第28回の演技のレッスンを受けて [リポート]
今日は、4月13日(木)第28回「ジュリアス・シーザー」のレッスンのリポート&感想を、つづらせていただきます。
最初にウォームアップとして、当日配られた、某映画のシナリオのワンシーンを読みました。
ト書きがなく、いかようにも受け取れるダイヤローグだったので、相手役の人と私とがそれぞれに思い描いた設定をやりました。
相手役の人は、女医と男性患者という設定でした。
私は女医役をやったのですが、自分のことを相手が好きか、尋ねる台詞で、その前に、迷う気持ちや勇気を出す気持ちとして、充分に間を取ってから尋ねたら、「その間は良いね」と褒められました。
私は、二人は大学生で、同サークルに所属している 友達以上恋人未満という設定を思い描いたので、次にその設定でやりました。
私は、ラストの方の二つの台詞、「ふつう」「変な人」が、どこかで誰かが使ったような言い方なので、そういう言い方はしない方がいい。ぼんぼちさんオリジナルの言い方をする様に、とのダメ出しを受けました。
メインのシェイクスピアのお勉強ではーーー
ブルータスと彼の愛妻ポーシャのダイヤローグの方から読みました。
私はポーシャをやったのですが、ポーシャは長台詞が多く、21行の長台詞の21行目で 一番言いたい事を言うので、それ以前の、ブルータスの昨夜の言動を思い出して言ったり、比喩表現の台詞は、あまり高低をつけすぎずに、「通底音」(音楽でいうと、ドミソ ドファラ の、ドに相当する、ずっと流れ続ける音)を守りつつ、20行を言い切らなければ、何を目的としている長台詞なのか解らなくなってしまう、とダメ出しを受けました。
そうダメ出し受けた事を念頭に置いて次に読んだら、「出来ましたね。通底音、守れましたね」と肯定され、あぁ、この20行は、このくらい幅の狭い高低でいいんだ、と思いました。
次の長台詞のところでは、「こうしてひざまずいてお願いします」と言って、ひざまずきながら そこから又延々と台詞を言う設定で、(レッスンでは、終始、椅子に座ったままの体勢です)私は、当たり前の様に、ここは小さく声を落として発するところだな、と判断したのですが、先生に、「一般の人は皆そういう言い方をするんだけど、理屈をよく考えてみて! ひざまずいてでもお願いしたい事でしょ。だから、声を強くしなくちゃ。 だけどその後に、何をお願いしたいのかを言うのだから、それよりかは大きな声にならない様に。 それから、ひざまずきながら台詞を言うというのは、声が出しにくい体勢になるのだから、そういう事までちゃんと頭に入れておかないと!」と指摘され、なるほどー!まだまだ私は、解釈が浅かったな、と、目からウロコでした。
又、「『でも』等の接続詞は、テコとして使える言葉だから、そろそろ自分一人でそこに気づいて、使える様になってもいい頃だよ」と、難易度の高い事を求められましたが、先生の仰る通り、これから、自分一人で気づいてゆけるようにしよう!と、拳を固くしました。
最後は、アントニーの演説である 1ページ半の長台詞をお勉強しました。
私が読むと、先生は先ず、「前回、このテキストで、僕が注意した事を守って、よく復習してきたのが解ります。その頑張りは良かったと思います」と仰いました。
ダメ出しされたのは、重要な言葉として、「野心」という語が何度も出てくるのですが、「や」だけが極端に強くなっているので、「やしん」と同じ強さで発するように、と、感嘆の「ああ」は、小さく濁らせずに、大きく美しく張って言うように、それから、一行一行の中でも 何が特に重要な言葉なのかを、もっとよく考えて、その言葉を強く言う様に、でした。
加えて、アントニーは政治家なのだから、政治家らしいしたたかさが、言葉のはしばしに出てくるといいよね、という事も言われました。
この回のレッスンは、ダメ出しもたくさんされましたが、褒められたところも幾つもあり、「ああ!自分、進歩してるんだな!」という実感を得られた回でした。
第26回第27回の演技のレッスンを受けて [リポート]
今回は、3月8日(水)第26回「ジュリアス・シーザー」、3月26日(日)第27回「から騒ぎ」の、レッスンのリポート&感想を、つづらせていただきます。
先ず、3月8日(水)第26回「ジュリアス・シーザー」。
前半は、アントニーの、一頁半に渡る 群衆を前にした演説(長台詞)を、お勉強しました。
私がダメ出しを受けたのはーーー
「諸君、云々、、、」と、群衆に何度も呼び掛ける台詞があるのですが、その「諸君」を、「自分と同じ者達」という親しみを込めて!という事と、
「貧しい者が飢えに泣くときシーザーも涙を流した」の「涙を流した」は、アントニーが眼前で見ていた事だったのだから、シーザーがどの様に泣いたのか、ーーーポロポロと、とめどなく涙を流したのか、オイオイ声をあげて泣いたのか、悔し涙に歯がみしながら泣いたのか、ーーーアントニーはその泣き様を思い出しながらしゃべっているので、どんな泣き方だったのか、ぼんぼちさんの中で何か一つに決めて、観客に、どの様に「涙を流した」のかが伝わる言い方をしなければならない、
そして、演説の初めの方は、群衆の顔や反応を確認しつつ、冷静にしゃべり、ラストにゆくに従って、群衆のアントニーを賛同する声にあおられて、テンションがあがりにあがって、自分でも もぅ何が何だか解らなくなるくらいまで興奮してしゃべる様に、ーーーちょうど、ロックコンサートで、ミュージシャンとファンのコール&レスポンスで、ミュージシャン自身もテンション最高潮になるが如くにーーーでした。
演説のお勉強了りに、「ぼんぼちさんは、レッスンに通いたての頃よりずいぶん上手くなったね!」と、めったにお褒めにならない先生からお褒めの言葉をちょうだい出来、大変に嬉しかったです。
後半は、ブルータスと彼の愛妻ポーシャのダイヤローグをやりました。
ブルータスとポーシャは、深く愛し合いつつ長年連れ添っている 仲むつまじい夫婦で、そういう夫婦は、何十年も寝起き、生活を共にしているので、「愛し合い続けながら長年連れ添ってる感」が出なければ、ポーシャの声の出し方、しゃべり方は決まってこない。
その「愛し合い続けながら長年連れ添ってる感」を出す様に!とのご指示が出ました。
でも私は、なかなかそれが出来ずに、「あぁ!この課題は、非常〜に難しいな、、、いつかは私にも出来る様になるのだろうか?!」と、エベレストを見上げる様な気持ちになりました。
けれど、先生にご指示を受けた以上は、すぐには出来なくても、いつかは出来る様になりたい!なろう!と、拳を固くしました。
レッスンはたいてい、前半の長台詞に二時間、後半のダイヤローグに二時間費やすのですが、いつも私は、後半の最後の方になってくると、体力が底をついて、元々明瞭ではない発音が、ますます明瞭ではなくなってきて、今回も自分でそう感じながら台詞を読んでいたら、すかさず先生に、「ぼんぼちさん、この時間になって疲れてきたから、言葉が乱れてきてる!」と、注意されました。
私は、「はいっ!頑張りますっ!」と、精一杯、明瞭に発音しようと努力しながら読み了えました。
次に、3月26日(日)第27回「から騒ぎ」。
この日は、ウォームアップとして、その日に配られた 某映画のシナリオのワンシーンをお勉強しました。
映画の演技ですから、徹底したリアリズム演技を求められました。
