人間、明日はどうなるか解らない [独り言]

「人間、誰しも 明日はどうなるか解らない。明日 死んでしまうかも知れない。」
子供の頃や学生時代や大人になってから、友人知人と話の流れで生死観の話題になり、私がこの様な事を発すると「何バカな事言ってんのよ!そんな筈ないじゃん!」と嘲笑されたり「僕は何事もなく平均寿命まで生きるんです!僕にはそれが当たり前なんです!」と威圧的に主張されたりと、今まで出逢った全ての同世代の者に 私のこの考えは全否定されてきた。
私はその度に「はぁ、、、一体全体何の根拠があって、そんな現実ととんでもなくかけ離れた未来を確信出来るのだろう?」と心の中で大きな疑問を抱き 溜息をついてきた。

20200411_152501.jpg何故、私はこれ程 他の同世代との間に生死観の隔たりがあったのか、三十才を過ぎて気がついたのだが、私は物心ついた頃から母親に毎日虐待されていて「今日は生きていたけれど明日は殺されてしまうかも知れない」という恐怖の中で育ってきたからだと判った。
しかし、母親に殺されてしまう可能性というのは、私の死の可能性の一つに過ぎず、舗道を歩いていたら車が突っ込んで来て轢かれてしまうかも知れないし、隣家のもらい火で家が全焼し 焼死してしまうかも知れないし、突然 余命三ヶ月の重病を宣告されるかも知れないし、強盗に入られて 口封じの為に刺殺されてしまうかも知れないし、気の狂った通り魔に 金槌で頭をかち割られてしまうかも知れない。

つまり、私は他の同世代の者より一つ死の可能性を多く持っていただけであり、他の同世代、否 世の中の殆どの人だって、これらに代表される死の可能性に常にさらされているのである。
ーーーだから何で、その可能性の現実を直視せずに生きているのか、不思議で仕方がなかったのだ。

けれど、今回のコロナ騒動によって、世の中の多くの人の中に「死は他人事じゃない。明日は我が身かも?」という認識が芽生えた。
その様な認識の元に、感染しない為に 又 させない為に、細心の注意を払って生活するのは非常に望ましい事だと感じている。

だがーーー
コロナ騒動が収束してコロナウイルスを世界から撲滅出来たとしても、我々が、明日 又は近い将来、死んでしまう確率はゼロになる訳ではない。
上述その他のあらゆる要因によって、誰しも いつ死んでしまうか解らないのである。
コロナが去ったら「コロナで死ぬという可能性」が無くなるだけである。
コロナ収束後、再び「何バカな事言ってんのよ!」「僕は何事もなく平均寿命まで生きるのが当たり前!」といった非現実思考者が増殖するか、今回の惨事を肝に銘じて 私と同じ現実正視者となるのか、私には知る由もなく、人の生死観は人それぞれであり、その人の好きな生き方をすればいいと思うし、私は私の生き方を貫き通すのみである。

20200411_152532.jpg私は、私が二十七才の時 母親が予期せぬ病でパタリと死んでくれたので、以降 大草原を全力疾走するが如くに、やりたかった事をむさぼる様に 一分一秒を惜しんでやってきた。
美容に多大なエネルギーを注ぐ事、ファッションを存分に満喫する事、映画と演劇をそれぞれの研究所に通って学ぶ事、カクテルの知識を得る事、好きな音楽を聴き 好きなミュージシャンのライブに行って踊る事、好きな作家の小説・随筆を何十回も読む事、ブログを通じて 吐露したかった事を吐露する事、、、、、
よって、五十七才と十ヶ月の今現在、人生でやり遺した事は、もう ない。
いつ死んでも、悔いは遺らない。
ただ、苦しんで死ぬのは嫌だが。

それから「これが出来なくなってまで生きていたくない」という事が二つある。
美容への全力投球とファッションの満喫は、生きている限り続けたいので、この二つが出来なくなってまで生きていたいとは思わないのだ。
私の尊敬する 知の巨人・立花隆氏は、ご自身のがん体験記の中で「僕は(知に対しての欲求が人並み外れて強いので)公私共に 高度な知的作業(執筆や読書)が出来なくなってまで生きていたいとは思わない」と書かれていた。
私は、美容・ファッションへの欲求が人並み外れて強いからこう思うので、立花氏の気持ちが痛いほど良く解る。


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