毒母が強要した私の結婚相手の条件 [毒母]

今回は、私の毒母が、私が25才になった時に強要してきた 私の結婚相手の条件の話しを吐露しようと思います。
長く私のブログを読んで下さっている方々は十二分にお解りの事と思いますが、最近になって読者になってくださった方や 初めてこのブログを読まれる方は 訳が解らないと感じられるとお察しするので、先ず簡単に、私が産まれてから25才まで母親にされてきた仕打ちを説明したいと思います。

母は、子供嫌いだったにも関わらず、モテた父を独り占めしたいが為に、父の気持ちに反して 強引に 出来ちゃった結婚ならぬ産んじゃった結婚を決行しました。「これ、アンタの子だから責任取ってよ!」と。
したがって母は、本妻の座は獲得したものの 父の女性好きは変わらず、複数人 愛人さんを囲い、その苛立ちと 私を産んだ事への後悔を、全て 私への心身ともの虐待という形で私にぶつけて 憂さ晴らしをしていました。

私が18才になった時、結婚時の約束通り、父は母と離婚し 愛人さんの一人を本妻にしました。
私は、高校を出たら、ファッションの学校に進み 卒業したら舞台衣裳を作る仕事に就くのが幼稚園の時からの夢でしたが、母は私に「画家になってアタシに月々100万渡せ!」と強要してきました。
母の言い分は「別れたパパからは家をもらっただけで月々の金は一銭も受け取らないから、おめーがアタシを養え!18過ぎたら子供が親を養うのは当たり前の親孝行だ!」という事でした。

物事ついた頃から心のどこかで疑問を感じながらも 絶対的強者として母に対していつも怯えて 自分の考えのほうが間違っているのではないかと考えていた私は「確かに ファッションの専門学校で勉強をし 学費と生活費を払い、その上で月々100万を母親に渡すのは無理だ、、、」と 仕方なく母の言いなりに画家になりました。

何故 母が私に画家という職種を強要したかというと「好きな仕事をして親を養うのは親孝行にならねぇ!嫌いな仕事をしてこそ親孝行だぁっ!」という持論で、後々思い返すと、それも精神的虐待の一つだったのでした。
悲しいかな事実、美術高校を出たばかりの18才の私にまとまった金を稼げるのは、絵を描く事しかありませんでした。

画商と契約をし、日曜も盆も正月もなく 来る日も来る日も毎日18時間 寝る前も惜しんで画家の仕事をしましたが、どう頑張っても月に30万前後しか稼げませんでした。
母親は、30万のうちの殆どをむしり取り「18になって100万稼げないなんて何てダメな親不孝な娘なんだ!」と 般若のような顔でののしりました。

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そんな生活が続き、私が25才になった時ーーー
母は、突然 こんなことを怒鳴りました。
「おめー!25才になっても結婚してねーなんて、世間体が悪りぃー!アタシが猶予を与えるからその間に出逢いから入籍までやって来ーい! んでっ、おめーの結婚相手の条件は、、、」
条件は、以下の通りでした。

1. そいつ(結婚相手)は自分の嫌いな事を仕事にして 月々100万アタシに仕送りする事!
好きな事を仕事にして稼いだ金は、200万だろうが300万だろうが親孝行にならねーっ! 必ず嫌いな事を仕事にする事!
2.  嫌いな仕事で100万以上稼いだら、200万でも300万でもアタシに渡す事!
100万以上稼いだからって、洗濯機 冷蔵庫 テレビ アイロン エアコン 家具 なんかの贅沢品を買ってはならねぇ!
四畳半一間のボロアパートに住んで ちゃぶ台代わりにみかん箱を使え!(ーーー時代は1980年代半ば、庶民の殆どの家庭に普通に電子レンジまである時代でした)
3. そいつの見てくれは、元野球選手の江本みたいな男がいいーっ!
ジュリーみたいに背が低くて気持ちの悪りぃ顔の男を連れてきたら 追ん出してやっからなーっ!(母親は、私がジュリーのファンだと知っていたから)
4. そいつの両親や兄弟には、一度たりとも逢わねーっ!
5. 子供が産まれても 一度たりとも連れて来るなーっ! アタシは昔っから子供が大っ嫌いなんだーっ!
6. 結婚式・披露宴を挙げるなんて、とんでもねぇ親不孝な行為だっ!
そんな金があるなら全額アタシに渡せーっ!
毛玉の付いたカーディガン一枚の普段着で、籍だけ入れに行けっ!
7. 猶予は一週間! おめーに一週間時間をやるから、その間に この条件に当てはまる男を見つけて入籍までやって来い!
その一週間だけ、画家の仕事はやらないで宜しい!