私は、演劇より映画のほうが圧倒的に好きなので、出来た出来なかったは別として、理屈抜きに 最高に楽しかったです。
中盤からはシェイクスピアに戻り、ベネディックという貴族の青年の 一頁に渡る独白の長台詞を、素読み(感情を入れない読み方)で、私が最も苦手としている 言葉を明瞭に正確な発音で読む事を、ご指導いただきました。
私自身もこの事が一番出来ていないという自覚があり、どういう言葉が明瞭か が、頭では解っているだけに、口腔内がついてゆけずに、非常にもどかしかったです。
後半は、ベネディックとベアトリス、つまり、若い貴族の男女の恋の駆け引きの場をやりました。
最初に、シェイクスピアが設定した 国や場所通りの読み方をし、次に、もし、この二人が高校生で、ファミレスという場だったら、という設定で読みました。
私はベネディックをやったのですが、先生に、「ぼんぼちさん、ファミレスの高校生男子という雰囲気、出てるね」と褒められ、とても嬉しかったです。
その後で今度は、二人は、仕事のデキる男とキャリアウーマンで、帝国ホテルのバーでマティーニを二杯飲んで 少しだけ酔っている、という設定を与えられました。
私はベアトリスをやったのですが、「キャリアウーマン」のイメージがなかなか掴めずに、難儀をしました。
先生は、「設定を変えられたら、それまで稽古していた台詞の言い方は全て捨てて、パッと瞬時に、新たな設定下での台詞の言い方が出来る様になるのが、目標です。 このお勉強方法は、とてもレベルが高いです」というような内容の事を仰いました。
この日のレッスンは、褒められたのは一箇所だけでしたが、シナリオも読めたし、難しかったけれど、違う設定で、というのも面白く、自分の内から正の感情が、ぱあっと溢れた様な、幸せなレッスン後感でした。
又、私が今の先生について行き続けたい!と深く思える理由の一つに、「映画というジャンルを否定なさらない先生である」事があります。
文中にも書いた様に、27回のレッスンでは映画のシナリオもテキストに組み入れたり、「シェイクスピア作品は幾作品も映画化されているから、映画の方も観ると参考になるよ」とか、「映画だったら、この場面はこう撮る所だよね」とか、「現代人は皆、映画というものをたくさん観てきて、その上で舞台も観るのだから、今作るシェイクスピア舞台は、映画を知っている観客が納得する舞台でなければならない。つまり、昔と同じ事をやっていても観客は少しも面白いと感じない」などと。
否定されないどころか、映画も肯定なさっていらっしゃる。
これは、映画好きの私にとって、個人的に嬉しい事であり、理屈的にも、その通りだと思うからです。
私が過去に出逢ってきた演劇人の人達は、プロアマ先生生徒問わず、「映画なんて下劣なジャンルに興味があるのは、悪い事。舞台だけが演技をやる値打ちのある場なのよ!」とか、「映画が好き?! おーい!邪宗者がいるぞーっ!この間違った根性を叩き直せーっ!」とか、「映画なんてものは、たまーにバカになってハッハッハッハッハッって笑いたい時だけに観ればいいものなんです。小さな劇場で映画みたいな方向性の演技をする役者は、映画に毒されているんですっ!」という考えの持ち主ばかりでした。
私は、それらの発言に、いつも疑問を持ち続け、先生という立場の人がそういう考えだと判った時、私はその研究所を辞めてきました。
ですから、何重もの理由で、今の先生は、心から尊敬出来、ついて行き続けたい!と思えるのです。
第24回第25回の演技のレッスンを受けて [リポート]
今日は、2月13日(月)第24回「リチャード三世」、2月27日(月)第25回「から騒ぎ」の、演技のレッスンのリポート&感想をつづらせていただきます。
先ず、2月13日(月)第24回「リチャード三世」。
最初に、グロスター(のちのリチャード三世)の、まるまる一頁に渡るモノローグの長台詞を勉強しました。
私は、これまでのレッスンを全回出席していて、「リチャード三世」をお習いするのは四度目だったので、とにかく前三回でダメ出しを受けた箇所は もう二度と同じ指摘はされない様にと、そこに全神経を使い、ちょっと緊張しながら読みました。
読み了えると先生は、「何かカセにハメられている様に感じられるね」と仰いました。
私が前述の理由を打ち明けると、「じゃあ、今度は、自由に好きに読んでみて!」
二度目に読んだらーーー
「おれは悪党となって、この世のなかのむなしい楽しみを憎んでやる。」の「悪党」と「憎んでやる」を両方同じくらい強く言っているから、「悪党」の方を少し弱めるように、と、ラストの「おはようございます、兄上、これはどういうことです?」の「これはーーー」以下を、意図的に変え過ぎているので、声の響きは変えずに 感情だけ変えるように、とのご指摘を受けました。
グロスターが殺した王の夫人アンとグロスターのダイヤローグではーーー
「アンは夫を殺されて最大限に怒っているのだけれど、グロスターの口説き文句によって 怒り方がどんどん変わってゆかなければいけない。それをぼんぼちさんは、ずーっと同じ怒り方で読んでいる」とダメ出しされました。
どういうふうに怒りが変わってゆくのかーーー、これが次回にまた「リチャード三世」がテキストになった時の私の課題となったので、もっと何度も何度も読み込んで、正確にアンの心情を表現出来るようになろう、と思いました。
素読み(感情を入れない読み方)に関しては、先生は、「実は、素読みと本番読みは、全く別の位置にあるものではなく、素読みの延長線上に本番読みがあり、『別の読み方で』と言われたら、いつでも一旦 素読みに立ち戻って来られなければいけない。又、感情が抑えきれなくなったら、いつでもどこでも感情を入れていいんだよ。ぼんぼちさんは、そろそろそこに気づいてもいい頃だよ」という様な内容の事を仰いました。
私は、今まで、素読みはデッサンと同じものと解釈していたので(デッサンというのは、何千枚同じモチーフを描こうが、一ミクロンも感情を入れてはいけなく、無感情で完成させるものなので)目からウロコでした。
最後に先生は、「ぼんぼちさん、前回の時の方が良かったね。今日は台詞が団子になってるし。(明瞭ではないという意) まあ、一番いいと言われた時のを常に維持するのは難しいけどね」と仰いました。
内心、自分でも感じていただけに、この日は少し残念な出来となってしまった一日でした。
次に、2月27日(月)第25回「から騒ぎ」。
この日は、レッスン生の人数が少なかったために、非常に非常に濃密な授業を受ける事が出来ました。
先ず、何度も「まだまだ!」と口酸っぱく注意をされたのは、私の場合、言葉より感情が前に出過ぎてしまって、何を言っているのかが明瞭に伝わらない。あくまで、感情く言葉 なので、もっと巧く自分でコントロールする様に!でした。
特に、三行、五行くらいの長さの台詞で、感情が高ぶっている所だと、感情がうわあ〜っ!と湧き上がってきて、言葉がとても明瞭でなくなってしまうので、もっともっと言葉優先で、と。
自分でも、頭では解っていて自覚があるだけに、もどかしく、先生の仰った様に、これからは「巧くコントロール」する事を、心して台詞を読む様にしよう!と、自分に言い聞かせました。
これは、今の私の大きな課題です。
この回のレッスンでは、ワンセンテンスの「、」の所やダイヤローグの相手への受け渡しで、如何になめらかに、ブツッ!と途切れないで、音はつながっていなくとも空気はつながっている様に読めるか、も稽古しました。
