかくまうこととなり、するうち王女はジュリーに恋をし、円盤に騙し乗せ自星に連れ帰ろうとするものの、ジュリーは、自身やメンバーやファン達や町の人々の歌のエネルギーによって 無事ステージに戻りつく というものである。
究極の非リアリズムである。
これが少しも、違和感に首を傾げることなく ラストまで運ぶのである。
理由は、異星の王女にまつわるシーン以外の部分も 全て非リアリズムに徹底させている事である。
地方巡業へ向かうバスの中でも メンバーはステージ衣裳を着ていたり、メンバーの住む部屋は まるで舞台装置さながら というように。
半端にリアリズムを取り入れていたら マチエールにズレが生じ、異星の王女の登場が非常にトンチンカンなものに感じられていた筈だ。

メンバーのカッコイイ見せ方も巧い。
メンバーは全員が、ボーヤに化けてかくまわれている王女に対して 妹へのように優しく、王女の追手の宇宙ロボットを バッタバッタと鮮やかになぎ倒すのである。
又、メンバーの女装も上手に取り入れられている。
群がるファンをまいて どうやって楽屋から出よう というシーンである。
タイガースのファンの大半は10代から20代前半の少女達だった訳で、少女達は好きな男性の女装姿に 異様な興奮を見せる。
その心理をしっかりと把握しているのである。
世界はボクらを待っている.JPG

そして何といっても天晴れなのは、クライマックスシーンである。
王女の住む異星へ連れ去られようという円盤の中、タイガースの歌の爆発するようなエネルギーが円盤の調子を狂わせ不時着させると知ったジュリーは、ステージ上のメンバーやファンや町の人と一緒にエネルギッシュに 円盤のマイクに向かって歌う。
そして「映画館でご覧のみなさんもご一緒にお願いします!」と スクリーンから劇場の観客に向かって呼びかけるのである。
これ以上はない虚と実の融合である。
当時、劇場を埋め尽くしていたファンの少女達は いっせいに「ゴー!パウンド!」と 円盤落ちろとばかりに黄色い声を張り上げていたに違いない。
この作品は、それ位 非リアリズムでありながらもシラケさせる事なく観客を引き込む計算に成功している という事である。

成功の要因にはもう一つテクニックが見て取れる。
テムポである。
脚本が水っぽくなく----つまり、もったりする事なく 次から次へと むしろめまぐるしいほどに展開するのである。
ワンショットワンショットの終わりも、潔く短めに切られている。

「ザ・タイガース 世界はボクらを待っている」
GS映画の条件を十二分に満たし 余りある吸引力を備えた、GS映画を代表する 否、日本娯楽映画を代表する と言っても過言ではない大傑作である。

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森山大道氏の写真 [感想文]

好きな写真家は誰れですか?と問われたら、私は迷うことなく「森山大道氏」と答える。
森山大道氏は、写真を撮ったり鑑賞したりすることを趣味としている人には言わずもがなよく知られている 日本を代表する巨匠である。
氏の作品は、主に うらぶれた街やそこをゆききする人々をモチーフとした 粒子の粗いハイコントラストの どんよりとした白黒である。
それが、上辺の美しさではなく、魂の奥底に訴えかけるような 底力のある迫力で迫って来るのである。

----先日も、新宿で氏の個展が開かれたので 足を運んだ。
今回は、開催期間の中ほどの日にトークショー+サイン会が催されるということで、それにも参加した。
トークショーでは、昔 親交の深かった寺山修司氏との思い出話を語られたり、今回の撮影場所となった新宿の街での裏話を披露されたりしていた。
サイン会では、私が「お願いします」と購入した写真集の巻頭頁を開くと、森山さんは「(サインをする場所)ここでいい?ここでいいの?」と細かく確認してくださった。
私は今まで以上に氏のファンになった。

これからも折りある毎に、森山氏の写真に触れ、魂を揺さぶられたいと思う次第である。

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エクスパンデッド・シネマ再考 [感想文]