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私は、怒りで反発するのを通り越して、呆れ返って返す言葉もありませんでした。
加えて、偶然 上の母の条件発言と前後するタイミングで、母は父から30万より遥かに多額の金を月々送ってもらっており、父は私にも まとまった金をくれていたのを、母は私に秘密で一人でがめていた事も発覚しました。

私は、これまで自分がやってきた事のあまりの馬鹿馬鹿しさにハッキリと気付き、もう母に怯えるのは止そう! 猿回しの猿のように、心で泣きながら 毎日言いなりになって自分を犠牲にするのは金輪際終わりにしよう! 強くなろう! と心に決めました。

そして、画家の仕事は画商との契約があるので、プツンと辞める訳にはいかないから、徐々に受ける注文を減らしてゆき、辞められる時が来たら辞めさせてもらおう。
画家を辞められた時点で、父からもらった金を元手に家を出て一人暮らしをしよう。
母親には、今月からもう金を渡すのは止めて、家を出るまでの間、やりたくても我慢してやらなかった 喫茶店でくつろぐ事や原宿で買い物をする事やライヴハウスに音楽を聴きに行く事を、仕事を減らした時間で楽しもう!と思い、それを始めました。

すると母は「当たり前の結婚すら出来ねーなんて、おめーはなんてダメな親不孝な娘なんだ! アタシは世界で一番、みじめでかわいそうな母親だ! これじゃあ産み損だっ!」と 大仰に 悲劇のヒロインぶって泣きわめきました。
それまでも、幼かった私を「産みたくもねーのに勝手に産まれてきやがってー!」と 私の記憶がなくなるまで殴り続けたり、奇声をあげながら ヤカンを床に投げつけては又拾って又投げつけて、、、を2、3時間繰り返したり、と メチャクチャな人でしたが、それに幾重にも輪をかけたようなキチガイじみた言動に及ぶようになりました。

普通に立って歩ける状態なのに「熱が42度あるから入院させて下さい!」と 救急車を呼んだり、私が二階で仕事をしていると「娘が家じゅう破壊してアタシに包丁を突きつけています!殺されそうです!助けて下さい!」と パトカーを呼んだり、「ウチには18過ぎた娘がいる。買い取ってくれ。安くてもいい。嫌がって泣き叫んでも構わずに縛って連れてってくれ」と 隣街のソープに交渉に行ったり、私が冷蔵庫をかがんで覗いていると、「ギャーーーッ!」と言いながら走ってきて、私に馬乗りになり 私の髪をぎゅうぎゅう引っ張って「おー!おめー! 女同士 アタシと対決しよーじゃねーか!」と 意味不明の挑戦状を叩きつけてきたり、何にもぶつけていないのに、片手の手の甲をさすりながら「ほーら、見ててごらん。今に見る見るアタシの手は黒ーくなってくるよ」と 奇妙奇天烈なつぶやきをしたりするようになりました。

私が家を出て約1年後、母はクモ膜下出血で突然死に、私は別世界の如く静かになった家で再び暮らす事となりました。
後、私は好きになった人と結婚をして 嫌になったら別れて、、、を自分の意志で二度ほど体験し、今は一人で 自由気ままに生活をしています。

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