先生は書道を例えに出してくださり、「氵」は、点三つだけど、空気はつながっているでしょ?と。
こういうつながりを「気脈」というのだそうです。
それを言葉で演るのはとても難しいな、と思いましたが、いつかは出来るようになりたい技術です。
又、「没入感」ーーーいわゆる、演者が役に入り込んでゆく事ですが、どうすれば没入できるのかの練習法は、台詞の中の一つ一つの言葉を何度も何度も、それはもう何度も、ありとあらゆる言い方で発してみて、トランス状態になるくらいまで言ってみる、のだそうです。
次の回のテキストが来たら、試してみようと思いました。
あと、細かな発音では、「つ」が「つっ!」になってしまっていて、聞いていて美しく感じられない、
「剣(けん)を」の「ん」が短く詰まってしまっているので、「けんを」と、三音とも同じ長さで発音する、
「わ」というのは半母音で「あ」にとても近い音なので、ワンセンテンスの中に「わ」と「あ」がある時は、韻を踏む様に読むと、聞いていて心地が良い、という事を指摘されました。
そして、「ぼんぼちさんは発音が美しくないから、ぼんぼちさんがこれまで生きてきた上に言葉を積み上げる感覚ではなく、赤ちゃんになって、そこから言葉を覚え始める気持ちで向かうと良いよ」という様な内容の事を、先生は仰いました。
これも難解な課題だと感じましたが、そういう意識を持って自主練&レッスンに臨もう!と拳を硬くしました。
それから、レッスン了りには、前々回の回で、先生がチラとお話しをされた「高文脈言語」(詳らかに説明しなくても通じる、日本語に代表される言語)と「低文脈言語」(ハッキリと説明しなければ伝わらない、英語に代表される言語)について、今一つ私の中で、具体的に見えて来なかったので、そこを質問しました。
すると先生は、「ここで言う『言語』は、『社会』と置き換えたほうが解りやすいね。要するに、国でスッパリ分けられる訳ではなく、例えば、映画というジャンルは、国を問わずに高文脈社会になるね。言葉で全てを説明するジャンルではないから。対して、吉本新喜劇は、ぜーんぶ言葉で説明しているから、低文脈社会だね」と、大変解りやすい例えを挙げてくださいました。
私はシナリオ作法も勉強していた事があり、映画がどれほど、台詞以外の手段で諸々を観客に伝えるかをよく知っていたので、大きく頷けました。
今回のレッスンでも、勿論たくさんダメ出しはされましたが、先生の貴重なお話しもたっぷり聞かせて頂けて、充実度120%の授業でした。
次回のレッスンも、頑張って臨みたいと、今から心の準備をしています。
第22回第23回の演技のレッスンを受けて [リポート]
今日は、1月16日(月)第22回「リチャード三世」、1月30日(月)第23回「から騒ぎ」の、レッスンのリポート&感想を、つづらせて頂きます。
先ず、1月16日(月)第22回「リチャード三世」。
この日は、レッスン生の人数が少なかったというのもあり、非常に非常に綿密で濃厚な授業を、受けさせて頂けました。
テキストは、グロスター(のちのリチャード三世)の、まるまる一頁に渡る独白で、様々な読み方をお勉強しました。
最初に素読み(感情を入れない読み方)で、でいながらも、これは喜劇なのか悲劇なのか はたまた別の方向性の芝居なのかを判断し、それをきちんと含ませながら読むように、とのご指示が出ました。
「リチャード三世」は明らかに悲劇なので、その様に読みました。
一度目は、ゆっくり読む読み方で、二度目は早いテンポでと、二度、素読みをしました。
先生からのダメ出しは、私も自覚していた通り、言葉が明瞭でない所がある(特にら行)、五行くらいの長いセンテンスの台詞だと、疲れてきてますます明瞭でなくなってくるので、一行毎に 気持ちと呼吸をリセットして読む様に、でした。
唯一 褒められたのは、ラストの一行にある「(兄に向かって)おはようございます」という台詞で、「ここは声が響いてるね。全ての台詞がこのくらい響くと良いよ」との事で、三度目は、一頁全部を「おはようございます」と同じ響きで、なおかつ その時時の感情が損なわれないように、とのご指示でした。
けれど、負の感情の所になると、どうしても声がこもってしまって、ご指示通りに出来ませんでした。
出来なかったものの、声を響かせる為の大きなヒント・方法論を頂けたので、家で何度も この練習をしようと思いました。
又、「明瞭に台詞を発するには、下あごを大きく下に動かすだけでなく、前後に動かす事もやってみるといいよ」とも。
これは、あからさまに下あごを出したり引いたりするのではなく、そういう心掛けで読むと、口腔内の奥の方も変化するので、あらゆる発音が出来るようになるから、という事でした。
そしていよいよ、感情を込めた様々な読み方に入りました。
箇所箇所で次々と心情が変化してゆく様に重点を置いた読み方では、グロスターが、己れの醜い容姿を自虐する台詞の所で、「ここは、自虐を自ら笑う様に」と言われたので、思いっきり鼻で笑いながら、「俺って、こっけいでしょ?」といった読み方をしたら、「そういう説明的な読み方をしてはいけない。形から入っている。先ず、感情が湧き出て、その感情が伝わればいいのだから。現実で、自分の感情を説明的に表現する人はいないでしょ?」と、即、ダメ出しが出ました。
このダメ出しは、以前の他の戯曲の回でも、かつて注意された事なので、「しまった!またやってしまった!改めなければ!」と、二度とくり返さない様に、と心しました。
笑いがこらえ切れなくなって 笑いながらも 笑いをこらえようとする、という読み方のご指示では、「何を言ってるのか解らない。だから成立していない」と、ペケをつけられました。
そして、「じゃあ今度は、一言言う毎に、紙ヤスリで肌をゾリッと削ぐ様な、自傷を重ねてゆく読み方で」と、今の先生ならではの、抽象的でありながらも、とても解りやすい例えのご指示が出されました。
その読み方をした時には、何のダメ出しも出されなかったので、まぁ、なんとか出来ていた様です。
それから細かい事では、ラストの「これは、どういうことです?」の「これは」だけで、今現在、芝居上で何が起こっているかを、観客に解らせる言い方が出来なければいけない。
「思わせておいたからな」の「な」の方向性が定まっていない、など、前回のレッスンにも増して、難易度の高い要求を出されました。
難しいけれど出来る様になろう!と、拳を固くしました。
レッスン了りに先生は、「今年のぼんぼちさんの課題は、発音を明瞭にする事と、声の響きを獲得する事だね」と、私が思っていたのと全く同じ事を仰いました。
次に、1月30日(月)第23回「から騒ぎ」。
私は、一回目の「から騒ぎ」の授業では、からきし出来なかったので、前回の「リチャード三世」のレッスンが終わってからこの日までの二週間、毎日 欠かさず「から騒ぎ」のテキストを読んで、今回の授業に臨みました。
モノローグの長台詞の素読みでは、やはり、「ら行」や、漢字で書いてある熟語が明瞭でない事を注意されたものの、「少〜し良くなったね。 ここまで出来るようになったので、次のステップとして、ワンランク上の素読みをしてみましょう」と、先生が仰いました。