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恵比寿の東京都写真美術館に「エクスパンデッド・シネマ再考」展を観に行く。
エクスパンデッド・シネマ-----映画に明るいかたは 言わずもがなご存じで その作品の二、三はご覧になったことがあると思うのだが、映画に明るくないかたのために簡単に説明すると-----
既成の映画館などでの通常の投影とは別の場所・別の方法で投影される方式の、日本語では拡張映画と呼ばれるもので、1960年代半ばに出現した映画ジャンルである。
本展は、日本に於けるエクスパンデッド・シネマの代表作品の上映とその資料を展示したものである。

主な出品作家は、松本俊夫 シュウゾウ・アヅチ・ガリバー 飯村隆彦 ジャド・ヤルカット 等。
内、私が特に印象深かった作品は、やはり 松本俊夫の「つぶれかかった右眼のために」であった。
2スクリーンに3プロジェクターで 60年代の事件や風俗がめくるめくテムポで映し出されるアートドキュメンタリーである。
私はこの作品は、過去に何度も劇場で観、又DVDも所有していてしばしば自宅でも鑑賞していたが、改めて熱い創作意義を感じずにはおれなかった。
(本展をはじめ劇場再映やDVDでは、3プロジェクター分が1つに収められている)

シュウゾウ・アヅチ・ガリバーの「シネマティックイリュミネーション」も、強烈に吸引させられ しばらく立ちつくし観入ってしまった。
これは、巨大な輪っか状のスクリーンの内側に 18枚のスライド写真が次から次へと投影されるもので、本展で約50年ぶりの貴重な公開ということであった。
又、ジャド・ヤルカットの「EXPO67」も、二重に映された映像が理屈抜きに美しかった。

60年代は、社会が大きく揺れ動き、そのために文化も異様なエネルギーを持ち爆発した 実に刺激的な時代であったが、本展ではその片鱗を垣間見ることが出来、60年代文化をリアルタイムで体験できなかった私としては、非常に嬉しい催しだった。
又、これまでエクスパンデッド・シネマという映画ジャンルがあることをご存じないかたが 本展を通じて認識され 興味深く感じてくださったら、一映画ファンとして本望でもある。

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映画「映像の発見---松本俊夫の時代」 [感想文]

5月1日2日、シアター・イメージフォーラムにて、「映像の発見---松本俊夫の時代 第1部・記録映画篇 第2部・拡張映画篇 第3部・劇映画篇 第4部・実験映画篇」が、監督のトークショー付きで上映された。
記録映画・実験映画・拡張映画・劇映画と あらゆるジャンルで日本の映像界のトップを担ってきた映像作家・松本俊夫氏の軌跡を、松本氏ご本人や関わりの深かった人物へのインタビューと松本作品本編の引用で構成したドキュメンタリーで、539分に渡る壮大な作品である。 監督は筒井武文氏。 2015年製作。
当初は追悼特集として企画されたわけではなかったが、奇しくも公開2週間前に松本氏は亡くなってしまったので、結果的に追悼上映となった。
なお、当作品は全部で5部構成なのであるが、第5部は、1部から4部を松本氏に観せ それについて松本氏が語る形をとっているので、1~4部を鑑賞した観客に日をおいてから観てほしい という筒井監督のご意思で上映されなかった。

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作品の出来としては、可もあり不可もあり といったところだった。
先ず、可は----
一人の人物を扱ったドキュメンタリーにありがちな必要以上の神格化・偶像化がされていなかったことである。
松本氏が余りにもテレビ向けとはいえない芸術性の高い難解な記録テレビ映画を創った事諸々をきっかけに 三年半もの間 映像界から干され、道路工事や家庭教師など 映像とは全く関係のない仕事で食いつないでいた話、作品創りを巡っての意見の相違の末 氏が怒りのあまりスタッフの一人の首を絞めた話などが、カットされずにそのまま淡々と語られていた事である。
実に爽快である。
又、作品を通して 日本の映像界がどのような変遷をたどってきたかも詳らかに解かり、松本氏に興味のある人以外にも 日本映像史の勉強となるつくりとなっていたところも良かった。

そして不可は----
インタビュアーである筒井監督の声が小さすぎて、松本氏が何について 頷いたり首を傾げたり答えたりしているのかがとても解かり辛かったことである。
声を大きく出来なかったのならスーパーインポーズを入れれば良いのに と思った。
これはトークショー後の質疑応答の時間に全く同じ意見をぶつけていた観客が複数いたので、やはり私だけが感じた問題ではなかった様である。

