永遠の演劇人・唐十郎氏を偲んで [感想文]
一ト月前に、アングラ演劇に於いて寺山修司氏と双璧だった唐十郎氏が、亡くなった。
すでに、かなりのお歳だったし、近年は、ベテラン劇団員との共同演出をされていたので、この日が来てしまうのは、そう遠い事ではないと、覚悟はしていたものの、やはりショックだった。
私は寺山派だったので、唐さんの芝居は、それほど観てきた方ではないのだけれど、それでも今以って、心の奥深くに突き刺さっている作品は、幾つもある。
最初に唐さんの芝居を観に行ったのは、状況劇場を経た後の唐組となっていた時代。私は三十代半ばだった。
鬼子母神の境内に、前、否、前々、否、前々々時代的な紅いテントが張られ、その前の受付けに、如何にもアングラ!といったメイクと衣裳の役者さんが座っておられ、境内に異世界が出現した如くで、この時点で私の内は、高揚した。
テントをくぐり、桟敷に座るや、芝居がすべり出す。
ここは完全に、日常とはへだてられた一つの世界ーーー唐さんの世界だった。
私は、演劇というものは、観客をつかの間、非日常の世界に、ワシが獲物を掴んで空彼方に飛んでゆく様に連れ運んでくれるものだと考えているので、「これぞ演劇!!」と、陶酔した。
又、起承転結の承の場で、早くも桟敷のあちこちから、「唐!」「唐っ!」「いよっ!唐!!」といった大向うが飛んだ事にも、桟敷も芝居の世界の一つに包まれているのだと、嬉しく驚いた。
唐さんは、ご自身が主演される舞台のみならず、幾多、戯曲も提供されていた。
第七病棟を私の世代で観る事が出来たのは、幸運だった。
確か木場の方の、倉庫を改造・手造りした古い木造りの小屋が、圧巻だった。
あの小屋も、時代を遥かにさかのぼらせてくれて、やはり、「あぁ!演劇だなぁ〜!」と、異世界の一員になり切れた 至福の一夜だった。
唐さんの妹劇団に相当する新宿梁山泊は、ある時期から 過去の唐さんの戯曲を、主宰の金守珍氏が演出をされ、上演を続けている。
金氏の演出は、唐さんのそれとはテムポが違って好対照で、私は梁山泊にも、機会があると足を運んでいる。
「ジャガーの眼」の時は、ちょっとしたご縁があって、関係者席に掛けていたのだが、私の前列の真ん前に唐さんが座っていらして、唐さんの頭越しに観る唐さん戯曲は、「こんな贅沢があっていいものだろうか?!」と、興奮せずにはおれなかった。
又、「新・二都物語」の時は、これもちょっとしたご縁があって、打ち上げに招待されたので、参加させていただいたら、唐さんこそいらっしゃらなかったが、客席にいらしてた李麗仙さんが、昔話・裏話をたくさんしてくださり、興味深く耳を傾けた。
この公演での主演は大鶴義丹さんで、帰り際に義丹さんに、簡単な感想とご挨拶をしたら、お背の高い義丹さんは、小柄な私に合わせて、腰をかがめて視線を私と同じ高さに合わせてくださり、「ありがとうございます云々」と、大変に謙虚で感じのいい方で、感激してしまった。
私が個人的に、唐さんの世界で一番嗜好に合ったのは、佐野史郎さん独り芝居の「マラカス」で、これは、唐さんが作・演出を担われていた。
クライマックスの場で、開けたマラカスの中からとめどなく流れ落ちる砂に、ノスタルジーを覚えずにはおれなかった。
冒頭に記した様に、寺山派の私は、熱烈な唐さんファンではないので、しかつめらしく批評するほどの知識や見解は持ち合わせていないのだが、誤解を恐れずに、あくまで私個人の主観として述べさせていただくとーーー唐さんの世界に通底するテーマというのは、「ノスタルジー」だと感じている。どの作品にもクライマックスには、ノスタルジーが、涸れる事を知らない泉の如くに溢れ出し、観客を飲み込み、観客全員もその一滴とされてしまう。
唐十郎氏、最期の最期まで、日本を代表する演劇人であった。
唐氏が日本の演劇界に及ぼした影響は、並々ならぬものがある。
合掌。