画家をやっていた事は不本意だったけれど、美術を学んだ事は良かったと思っています [ファッション]

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私のブログ記事を永く読んでくださっている方々は、私は自分の意志には反して 母親の強制力によって 18才から27才までの間、画家をやって母親を養っていた事をご存知だと思います。
あの9年間は、今思い返しても「青春」と呼べる様な自由さや楽しさなど一片も無く、すっぽり別の「人並みの青春期」と入れ替えられたらどんなにかいいだろう!と恨めしく思っている程です。

で、18才からプロの画家になったのですから、当然、それ以前に 美術の勉強を専門的に学んでいた訳です。
中学高校と、某美術学校に通っていました。
その美術学校を受験するのは、嫌ではありませんでした。
何故なら、その中高にはプールが無く、肌の色がどす黒かったのもコンプレックスの一つだったので、その中高に入れば日焼けしないで済むから、という理由でした。
別段、美術が好きだった訳ではありませんでした。

美術学校の学生の一人となった私は、日々、美術の勉強を熱心に学びました。
「美術学校の学生は美術の勉強をするのが本分」と、何の疑いもなく考えていたからです。
その学校は、美術の教師達と一般教科の教師達の対立や 美術教師同士の派閥争いばかりが盛んで、美術教師はろくに生徒に教える事をしませんでした。

「このままではまともに美術が身に付かない! 本分を貫けない!」と学校を見限った私は、予備校の美術科コースを受講したり 専門書を買い自主的な勉強を、自分の意識では「当たり前」の熱心さでやっていました。
その頃の私は顔が酷く醜かったので、学友に、顔に関しての屈辱的なあだ名を幾つもつけられていましたが、その中に「ガリ勉ブス」というあだ名も与えられていました。

高2から高3に進級する時、高校卒業後の進路を明確に学校側に提出して、各々に合った学校生活を送る事となりました。
私は寸分の迷いも無く「ファッションの専門学校に進みたい!」と希望しました。
ファッションの専門学校へ入学し、卒業後は舞台のスタイリストになるのが、物心ついた頃からの 強く熱い変わらぬ夢だったからです。(勿論、幼かった時には「スタイリスト」という語は知りませんでしたが)

が、しかし、学校側と母親は、猛烈に反対しました。
学校側の言い分としては(当時はまだ、芸術と称される絵画や彫刻がトップクラス、デザインは次点、ファッションなんぞは横道にそれたまっとうではないあぶれ者がやる分野、という古い差別的な考えの時代だったので)美術の成績がトップの生徒が絵画に進まないなんて、学校側は金の卵をドブに捨てる事になる。 ましてやファッションの専門学校なんぞに行かれたら 我が学校の汚点になる。という理由でした。

母親は、私が美術の成績が良かったのを巧く利用しようと「おめーが高校を卒業すると同時にパパとは離婚するから、卒業したら次の日から月々100万稼いでアタシを養え!」と強要してきました。
私は「どうしてもファッションに進みたい!」と嘆願しましたが、まだその頃は、母親は私にとって絶対的強者だったので、「じゃー、おめー、そのファッションとやらで、高校卒業した次の日からアタシを養えんのかっ!」の一撃に、「、、、いいえ、、、養えません、、、」と、泣く泣くファッションを諦め、画家になる為の土台作り(上野の展覧会で大きな賞を取り画歴を作り、画商と契約する事)を、高3の一年間でやりました。

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時は経ち、私が27才になった時、母親は突然の病で死に、私は完全に自由の身となれました。
もう27才になってしまったので、ファッションの専門学校に入学するのは諦めましたが、画家を辞め、気ままにアルバイトをしながら、人生の最重要項目にファッションを置いて、プライベートで自分のファッションを愉しむ、つまり、自分のスタイリストをやる事で、叶えられなかった夢の疑似体験をして、自分を幸せに導きました。

時間的にも金銭的にも存分にファッションを満喫出来る境遇になって初めて気づいたのですが、ファッショントータルコーディネートを完結させる事は、美術の作品を完成させる事と、論法が全く同じなんですね。
色と色との配分 アイテムの分量と分量の配分 自分という元を最大に映えさせる色合いや丈、、、つまりは、ファッションも最も大切なのは「バランスが取れているか否か」なんですね。
ですから私は、どこをどうやったら自分に最適なコーディネートが出来るのか、みぢんも 解らなかったり 悩んだり 迷ったり しませんでした。
必要を感じてあえて勉強したのは、近現代ファッション史と 布地や革などの材質に関してくらいでしょうか。
オーダーでワンピースを仕立てていただいた事もあるのですが、お仕立て屋さんに「こんなに解りやすいスタイル画を描いて来てくださったお客様は初めてです!」と、嬉しく驚かれました。

中高生時代、自分では当たり前の勉強をしているつもりだけだったのに「ガリ勉ブス」と揶揄された事や 美術の成績が良かった事が災いして ファッション畑に進ませてもらえなかった事は 確かに辛く理不尽だったけれど、それが今、こうして役に立っているのには ちょっと苦笑してしまいます。

「ガリ勉ブス」の「ブス」は、40才過ぎた頃から誰にも言われなくなりました。
これも、高校時代に 自主的に「美術解剖学」を勉強し、顔のどこにどういった筋肉が通っているかを熟知していたので、顔の筋肉を意識的に鍛える訓練で、ずいぶん自分の顔を変える事に成功したからです。
その話しは、また近く公開の記事にて、、、

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