今まで教わってきた素読みは、例えば「まず行ってまいります、と言え、それから、ただいまだ。」は、「まず 行ってまいります と言え それから ただいまだ」と、言葉の切れ目をハッキリキッパリくぎって読む様にと、指示されていたのですが、今度は、ハッキリキッパリをボンヤリさせて、なおかつダラーと続けない素読みを、指示されました。
私は、「こういう事かな?」と思いつつ読んだら、何もダメ出しされなかったので、ボンヤリ度が合っていた様です。
ダイヤローグのレッスンでは、「何も考えないで、ただ読んで」と言われて読んだら、「ぼんぼちさん、すっごくいいね!」と、めったにお褒めにならない先生が、声高らかに満面の笑顔で褒めてくださいました。
私が、「第一回目の『から騒ぎ』では、グダグダだったので、この二週間、毎日 自主練してましたっ!」と言うと、「やっぱり努力の成果は出るもんだねー」という様な内容のお言葉が、ますますの笑顔とともに返ってきました。
私は、「努力はしますっ!!」と、強く言い切りました。
先生の隣に座っておられたプロデューサーさんも、「ほほぅ」といった表情で、笑んでくださっていました。
ダイヤローグの感情を込めた授業では、まず、一部を、動きをつけながら台詞を読み、椅子に座って読む時も、そのように動くのだという事を 常に頭に入れつつ読む事、
「では、殺してちょうだい!クローディオを。」を、もっと真に迫ったリアルな言い方をする事、
「え!いや、それはできない。」も、やはり、真に迫ったリアルな「そんな、、、友人を殺すなんて、できない、、、」という感情で発する事と、「それは」の「それ」は、「友人クローディオを殺す事」なのだと 観客に解る様な言い方をしなければならない事、
自分では作り声をしているつもりはなくても、作り声になってしまっている部分がある事、
感情が先行してしまって、言葉が綺麗ではない(明瞭ではない)部分がある事、、、等々々を、ダメ出しされました。
そして、レッスン了りに先生は、「日本語というのは、高文脈言語といって、具体的に説明しなくても伝わる言語であり、対して英語は、低文脈言語で、具体的に説明しないと伝わらない言語なんです。 だから、低文脈言語を訳した戯曲を高文脈言語の文化圏の人達が演るには、それ相当のテクニックが必要なんです」と、大変 高度で貴重で専門的な理論を教えてくださいました。
それが実例として、どのようなテクニックか、まではご説明にならなかったので、後日、人数が少ないレッスン日にでも質問してみようと、思いました。
この日は、大変に褒められたし、ダメ出しされた箇所も一度で直せた所が多かったので、非常に達成感の大きな一日でした。
帰路、夜空を仰ぐと、オリオン座がきらめいてました。
「星が綺麗に見える夜」って、こういう日のことを言うんだな、、、と、生まれて初めて実感しました。
第20回第21回の演技のレッスンを受けて [リポート]
今日は、12月5日(月)第20回「リチャード三世」、12月17日(土)第21回「から騒ぎ」のレッスンの、リポート&感想をつづらせて頂きます。
先ず、12月5日(月)第20回「リチャード三世」。
前半は、グロスター(のちのリチャード三世)の長いモノローグを、感情抜きでゆっくり読む、という基礎の読み方をやりました。
ダメ出しを受けたのはーーー
発音が明瞭でないために何を言っているのか解らない所が何ヶ所もある、という点と、一音一音同じ長さで読まなければならないのに短い音がある、という点でした。
先生のご助言は、「普段の日常会話だとすると、イヤミなくらいに大げさに滑舌良く読もう!という心掛けで読むといいよ」という事だったので、次の日から、テキストにならなかった部分のシェイクスピア作品を、そのように心して、毎日、自主練する事にしました。
後半の、グロスターと美しき未亡人・アンのダイヤローグではーーー
アンをやった時に、「アンは貴族なのだから、貴族らしい怒り方をするし、どんなに悲しくても泣かない。そこまで考えて読むように」と、指摘されました。
又、このダイヤローグの最初の半頁を、即興で記憶する、という、このレッスンのシリーズが始まってからの初課題も出され、私は「リチャード三世」は二度目のレッスンだったので、なんとか覚えられました。
次に、12月17日(土)第21回「から騒ぎ」。
前半は、ベネディックという貴族の青年の、まるまる一頁に渡るモノローグの長台詞を、感情抜きの読み方で読みました。
この読み方は、演劇の共通専門用語ではないらしいのですが、先生は「素読み(すよみ)」と呼んでいらっしゃる、との事でした。
今回は、「合格と不合格の間くらい」と評されました。
そして、「素読みは、素読みのための素読みではなく、常に、感情を込めた完成形に向かうための基礎練習なのだ、という意識を忘れずにいる事。そうすると、何度も素読みしているうちに、感情が湧いて抑えられなくなってくるので、そうなったら抑えずに、出てくる感情を出して良い」との事でした。
先生は今回も、「ちゃんとイースト菌が入っている ふくらめるパン生地であるように」という、非常に解りやすくて面白い例えをしてくださいました。
後半は、そのベネディックと彼が惚れているベアトリスという 若くて美しくしたたかな女性とのダイヤローグを勉強しました。
この「から騒ぎ」という作品は喜劇なのですが、私はテキストが来て読んだ時点では、どこが喜劇なのか全く解らず、したがって、先生の前で一度目に読んだ時、まるで観客を笑わせられる読み方が出来なかったのですが、先生の詳らかな説明と読み方のご指導により、どこがどう喜劇なのか、どう読めば笑わせられるのかが、初めて理解出来ました。
又、「あぁ!」とか「おぉ!」といった感嘆の台詞の作り込み方は、最初の練習では、最大限に大きな声を発し、それから徐々に小さくしてゆくと良い、というテクニックも教わりました。
そして今回も、即興で約一頁覚える、という課題が出されましたが、「から騒ぎ」は初めてだったので、なかなか覚えられなかったのと、五行の長台詞は、私はハナからギブアップしてしまいました。
即興の記憶はとても苦手なのですが、次回からは、集中力を総動員して、ダメ元で、五行くらいの長台詞でも、ハナからギブアップしないで挑戦できるようにしよう!と思いました。
他にも、「当たり前の言い方をしても何の意外性もなく面白くもないから、当たり前な言い方とは真逆の言い方をしてみる!」や「もっと、幾つもの感情を入れ込んで!」等、たくさんのダメ出しを受けました。
今の先生のレッスン、回を重ねる毎にどんどん要求されるレベルが高くなり、第21回は、今までで一番、難易度が高かったです。
2023年も、レッスン、自分なりに頑張ろう!と、前を向いています。
第18回第19回の演技のレッスンを受けて [リポート]
今日は、11月3日(木)第18回「リチャード三世」、11月30日(水)第19回「夏の夜の夢」のレッスンのリポート&感想をつづらせていただきたいと思います。
先ず、11月3日(木)「リチャード三世」。
冒頭の、リチャード三世が、現在の自国の状況を鼻で笑い、己れの容姿の醜さと狡猾さを語り、これからの生き方の戦略を独白するという まるまる一頁の長台詞と、リチャード三世と 彼が主人を殺したために未亡人となった美しきアンのダイヤローグで、リチャードが巧妙にアンを口説き落とす場を勉強しました。
冒頭の長台詞は、私は二箇所、褒められました。
