虐待する親の心理 [毒母]

ここのところ一記事おきに 私や弟が虐待された過去を綴ってきましたが、今回は、「何故、母親は 自分の産んだ子供でありながらも虐待していたのか」を、虐待された側から 少し客観的に 分析・考察しようと思います。
----なお、これは私の母親一人を 観察・分析した末の私なりの答えであり、多数の統計をとった結果ではありません。
けれど、私のこの考察が、「一体 何故?」と首を傾げているかたや 行政の虐待防止対策担当のかたの参考に少しでもなれば・・・・・と思います。

何故、実の子を虐待するのか----?
端的に一言で言い切ると、「常軌を逸してエゴイズムが強いから」 です。
常軌を逸してエゴイズムの強い人間というのは、まともに考えると200%本人が悪いに決まっていることを、呆れ返るようなおかしな理屈をつけて、周囲の人間が悪くてその為に自分がこうなった、自分は被害者だ、と考えます。
例えば----
盗み癖の治せない人は、「充分な給料をくれない会社が悪いから 自分が盗みをしなければならない心に追い込まれた」とか 「盗まれても仕方のないような陳列をしていて 盗みをしたくなるような気持ちをあおりたてた店が悪い」などと。

実子を虐待する母親の心理構造も同じです。
「産みたくもないのに勝手に産まれてきやがった。(本当は、恋人でもなかった父と だらしのない快楽の末の妊娠をきっかけに 父を一人占めする手段として勝手に一人で産んだ) この子が産まれた為に 自分はそれまでのように遊びまわれなくなり 女としての肉体の魅力も激減してしまった。 だから、こんな状態にした子供が悪い。 この子が加害者で自分は被害者だ。 よって、被害者は加害者を苦しめる必要がある。 自分にこんなに苦しい思いをさせておいて 加害者が幸せになるなんて許せない。 被害者は加害者を 売ろうが殺そうが自由な権利がある」 という理屈です。
つまり、自分が産んだからこそ よけいに憎いのです。

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常識のある人が聞くと、「何おかしな理屈こねてるんだ?」と 開いた口がふさがらない理不尽な理屈ですが、言っている本人は いたって真剣なのです。 世間や法律のほうが間違っていると言い張りゆずらないのです。
----そう、常軌を逸してエゴイズムの強い人間というのは、精神が「まともな大人」ではないのです。
本来なら、社会の中に野放しにされていてはいけないのです。

かりに、やらかすことが先に挙げた「盗み」のような類のものであれば、すぐに社会から隔離された環境におかれます。
しかし、実子の虐待というのは、家庭という閉ざされた空間の中で行われ、みなさんもご存じの通り、親の子に対する虐待が表面化してきたのは ほんのごく最近のことで、私(1962年生まれ)の子供の頃は「スパルタ教育」という隠れ蓑の元に やりたい放題でした。

子供の側も、中学生くらいになれば疑問を感じてきますが、小学生くらいまでのまだ小さい頃は、世の中を俯瞰などできる筈もなく、「自分の家庭が当たり前で親の発言が正しい」と 刷り込まれてしまうのです。
虐待されずに育ったみなさんの中にも、小学生くらいまでは、親が、「ウチは普通だ」と言っていた為に、「何もかも自分の家庭が普通だ」 と思っていたかた、少なくないのではないでしょうか?

それと同じように、虐待されている子供も、「親の言っている・やっていることが正しくて 悪いのは自分だ」と思ってしまうのです。
だから、どれほど辛くとも 殺されかけようとも、親戚や児童相談所に逃げ込もう という発想はつゆ起こらないのです。
そういった理由もあり、常軌を逸したエゴイズムの強い人間のやらかすことが実子の虐待である場合は、今でも表面化しずらいのです。

この時点で 多くのみなさんは、「なんでまた常軌を逸したエゴイズムの強い人間というのが出現してしまうのだろう? そういう人間は、どういう生まれ育ちをしたのだろう?」と 不思議に思われているのではないかと察します。
----あくまで、私の母親の場合ですが・・・・
母親は、7人だか8人兄弟の末っ子で、何でも特別扱いで わがままし放題に甘やかされて育ったそうです。
それで、幼児の状態で精神の成長が止まり、そのまま年だけ取ってしまったものと思われます。

