国分寺にあったレストラン喫茶「アースホール」 [喫茶店・レストラン・カフェ]

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私が二十七才の時、母親は突然の病で死に、その後何ヶ月かの間、私は仕事らしい仕事もせずに ただぶらぶらと遊んでいた。
毎日 何をしていたかというと、その時住んでいた東京郊外の国立の家から歩いてゆける 隣街の立川や府中や国分寺の喫茶店に くつろぎに行っていたのである。

中でも殊に 私の内に印象深い店が、国分寺にあった「アースホール」である。
アースホールは、住所は国分寺市ではあったが最寄り駅は国立駅で、国立駅北口を出て少し北上し 続いて北東へのだらだら坂をのぼる途中に、まるで アメリカの片田舎のレストハウスのような、木造りだったかコンクリートだったかはもはや記憶におぼろだが、とにかく白いニ階建ての建物だった。

景気が良かった時代だったからか、大抵の店が「いらっしゃいませ」すら言わずに こちらが世間話のひとつも振ろうものなら あからさまに嫌ぁな顔をしてそっぽを向く店員が殆どだった中、アースホールのマスターは大変礼儀正しく 丁寧な接客をしてくださった。 四十代半ばと思われる 長髪に髭でぼうぼうに顔を囲った 二重まぶたの豊かな黒々とした瞳のマスターだった。

私はランチタイム遅くに行くことが多く、しばしばマスターと二人きりになった。
マスターは、最初の何度目かは さしさわりのないありていな話しをしてきたが、ある時、「僕は以前ヒッピーだったんです。それでインドに住んでいたんです」と仰った。
そして、「貴女はお仕事は何をなさっている方なのですか?」真っ直ぐに私に向いた。
「少し前まで画家をやっていましたが、今は何もやってません」と答えると、マスターは目を輝かせ、「そうでしたか!表現者でいらしたのですね!! 実は僕はインドから帰ってしばらくの間、音楽活動をしていたんです」
店の奥からシングルレコードを一枚取り出し、見せてくださった。
ジャケットには、マスターの顔のアップが、夕暮れのような色合いで写され、豊かな黒い瞳がこちらを見つめていた。

そのダイヤローグをきっかけに、マスターは真摯な態度で「表現者同志で語り合いましょう!」と、以降、店を訪れる度に、このテーマについてはどう解釈するか 等、話題を提供し、マスターは音楽の観点から、私は美術のそれから、理論的にかつ穏やかに論じ合った。 非常に実のある有意義な時間だった。

又 いつかのある日ーーー
ランチメニューが完売したのか、マスターがまかないを二人分作ってくださり、食べさせていただいたこともあった。
カシミール地方のカレーをマスター流にアレンジした というカレーだった。
噛む度にスパイスが弾け心地よく、プレーンヨーグルトが乗っているのも面白いな と思った。

それ以前の時代は日本でカレーというと、イギリス経由で入って来た洋食としてのカレーか、蕎麦屋か食堂のカレーか、家庭のカレーか、インド人が経営している本場モノのインドカレーかのいずれしか無かったが、日本人が直接インドに行き 日本人の舌に合う様にアレンジしたカレーというのは、この時代には、元ヒッピーが所々で営っていた喫茶店やカレー屋だけだったと 私は記憶している。
加えてこれは私の分析であるが、現在そこここのカフェで「ウチのオリジナルカレーです!」と推されているカレーの源流というのは、このアースホールのまかないカレーに代表される様な、元ヒッピーの作るカレーであったと 結論づけずにはおれない。

何ヶ月か後ーーー
私は国立のカクテルラウンジでアルバイトを始め 起きる時間が夕方になったので、アースホールから足が遠のいてしまった。

時は経ち、三十八才になった時ーーー
私は国立の街を離れることになった。
引っ越しの前、三、四ヶ月は再び何もしないでぶらぶらしている期間が出来たので、懐かしさと期待と諦めとを軽く握った拳に込め 国立駅北口・北東へのだらだら坂をのぼったが、あの白い建物は、跡形もなく無くなっていた。

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