一つ目は、一回目に「では、ぼんぼちさん、読んでみて」と言われて、リチャードの言わんとしている内容・感情が変わる箇所箇所を、読み方を変えて読んだら、とても肯定的に評価されました。
二つ目は、二度目に「では、ぼんぼちさん、今度は、一回目の変えながら読む読み方に加えて、キッチンの排水口からゲボッと嫌ぁ〜な悪臭が湧き上がってくる事ってあるじゃない。そういうイメージで読んでみて」と言われ、そのイメージを思い描きながら読んだら、「嫌ぁ〜な臭さ、出てるねぇ!」と褒められました。
あぁ、この読み方で良かったんだ!と、とても嬉しかったです。
次に、リチャードとアンのダイヤローグの部分。
このダイヤローグは、相手役が前に言ったセンテンスを そのまま次の役の人がなぞるように言って、最後の言葉で否定したり、相手役の台詞と次の役の台詞がひとつながりになっている様に言う様に書かれた 非常に秀逸なダイヤローグで、私はこの部分を自主練期間中に読んだ時に、2月からシェイクスピアの勉強を始めて、ここにきて初めて、シェイクスピアがいかに優れた 世界演劇史に遺り続ける大人物であるのかが、納得できました。
レッスン日当日、先生が仰るに、シェイクスピアには、こういった見事な掛け合いのダイヤローグが、他の作品にも幾つもある、という事でした。
さて、このダイヤローグでは、私はアンの役を演ったのですがーーー
アンは怒り心頭している と受け取れたので、一度目、そう読んだら、先生に「アンは、怒っているだけではなく、リチャードに対して恐れの感情も抱いているので、怒り+恐れ の感情で読むように」と言われ、二度目、そのような二つの感情を同居させて読んだら、ダメは出されなかったので、この感情表現で良かったんだな、と思いました。
ダメ出しされたのはーーー
二人でひとつながりの台詞になる所が二箇所あったのですが、一度目、リチャード役の人より低いトーンで発したら「(トーンを)落とさないで、間無く円滑に流れる様に」と指示されました。
もう一度、先生のご指示通りに読んだら、ダメは出なかったので、ご指示通りに読めていた様です。
そして、先生は、「では、この二箇所を、レベルアップして、違う読み方をしてみましょう。あえて、間を空けて。ぼんぼちさん、解りますか?」と聞かれたので、私は、「あぁ、一間、空ければいいんだな」と思い「はい」と答えました。
で、単に一間空けて、読み方は一つ前と同じ読み方をしたら、「『間を空けて』という事は、それに伴って、台詞の言い方も変わって来なければいけない。一間空ける というのは、アンがリチャードの言葉によって驚いて返すという事だから、そういう言い方をしなければならない。 現場では(要するに、プロの役者さんは)、『一間空けて』の監督の一言で、そこまで解るものなんです」と仰いました。
私は、「あぁ、やっぱりプロの役者さんっていうのはすごいんだな。そこまで瞬時に理解が及ぶなんて」と思ったのと同時に、「私はプロの役者を目指している訳ではないけれど、次からは、この様な臨機応変が出来るようになろう!」と拳を固くしました。
次に、11月30日(水)「夏の夜の夢」。
この回は、人数が少なかったために 非常に濃密なレッスンとなり、得るところも非常に多くあったのですが、特に書き記しておきたい事は、以下の四点です。
先ず、最初に長台詞を読んだ時、先生は、こういう内容の事を仰いました。
「ぼんぼちさん、今までの中で、声の出し方、一番いいね。そういうこと! ぼんぼちさんは、初回から今まで、これは違うあれも違うと 僕に言われて、ジタバタ暴れていた鯉だったけど、ここにきてやっと、まな板の上で、いい意味で死んで、いかようにも調理出来る状態に到達したね」ーーーと。
私の側も、「あー、この声の出し方は違うのかー」「これでもダメなのかー」と暗中模索していて、前々回あたりに先生の、「ぼんぼちがこの台本の状況に置かれた時に 発する声を出せばいいんだよ」というご指摘に、「あっ!そういうことなのか!!」と、ストンと腑に落ちた自覚があり、今回ようやっと、それが声にきちんと表出されたようです。
自分にとってはとても高い階段を一段のぼり切れて、大きな達成感を覚えました。
次に、ダメ出しされた箇所三つ。
一つ目は、声の高低や強弱で説明的に感情を伝えようとしない事。
現実に、人間が言葉を発する構造というのは、まず感情があって、それに伴って思わず口をついて そのようなニュアンスの言葉が出るので、演技も、それと同じ順序をなぞらなければならない。
「まず、○○な感情になる」→「自然と、それに伴った わざとらしくない深味のある台詞が出る」ように。
これからは、「まず、内なる感情!」で、頑張って出来るようになろう!と、心しました。
二つ目のダメ出しはーーー
「森」とか「ヘレナ(登場人物の名前)」とか、シェイクスピア演劇では、次にどういう場という設定で芝居が行われるのか、次に誰が舞台に初登場するのかを、その前に舞台にいる人物が、それとなく判らせる仕組みとなっているので、そういうキーワードになっている言葉を立てるように、でした。
これからは、下読みの段階で、そこまで察する事が出来るようになろう!と思いました。
三つ目はーーー
シェイクスピアは、まるでデュエットを歌っているかのような 相手との掛け合いのダイヤローグが多いわけですが、そこを、単に 自主練して来た通りにやるのではなく、あたかも身体まで相手と一体化したような、そのくらいにひとつながりになって、台詞を言うように、でした。
これは難易度高いぞ! 一朝一夕に出来そうにないな、、、と直感しましたが、でもいつかは、出来るようになりたいです!
そして最後に、「夏の夜の夢」のレッスンの回では、必ずやってきた、パック(いたずら妖精)の16行の口上の暗記を、一人づつ発表しました。
これまでの回は、先生が、「今日は、観ている人、一人一人の顔を覗き込みながら、上手から下手へ」とか「今日は、ゴミ箱を持って、二つゴミを拾ったところで口上を言い始めて」等と、ご指示が出ていたのですが、「今日は、『夏の夜の夢』は最後だから、何でもいいから自由にやってみて!」と、フリー課題を出されました。
私は、パックの口上を自主練しながら、「あ〜、秋だなあ。野外舞台で、落葉舞う中、パックが口上を言うっていうのも、画になりそうだなあ」というのが、ぼんやりと頭の中にあったので、その日、自分が着てきたコートを使う事を思いつきました。
「ちょっと寒いな」という感じで舞台を歩いて来ると、まだ余韻に浸って席に残っているお客さんが、何人もいらっしゃるのに気づく。
嬉しくなって、思わず この口上を言い出す。
口上の感情がちょっと変わる所でコートを脱ぎ、肩に掛けてポーズをキメて声を飛ばす。
口上の終わりかけには、再びコートをまとい、フードをかぶり、残っているお客さんに〆めの一言を言って、手を温めながらトコトコと舞台を去る。
ーーーというのを演りました。
すると先生は、しきりに拍手をされながら、「いいね!今までぼんぼちさんがやってきた中で、これが一番いいよ!!」と、最上級のお褒めの評をいただけました。
もちろん、最上級に嬉しかったです。
早いもので、今の先生についてからのレッスンも、19回を了えました。
私なりにではありますが、確実に上達しているのを、実感しました。
継続は力なり!ですね。
ぼんぼち、これからも、継続して、階段をのぼってゆきます!