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主観的な感想としては----
「1990年代以降は殆ど作品を創られていないが それは何故か?」という問いに対して、「大病をし、その後は体力が衰え 創作エネルギーも乏しくなってしまった。 エネルギーがない中で駄作を創るくらいなら創らないほうが良い」と答えられていて、私は如何にも妥協を許さない松本氏らしい英断だなと 好感を持った。
世の中には、一旦名が出ると どれほどの駄作であっても垂れ流すように創り続け、そうして創られた駄作をも称賛する盲目的ファンが少なくないが、私はそういった構図はいかがなものかと思うのだ。

又、第2部の拡張映画篇では、氏の拡張映画の代表作である「つぶれかかった右眼のために」の部分がインタビューの合間合間に繰り返し挿入され 面白い構成と成っていたが、「つぶれかかった---」のラストショットの後も第2部本編は続いていたので すっきりしなかった。
「つぶれかかった---」のラストを2部本編のラストにもってくればまとまりが良かったのに と思った。

が、全体的にはこの映画は創られて良かったと思える作品だった。
作品の解説のみならず、それまで知り得なかった松本氏の人柄や感情を充分に知ることが出来たのであるから。
そしてつくづく、松本俊夫氏ほど、幅広いジャンルに挑戦し クオリティの高い作品を生み出してきた映像作家は他にいないと 改めて思い知らされた。
日本に、松本俊夫という存在がなかったら、現在の日本の映像界はなかったと断言できる。
松本俊夫氏がこの世に誕生した事は、日本映像界の大きな幸だった。

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映像作家・松本俊夫先生逝去 [感想文]

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映像作家の松本俊夫先生が、先日の4月12日に亡くなられた。 85才だった。
松本先生は、「薔薇の葬列」 「ドグラ・マグラ」 「つぶれかかった右眼のために」 「アートマン」等、従来の映画の枠組みにとらわれない革新的な前衛映画を幾多生みだされた 我が国を代表する映像作家であった。

私は松本先生の作品を知る以前は、「自分は映画というジャンルにおおいに興味があるのだが、納得のいく作品に出逢ったためしがない。 今まで観てきた作品のようなものばかりが映画の全てである筈はない!」と 日々疑問符を抱えていた。
それが30代半ばの時、「ドグラ・マグラ」に遭遇したことで 一気に疑問は氷解し、私は松本俊夫先生の虜になった。
そして松本先生の作品を片っ端から観、著書はすべて読了した。
講義も二度ほど受けるチャンスに恵まれた。
先生のお言葉を一言一句聴きのがすまいと、ペンを片手に集中した 貴重で有意義で至福の時間であった。

松本先生の存在がなかったら、私は映画ファンにはなっていなかった と断言できる。
松本俊夫という帰る場所があったから、他の作家・監督の作品にも越境して享しむことができたのである。

今、私の内は空虚さでいっぱいである。
まるで 何も映し出されていないスクリーンの客席にぽつんと独り座しているような・・・・。
もぅ 私には映画ファンでいる意味がなくなってしまった。
生きる気力もなくなってしまった。
松本俊夫2.JPG

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日本実験映画の開花 [感想文]

東京大学総合研究博物館インターメディアテクにて 日本実験映画の開花と題された上映会が催されたので、実験映画好きの私は一も二もなく出向く。
上映された作品は、かつてベルギーの実験映画祭にて発表されたもので、今年 日本とベルギーは友好150周年を記念する という理由から、この催しがなされる運びとなったのだそうである。

上映された作品は、「日本の文様」吉田直哉1961年 「戦争ごっこ」ドナルド・リチー1962年 「砂」高林陽一1963年 「ONAN」飯村隆彦1963年 「喰べた人」藤野一友+大林宣彦1963年 である。

