憂国忌によせてーーー私の生死観 [独り言]

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今年も憂国忌が近づいてきた。
毎年、憂国忌が近づくと、改めて 己れの生死観について考えるわけだがーーー

まあ、この類いの記事は、何年かに一度は、憂国忌前後につづっているわけで、私は、三島由紀夫の自死の理由は、国を憂いてだの大義がどうのなどというのは、彼特有の表向きのカッコつけで、せっかく努力して鍛え上げて誇れるまでになった美しい肉体が老いさらばえてゆくのに耐えられなかった事と、小説を書くテーマも材も尽きてしまった、この二つだと思っているのだけれど、今年も私が本記事で言はむとしているのは、三島の死の理由の真相究明ではない。
あくまで、私が思っている前述の二つな理由にからめた 私自身にもいつかは訪れる死についてのモノローグである。
で、あるから、ここまでお読みいただいて興味がなくなったかたは、読むのをやめてくださって構わないし、「ふん、ぼんぼちの生死観とやらは、どんなもんやろ」と覗いてみたい向きは、読み進んでいただければ幸いである。

私は、三島ほど「幸せな死」を遂げた人間は、稀だと思っている。
人間には誰しも老いは訪れる。
見た目の老いがやって来ない人間なんている筈はなく、小説家でなくとも、やりたい仕事への身体的エネルギーや思考力が無限に持続し続ける人間も、いるわけはない。
人間、人によって順序は様々だろうが、見てくれの老い、体力の老い、思考力の老い は、必ずやってくる。
多くの人間は、「あぁ、若い頃は○○だったのに、こんなになっちまって、、、」と言いながらも、妥協の中に生き続けるわけであるが、そこを妥協せずにスパッ!とカットアウトしたのが、三島である。

私も三島の様な最期を遂げたいと考えている。
否、決して、国家や自衛隊を巻き添えにして大立ち回りを演ずる気はさらさらないが、彼の様に、老いさらばえむとする時期が来たら、スパッ!と逝きたい。

「いやいや、今は人生100年時代だよ」という声がいくつもあがってきそうだが、今の見てくれ、今の体力、今の思考力 が100才まで続くのなら、そりゃ100まで生きていたい。
でも、そんな人間、いるわけがない。
私は、自分が鏡を見て笑顔でいられる、自分の思考したい事を思考出来る、自分が行きたい所へ行ける、それが出来なくなったら、その時が私の寿命だと考えている。
しわくちゃな顔になって腰も曲がり、老人ホームに入って、意味不明の言葉を延々繰り返して、そのうち寝たきりになってただ虚空を見上げてフェイドアウトしてゆくなんて、絶対に嫌!!

三島のお母上は、彼の自死の知らせを聞いて、静かにこう仰ったという。
「あの子は、やりたい事をやり遂げたんです」ーーーと。

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