第16回、第17回の演技のレッスンを受けて [リポート]
今日は、第16回10月10日(月)「ハムレット」、第17回10月24日(月)「夏の夜の夢」のレッスンのリポート&感想、加えて、どういったきっかけで、私が演技のレッスンをお習いしようと決意したかを、つづらせて頂きたいと思います。
先ず、10月10日(月)「ハムレット」。
この回は、以前もやった、ハムレットの独白「このままでいいのか、、、」から、オフィーリアとのダイヤローグ「尼寺へ行け!」までをお勉強しました。
以前のハムレットのレッスンとは全く別のアプローチの仕方ーーーダイヤローグを充実したものにする為に、紙コップを糸電話の様に使って台詞を言ったり聞いたり、オフィーリアが精神的に苦しめられてゆく感情を、先ず、肉体的に解るようにとの目的で、自分の首を絞めて肉体の苦しさを感じながら、台詞を言ってみる、という試みをしました。
「こんなアプローチの方法もあるのか!」と、とても新鮮でした。
主にダメ出しをされたのはーーー
ハムレットの独白の部分で、私は「ら行」が正確に言えていないという事で、それを直す方法として、最初にあえて、正しくないら行、つまり、Rの舌の位置(舌を丸めて口腔内の上部に舌がつかない)で言ってみて、次に正しい舌の位置であるLの発音(舌が上歯茎の前の方につく)で言ってみる、という練習をしました。
この練習法は、先生が私の為に独自に考案して下さったそうです。 ありがたい限りです。
家でもこの方法で、何度も自主練しようと思いました。
あと、前回のレッスンで、「作り声ではなく、地声で台詞を読む様に」と注意されたので、今回は地声で読んだつもりだったのですが、私は「地声」を、自分が無理なく出せる声域、と解釈したのですが、そうではなく、「ぼんぼちが、台本の設定にある状況に置かれた時に、ぼんぼちの感情で出てくる声」だと、先生の詳らかな説明により、解りました。
次回のテキストからは、「これがぼんぼちだったら、、、」と心して、自主練しようと思いました。
次に、10月24日(月)「夏の夜の夢」。
この回は、最初に、身体のウォームアップ、次に、感情を入れない基本の読み方をお勉強しました。
この時にも、やはり「ら行」を注意されたので、もっともっと自主練をしようと、拳を固くしました。
後半は、まじないにかけられた為にぐちゃぐちゃになった4人の男女の登場人物を、次々と役を入れ替えて、3回読みました。
ですから、3人の、それぞれ違う感情の役が演れて、最高に楽しかったです。
中ーーー主に私がダメ出しを受けた所はーーー
シェイクスピアでは、前に相手役が言った台詞を次の人が受ける言葉の掛け合いが多いので、家で自主練してきたそのままを言うのではなく、相手役がどんなしゃべり方で台詞を発したか、それをよく聞いて、瞬時に、それを真似た返しをする様に、でした。
難しくて緊張してしまって、何度もトチってしまいました。
それから、目の前にいる3人のうちの1人だけに言う台詞を、小さく言わずに、大きな声のままで、1人だけに言っているのだと、観客に解らせる言い方をする様に、でした。
先生に、「これ、理解出来ますか?」と問われたとき、私は間髪置かずに「はい、解ります」と答える事が出来ました。
それは、私は以前、(これもあくまで趣味としてですが、シナリオ作法を勉強していたので)傍白の理屈と同じだな、とピンときたからです。
又、前回のレッスンで注意された、本当の地声の意味は、今度は正しく解釈・実践出来ていた様で、そこに関しては、何も注意されなかったので、「ああ、これでいいんだ。ステップアップ出来たな!」という実感がありました。
さて、最後に、私がどうして、演者を目指す訳でもないのに、こんなに熱意を持って(出来る出来ないは別として)レッスンに臨むようになったのか、そのきっかけですがーーー
それはーーー
中学に入った時、映画部に入りたかったんですね。
映画部に入って、1人1作のスチルアニメーション(役者さんが登場しないで、写真がパパパパッと動く、あれね)を作りたかったんです。
だけど、うちの中高には、映画部がなかった。
何らかの部に所属する事は、ほぼ強制に近い圧力で、学校側から言われていたので、仕方なく演劇部に入りました。
私はその頃はまだ、将来は、舞台衣裳のスタイリストになるという夢を、毒母の為に諦めなくていい年齢だったので、学芸会で衣裳係りをやらせてもらおうと。
しかし、入部してみると、高校生の先輩の指導で、部員全員が演者の訓練をするならいとなっていました。
先輩達の考えは、揃いに揃ってこうでした。
「映画なんていう下劣なジャンルに興味がある人はダメ! 映画なんて、時系列で撮っていかないし、カメラに向かって台詞を言ったりするのよ! そんなんで、演技なんて出来る筈ないじゃない!! 大きな舞台の演劇だけが、演技が出来る場なのよっ!!!」
その他にも、先輩達が足を組んでふんぞり返って、私達後輩を指導するメソッドって、ぜーーーんぶ間違ってるんじゃなかろうか??? と、私は疑問でいっぱいになりました。
で、ある部内会議の時、私は、「プロのコーチを呼んで、プロのコーチに指導していただきたい」と発言しました。
すると先輩達は、「私達がちゃんと教えてあげてるじゃないの!」、同輩達にも、「そうだよ、先輩がたが、ちゃんと教えて下さってるじゃん!」と、袋叩きにされました。
私はこんな疑問の塊の演劇部なんて、1日も早く辞めたいと思いました。
同時に、それまで全く関心がなかった「演技」というものに対し、「正しい演技って、どういうんだろう? プロ中のプロの先生に、正しいメソッドを指導して頂いて、この疑問を解明したい!!!」という欲求が、私の奥底から、マグマの如くに溢れ出しました。
演劇部は高1の途中で、「美術科予備校の講習会と重なるから」という、誰にもぐうの音も出せない理由が出来たので、やっと辞める事が出来ました。
そしてーーー
自分に自由な時間が出来た30代後半から、信頼出来る演技の先生探しが始まりました。
けれど、「わ!たどり着けた!」と思っても、すぐにメッキが剥がれてしまう、薄っぺらい無知な先生だったり、中には、演技の先生詐欺に合ってしまった事もありました。
と、今年の2月から教わり始めた今の先生は、心底、信頼出来る、詳らかに深く広く教えて下さる、大変優秀な先生だという事が、回を重ねる毎に、より確実に解ってきました。
私は、「プロ中のプロの先生に、正しいメソッドを教えて頂きたい!」という願望が、48年間願い続けて、ようやっと叶ったのです!
だから、演者を目指している訳でもないのに、これだけ熱意があるのです。
熱意を通り越して、執念、怨念の発露、と言っても、過言ではないかも知れません。
演劇部の先輩達、それから、自分達が先輩になったら先輩と同じ事をやっていた同輩達、これが演技のレッスンというものですよ。
あなた達、振り返ってみて、ご自分達がやっていた事、恥ずかしくないですか???