「日本の文様」は、ありとあらゆる日本の古典柄を材に 日本にどれほど意匠を凝らした遊び心溢れる図案があるのかを、寄りや引きやパンや回転を用い映像に仕立てて紹介した作品。
「戦争ごっこ」は、海辺で少年達が山羊を殺し墓を作る様を 詩的でありながらも淡々と描写した寓話。
「砂」は、砂浜にて ダイヤローグなくすれ違う男女のやるせない感情が表現された 抽象作品。
「ONAN」は、性欲をうっ屈させる若い男が突然大きな卵を産む 奇妙な物語。
「喰べた人」は、レストランでものを食う人達とウェイトレスの妄想を コマ抜きや逆廻し等の技法で以って グロテスクかつユーモラスに描いた喜劇。
である。

内、私が殊に感嘆したのは、「日本の文様」である。
動かぬものを元にキャメラの工夫でこれだけ変化をつけて 完成度の高い映像を生み出せる技は 天晴れだと思った。
その変化のみせ方は実に多彩で、これこそ実験映画の醍醐味ではないだろうか と唸らずにはおれず、松本俊夫の「石の詩」にも通ずる感覚と技術を感じた。

以前 研究所で実験映画理論を学んだ時に テキストとして扱われ既に観ていた作品も二作ばかりあったが、改めて 実験映画の面白さ・表現の自由さ・創り手のエネルギーの強さに圧倒されないわけにはゆかなかった。
実験映画というジャンルに惚れ直さずにはおれない 有意義な上映会であった。

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ぼんぼち選・青春映画10作品 [感想文]

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先日、雑誌「映画芸術」のバックナンバーを捲っていたら、「私の選ぶ青春映画10作品」というような内容の企画がなされており、読むうち私も、自分にとっての青春映画なるものを挙げずにはおれない気分にかられた。
よって今回は、私・ぼんぼちの選ぶ青春映画10作品を 一言コメント付きで紹介したいと思う。
尚これらは、映画界で「青春映画」「青春モノ」とカテゴライズされているものではなく、あくまで私が主観的に「あぁ!青春だなぁ」と感じた作品である。


「書を捨てよ町へ出よう」 寺山修司

青春映画といえば、一も二もなくこの作品を挙げないわけにはゆかない 寺山初期映画代表作。
寺山の分身ともとれる少年が スクリーンの中から観客に呼び掛けるメタシアター的ショットはあまりにも有名。
言いたい事を全てぎゅぎゅっと詰め込んだ感のある 濃密な作品である。


「鉄男」 塚本晋也

作品の奥底をとぐろを巻きつつどろどろと流れる爆発的感情、これぞ青春以外の何物であろうか!
多用されるアニメーションに注がれるエネルギーは、塚本氏の青春の爆発か!


「肉片の恋」 ヤン・シュヴァンクマイエル

生の二片の肉片が、アニメーション技法により、絡み合い ダンスを踊り あっけない最期をとげる。
青春とは、かくも生々しく刹那的なもの。


「台風クラブ」 相米慎二

一般的にも誰れもが認める青春映画。
テーマが奥底の深い部分に埋め込まれた表現は秀逸。
理論的に頭のいい監督でないと創ることのできない作風である。


「東京フィスト」 塚本晋也

初期塚本作品は、私にとって王道の青春映画である。
東京に生まれ育った若者にとって 東京のビル群は身体の一部。
そのビル群ごと 疾走し 叫び 壊れるのだ。


「孔雀」 クリストファー・ドイル

説明不可能な焦燥 倦怠・・・・・青春期というものは、日々こんな感情にたゆたっているものではないだろうか。
監督ドイル氏は、元々キャメラマンなだけあり、映像の完成度の高さには溜息の連続!


「青春の殺人者」 長谷川和彦

回想シーンの折りこまれ方のあまりの絶妙さに唸らずにおれない。
究極の家庭崩壊の象徴として、母親が息子に肉体関係を迫るとは、よく練り込まれた脚本である。
ゴジ第一回監督作品としても有名な作品。


「青春の蹉跌」 神代辰巳

石川達三の同名小説の映画化。
ラストが大きく変えられているが、こちら映画版も堂々見事に成立している。
自身に貫通するテーマを込めたゴジの脚本に拍手!