第14回第15回の演技のレッスンを受けて [リポート]
今日は、9月12日(月)第14回「ロミオとジュリエット」、9月26日(月)第15回「夏の夜の夢・第三幕」のレッスンのリポート&感想を、つづらせていただきます。
先ず、第14回「ロミオとジュリエット」。
この日は、誰もが知る バルコニーでの二人の密会の場をやりました。
前半では、私は「夜空」と「あの人」が正しく発音出来ていないという事を指摘されました。
自分自身でも充分に自覚があった言葉であっただけに、何度言ってみてもなかなか正確に発音出来なかったのが、もどかしかったです。
私にはこの様に、正しく発音出来ない言葉が(特に、早い台詞になると)幾つもあるので、時間はかかるには違いないけれど、日常会話の中でも気をつけながら、少しづつ直してゆこうと思いました。
後半は、本来戯曲にあるバルコニーという設定を離れて、現代のタワマンにジュリエットが住んでおり、階下からロミオが呼びかける、といった応用編をやりました。
その中でダメ出しを受けたのは、「遠くにいる人に呼びかける台詞が、単に大きな声になってしまっている」でした。
家に帰って、この二つの声の飛ばし方の違いが出来るようになるまで、何度も復習しようと、拳を固くしました。
又、ロミオ役を演った時に、「今度は照れながら」「今度は二枚目のロミオで」等、一行の台詞の中にも応用を求められました。
ちゃんと出来たか否かは別として、この応用編は、私個人的に、非常に楽しかったです。
加えて、通常は、レッスン生が各々椅子に座ったまま台詞を読むのですが、この回では、動きもつけたレッスンもやり、それも新鮮で面白かったです。
いつもの様に大きな勉強になった事は勿論ですが、この回は、今までのレッスンの中でも一番楽しく、様々な応用編をやって 様々な人格を疑似体験出来たからか、カタルシスに浸れ、とてもスッキリした気持ちになれました。
次に、第15回「夏の夜の夢・第三幕」。
三幕の前半部分の、パック(いたずら妖精)が、妖精の王様に面白い話しを報告する 一頁近くの長台詞と、妖精のまじないにかけられたために若い男女の恋愛関係がぐちゃぐちゃになる 観客を笑わせる場をやりました。
パックの長台詞では、先生が「この長台詞全部を、笑い転げ続けながら最後まで読み切るように」との条件を付けられました。
私は必死に、大笑いしながら読みましたが、半分くらい読んだ辺りで笑い方のパターンが尽きてしまい、なんだか、やけっぱちっぽい笑いになってしまいました。
読み了ると、先生は、ズバリと私の心中を見抜いておられ、「途中から笑いのパターンが尽きて、やけっぱちで読んでたね」と仰いました。
この課題は難しかったけれど、最高に楽しかったです。
家でも、この長台詞に限らず、登場人物が「面白い」と思って発している長台詞を、笑い転げ続けながら読む練習をしてみよう、と思いました。
それから、私はこれまで、役によって様々な声色を作って台詞を読んでいたのですが、「これからは地声で読むように」と注意されました。
理由はーーー
「声優であれば、すでに画が決まっていて、そこに声を当てはめてゆくので、作り声をするのは正しいけれど、役者は、自らの身体が表現手段だから、先ず、素の自分ありきで、そこから出発しないといけない。最初に声を作ってしまっては。 巧い役者さんは、役によってあらゆる声を作っている様に聞こえはするけれど、あれは作り声をしているのではなく、違う役を演じる事によって 声まで違って聞こえるという事なんです」という意味の内容でした。
「だって、ぼんぼちさんは、舞踏(この日のレッスンの最初の方で、私は舞踏が好きで、舞踏の理論を勉強していました、と話していたので)を踊る時に、良い人と悪い人を踊り分ける場合、最初に形から決めますか?」
「いえ、先ず感情ありきです。」
「そうでしょう。 演技も同じなんですよ。」
私はこの時まで、舞台演劇というものは、作り声を出すものだと、何の疑問も抱かずに思い込んでいたので、このご指摘に、鯨くらいに巨大なウロコが目からボロッと落ち、何て大きな気づきをさせていただいたのだろう!!と思いました。
この気づきは、私の中で大変に大きな収穫で、これからは全ての役を地声で読もう!と、瞬時に舵の方向を、先生のご指示通りに向けました。
レッスンを受けていると、毎回、ドーン!ドーン!と、大きな収穫があり、それが高層ビルの如くに積み上がっていっています。
無知でアマチュアの私はその高層ビルの階段を、一段一段、よいしょよいしょと素足で以て昇っています。
ですが、一段一段昇る事そのものが、私の享しみであり、この上ない幸せになっているのです。
第12回第13回の演技のレッスンを受けて [リポート]
今日は、第1回目から定期的につづらせていただいている シェイクスピアの台詞のレッスンの、第12回「マクベス」(8月8日)第13回「夏の夜の夢」第2幕後半(8月29日)の、リポート&感想を書きたいと思います。
先ず、第12回「マクベス」。
以前、同戯曲をテキストとした時と同じく、現・王の暗殺を決行すべきかせざるべきかを思い悩むマクベスを、マクベス夫人が、入れ知恵をし 巧く誘導し、マクベスの決意を固くさせる、という場を勉強しました。
主にダメ出しをされた所はーーー
「人間というのは、あらゆる時々で、複数の感情が同居していてしゃべるものだから、台詞を言う時にも、少なくとも2つ、出来れば5つくらいの感情を入れ込んで発するように」でした。
「わぁ、、、難しいテクニックを要求されたなぁ」と思いましたが、理屈として、先生の仰る通りだと大きく頷けましたし、これまで、舞台や映像で 巧い役者さんの演技を観ていて「何と、深み・厚みのある演技なのだろう!!」と感嘆できたのは、それは、役者さんがこのテクニックを使われているからだと、理論的に理解ができました。
とても難易度の高いテクニックだと直感したので、すぐにはできなくても、いつかは私でもできるようになりたい!目指そう!と、心の空の上方を見上げました。
それから、またしても今回も、「慌てるな」と、注意されました。
そして先生は、「台詞が早過ぎる。 何か強迫観念にせっつかれているような読み方をしている」と、ご指摘されました。
まさにその通りだったので、私は、「はい、すごく『早く読まなければ!』という強迫観念に追われています。 以前、教わっていた先生(20年前の研究所の日曜クラスの先生で、あまりにもメチャクチャでトンチンカンな指導をしているのが校長にバレ、研究所の講師をクビになった先生)に、歌舞伎のようにゆっくり読まされていたので、それではいけないと思って 必死に早く読んでいます」と打ち明けると、先生は、「(その先生に教わってた事を)忘れれば?」と仰いました。
私は間髪おかずに、「はい!忘れます!!」と答え、20年前の日曜クラスの先生に教わっていた事は、何一つとして吸収して良い事が無かった と改めて感じ、キレイサッパリ忘れる事にしました。
同時に、毎回注意されていた「慌てるな」は、「早く読み過ぎている」という事なのだと、ようやっと気づき、次回のレッスン日までに、適切なテンポで読めるようにしておこう、これは 何が何でも絶対に掴んでおこう!!と 拳を固くしました。
又、後半、嬉しいお言葉もいただけました。
「ぼんぼちさん、初回からすると、ずいぶん良くなったよ」ーーーと。
納得できる指導法の先生に「良くなった」と褒められるほど嬉しいものはありません。
これからも、このペースで頑張って、アマチュアなりにも上達してゆこう!と、より、前向きな気持ちになれました。
次に、第13回目「夏の夜の夢」第2幕後半。
女の子は片思いで男の子は嫌っている場と、男女とも両想いの場をやりました。
中、先生に、ジェスチャーを使って事細かに指摘されたのは、「どの場面でも、相手役との身体的な距離感や動き、手はどういう状態になっているか、そこまで明確にイメージして、そのような台詞の発し方をするように」でした。
このシリーズのレッスンは、台詞に特化したレッスンなので、レッスン生達は、各々が椅子に座って1列になって、ある程度離れて読むのです。
現実にはその身体の状態であっても、口から出てくる台詞は、「いかにも投げ飛ばされた直後のように」であったり「いかにも顔を接近させているように」であったりしなければならない、と教わりました。
これからは、もっとよく考えて、明確にイメージしてから予習しよう、と思いました。
そして、前回、この日のレッスンまでにはできるようにしておこう!と自分に課した 「適切なテンポで読めるようにしておく事」に関しては、できるようになっていました。
先生から一度も、「慌てるな」「早過ぎる」というダメ出しは受けませんでしたし、そのテンポだと、つっかえたりトチったりが一度もありませんでした。
「あぁ、適切なテンポというのは、このくらいなのだ、これを身体に染み込ませよう」と思いました。
他の部分はたくさんダメ出しされましたが、この回の私の課題は「とにかく適切なテンポを掴んでおく事」だったので、本望でした。
ーーー以上が、第12回第13回のレッスンのリポート&感想です。
が、少なからずのかたがた、今回の記事を読まれて、こういう疑問を持たれているのではないでしょうか?
「20年前の研究所の日曜クラスの先生がクビになった後、日曜クラスはどうなったの?」ーーーと。
以降は、本科(本格的にプロを目指す人のクラス)の先生と校長が、交代で教えてくださってました。
この二人の先生のレッスンでは、「台詞(戯曲)を読む」という事は一度もなく、エチュード、無対象、ストラスバーグのメソード演技に基づいた課題を教わっていました。
このお二人の先生に教わった事は、吸収しておいて良かったな、と実感しました。
何故なら、今の先生のレッスンが始まってから、何度目かのレッスンの時に、ダイヤローグを円滑にする為の 身体も使った基礎勉強をした回があったのですが、その時に私は、かつてそのお二人の先生に教わった方法論を記憶の中から引っ張り出して演ったら、今の先生にも肯定的に言われたので。
ですから、私・ぼんぼち、台詞(戯曲)を読む事に関しては、ピッカピカの1年生!です。
第10回第11回の演技のレッスンを受けて [リポート]
先日の7月11日(月)25日(月)に、第10回第11回の演技のレッスンを受けたので、今日は、その時のリポート&感想をつづらせていただきます。
第10回は「マクベス」の、マクベスが、現・王を暗殺し、自分が次の王になる計画を迷っているところを、気丈でしたたかなマクベス夫人に、背中を押され 入れ知恵を吹き込まれ、現・王を殺す決意に至る件りを勉強しました。
私は、マクベス夫人の台詞で、先生に、「なんでそこで下げるの?なんで下げるのか解らない。 ここは、〜という意味だから、下げちゃダメ」とダメ出しを受け、その瞬間、クジラくらいに大きな目から大きなウロコがボロッ!と落ちました。
そして、レッスン終了後の質疑応答の時間に、「そのご指摘に、目からウロコが落ちました。 私は今まで、しばしば すっとんきょうに高い声を出したり 低い声を出すのが良い事だと思っていました」と打ち明けると、先生は、「現実の会話で、突然 そんな極端な高低はつけないでしょ。演技は現実の『模倣』なんだから。 そんな高低でしゃべる人がいるとしたら、それは狂人だけです。」と仰いました。
私は、いたく納得し、これからは、すっとんきょうな高低は出さずに、あくまで 意味に基づいた 現実の人間がしゃべる範囲の高低の台詞を言おうと、キモに命じました。
何故、私がそれまで、すっとんきょうな極端な高低が良いと思い込んでいたかというとーーー
20年前にいた研究所の日曜クラス(私が在籍していたアマチュアのクラス)の先生に、「演劇っていうのは、『嘘事』なんだよ。嘘事芸術の世界。 だから、現実にしゃべっている高低で台詞を言っても、嘘事芸術・演劇にはならないんだよ。 だから、一つの芝居の中で、何度も、自分が出しうる最も高い声と最も低い声を使いなさい。 上がり〜下がり〜上がり〜下がり〜を繰り返すんだよ。 演劇は嘘事なんだから、意味より語感が大事なんだよ。」と教わったからです。
その教えを長年、私は、「へー、演劇っていうのは、そういうものなんだー」と、漠然と信じていたのです。
しかし、今回の先生の質疑応答での説明・理由により、今回の先生が仰る事が正しく、20年前の日曜クラスの先生が間違っていたと、火を見るより明らかに解りました。
これは私にとって、非常に大きな気付きであり、収穫でした。
第11回は「夏の夜の夢」の二幕全部がテキストで、ラストのパック(妖精)の16行の口上を暗記して来るのも宿題でした。
この回に第二幕全部がテキストとなるという事は、だいぶ前から告知されていたので、第一幕全部のレッスン日の翌日、つまり一ヶ月前から、戯曲を買って自主練していました。
第一幕全部の時は、あまりにも読めなくて 自分自身とても悔しかったので、第二幕は、たっぷりと自主練期間を取って、「これが今の私に出せ得る最大の力です!」というところまで出来るようにしていたので、晴れやかな気持ちで レッスンに向かえました。
勿論、ゴマンとダメ出しされるのは百も承知でしたが、未消化のない状態で、どれほどダメ出しを受けても、それは本望というものです。
主にダメ出しをされた所はーーー
妖精の王様が、仲の悪い妖精の女王(妻)に悪態をつく台詞を、悪代官の様な声で発したら、「そういう安直で安っぽい声では、田舎芝居になる。 シェイクスピアは美しい戯曲だから、アリアを歌う様なつもりの声の出し方で」と、指摘されました。
指摘されて初めて、「あ!ほんとだ!安直で安っぽい!」と、気付かされました。
あとやはり、毎回注意されている滑舌の悪さを 今回も指摘されたのですが、今回は、その原因が、先生のお言葉によって、ハッキリ解りました。
「感情に台詞が追いついていない」
自分でも、うすうす感づいてはいたのですが、「やっぱり、それか!」と思いました。
そして先生は、「感情と台詞を明確にしゃべる事では、台詞を明確にしゃべる事の方が大事なので、そちらを優先させるように」とのご指示を受けました。
私はつい感情優先になってしまうので、これもキモに命じました。
それから、レッスンの最後に、パックの口上の暗記を発表しました。
これは、第一幕のレッスンの日にもやったので、今回は、間違えたり間が空いたりせずに言えました。
が、先生が、「今のは、単なる『報告』という感じだったので、もう一度、今度は 観客に語りかけるように」との条件をつけられて、もう一回やりましたが、「さっきよりは、少しだけ語りかけるようになってたけど、もっともっと語りかけるように。 それは家で練習してきて」と仰ったので、頑張って、来月の三幕の日まで 出来るようにしておこう!と、拳を硬くしました。
今回の先生のレッスンを受ける度に、痛感している事があります。
それは、20年前にいた研究所と今回の先生のレッスンは、幼稚園と大学院ほどにレベルが違うという事です。
しかも、私が通っていた幼稚園は、間違ったヘンテコな教育をする幼稚園でした。
中学一年の時から、今回の先生のようなレッスンを受けたい受けたいと望み続けていました。
まわりにまわったまわり道をしてしまいましたが、ようやっと この歳になって、辿り着けました。
本当に、ここに辿り着けて良かったです。