「電車男」 村上正典

商業映画中の商業映画という理由で敬遠している映画ファンは少なくないかも知れないが、活動屋の魂のこもった 非の打ちどころのない大傑作である。
隙間なくきっちりと完成されたパズルのような仕上がりが気持ちいい。


「アイデン&ティティ」 田口トモロヲ

万人が認めるいかにも青春映画!といった作品。
しかしながら鼻白まない観映感を迎えられるのは、押し過ぎず引き過ぎずの田口監督の力量に他ならない。
主役に、役者ではなくミュージシャン峯田和伸を配したところも その要因であろう。


以上が、私・ぼんぼちが選んだ青春映画10作品である。
皆さんにとっての青春映画は、どのような作品であろうか?

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タグ:青春映画
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映画「他人の顔」---すべてに於いてバランスの取れた最高傑作 [感想文]

「他人の顔」----
「おとし穴」「砂の女」に続き、安部公房の同名小説を 安部氏自身が脚本化し、勅使河原宏の手により監督された長編劇映画作品である。 1966年製作。

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シノプシスは、仕事中の事故で顔全体を酷いケロイドに火傷してしまった男が、精神科医に事故前とは別の新たな顔を作ってもらい 火傷後自分を拒絶した妻を誘惑する というもので、自己と他者 自己と社会の関係、己れが己れであることを証明するものはいったい何なのか が、安部氏ならではの理論的論法によって 緻密に深くえぐり出される。
これが、仲代達矢 京マチ子 平幹二朗 岸田今日子 岡田英次 等々、日本を代表する名優という舟によって多方向から追及されるのである。
のみならず、この作品を語る上で決して欠くことのできないのは、美術 音楽 キャメラの秀逸さである。
前衛的な病院内の装置 主人公の男の心情を裏打ちする悲しげなワルツのテーマ曲 ハイコントラストの白黒でのワンショットワンショット構図の完成されたキャメラ使い・・・・。

----映画に於いて、ひいてはすべてのジャンルに於いての「作品」というもののクオリティ・出来を決定づけるのは、「バランスが取れているか否か」と言っても過言ではない。
そのくらい「バランス」は、作品創りに於いて重要な力点である。
ある部分は優れていてもバランスが取れていないがために秀作とは言えなくなってしまっている残念な映画というものが 世の中には非常に多い。
リアリズムの方向性でありながら 一人大仰な型芝居をする役者がいたり、アート系の作品なのに キャメラが具象的説明に終始してしまっていたり、乾いたマチエールで創られているのに音楽だけが妙に湿っていたり・・・・。
しかし、この「他人の顔」は、すべてのスタッフ・キャストがこの映画がどういった色合いで以って どういう方向に突き進むのかを 根本からしっかりと把握している。
哲学的テーマを非リアリズムによって重々しく理論的に創るのだ と、携わるブレーン全員が正確に理解している。
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又、私は、この映画の脚本---決定稿---を所有していて しばしば本編DVDと照らし合わせながら読むのだが、照らし合わせることによって 如何に 決定稿から本編完成まで 練りに練られ 肉付けされ 無駄を落され 順序が入れ替えられ 濃密度の作品へと結実していったかが解る。
中でも殊に大きく変えられているのは、主人公の男が観た映画という設定で 主軸のストーリーに度々折り込まれる形で挿入されている もう一つの物語である。
決定稿では、戦争で顔半分がケロイドとなってしまった元美女が、強姦すらされなくなったと思い込み 医者に口づけを求め受け入れてもらった末に自死する とあるが、本編では、ケロイドの元美女は 実兄に関係を迫り結ばれた末に自死する となっている。
がぜん、本編のほうがいい。
このほうが、「顔が変わってしまうと 人間関係というものが根底からくつがえってしまう」と、作品テーマをぐぐっと強烈に後押しすることになるからだ。

「他人の顔」----
映画好きのかたと安部公房ファンは既にご覧になっていることと思うが、とりたてて映画に興味を持たれていないかたや 哲学書や心理学の専門書などを愛読されているかたにも 是非とも観ていただきたい、「映画ってこんなにも面白く 深い表現が可能だったのか!」と 映画という表現ジャンルを見直すこと必至の 日本劇映画史に輝き続ける大傑作である。

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※3月4日のオフ会、どんなご趣味のかたも大歓迎でやすよん!
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