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通常は成長をしてゆく過程で、自分が我慢しなければならない忍耐力や 相手を思いやる感情を学習し、社会に適応してゆきます。
しかし、常軌を逸してエゴイズムの強い人間というのは、精神レベルが幼児のままですから、周囲の都合や気持ちなど何一つとして考えずに、幼児さながらに 泣きわめいたり癇癪を起したりし、最も身近にいる弱者(子供)を サンドバックがわりに殴りつけ 負のエネルギーを発散させます。
まるで幼児と同じで、自己抑制がきかなくなってしまうのです。

あまりの大きな負のエネルギーの為に、手指の関節は硬直して曲らなくなり 膝もつっぱって曲がらなくなり  目は釣り上り充血し 奇声を発し 自分の気持ちがスッキリするまで---およそ2時間くらい---子供を殴り続けます。
そして知能は低いわけではないので、自分を都合よく正当化する理由づけが、思考回路の中でできあがってしまうのです。
だから、「産みたくもないのに云々・・・・」というおかしな理屈は、本人は気づいていないけれど、後付けの理屈なのです。
末っ子でわがまま放題に育てられた人が全員 こういう人間になるとは限らないのでしょうけれど、私の解かる範囲で 母親に関して思い当たる理由はこんなところです。

常軌を逸してエゴイズムの強い人間は、つまりは自分が幼児で自分の面倒すら見られないのですから、子供の面倒を見られるわけがありません。
そういう人間に対しては いくら「子供さんを可愛がってあげましょう!」「子供を虐待してはいけません!」などと声掛けしたところで 焼け石に水なのです。
子供と引き離して生活させるのが 最良の手段なのです。

以上、「何故、母親は実子を虐待するのか」を 私の母親のケースで分析・考察しましたが、質問・疑問をお持ちのかたいらっしゃいましたら、お答えできる限りお答えします。
この記事が、世の中から 虐待される子供が一人でも減るきっかけの一つになってくれたら幸いです。
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春キャベツ [写真]

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みなさんが様々な春の花の写真を公開されているので、あっしも何か春らしい一枚を撮ってみたくなりやした。
で、あっしは街なかばかりをうろうろしているために、こんなものが目に留まりやした。
八百屋の店頭にころがっていた春キャベツでやす。
白黒のハイコントラストで、ドキュメンタリータッチに仕上げてみやした。
売れて一個分 空間になっているところが、変化がついてくれて画になるな と思いやした。

キャベツ・・・・・昔は買うと よく青虫が中から出てきやしたね。
現在ではまず そういうことはないでやすね。
あっしは極端な自然派志向提唱者ではないんでやすが、「別にキャベツから青虫出てきたっていいじゃない。 他の野菜だって虫喰いでいいじゃない。 それより農薬少なくしてくれるほうが安心して食べることが出来るよ」と思ってしまいやす。
みなさんは どうお考えでやすか?


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母親が弟を見殺しにしようとした一件 [毒母]

私が18才の時、父と母は離婚し、父は複数人囲っていた愛人さんの一人を本妻にした。
母が言うには、以降 父からは一銭も金をもらわないから という理由で、私に 画家をやって月々100万稼いで生活費として入れろ!と要求をしてきた。 それが当たり前の親孝行だ----と。
虐待されて育った私は疑問を感じながらも、とても月100万は稼げなかったが、画家になり 眠る時間も食べる時間も削って 母に渡せるかぎり金を渡し続けていた。

ところが、私が26才になった時、母は父から サラリーマンの人が稼ぐくらいの金額のお金を月々送ってもらっていたことが判明した。 のみならず、父は私にもまとまったお金をくれており、それを母は私に秘密でがめていたことも判った。
それで私は、自分がやっていることがあまりにも馬鹿馬鹿しいとハッキリと認識し、画家の仕事を大幅に減らし、稼いだ金は、その間行きたくてもがまんして行かなかった 原宿やライヴハウスやカフェバーに行き 遊び使うことにした。
もうこれからは、母親に殴られたら殴り返してやろう! 金をうばわれたらうばい返してやろう! 父が私にくれた金も全額取り戻してやろう!  そして、画家の仕事にキリがついたところで画家を辞め、家を出て一人でアパート住まいをしよう! と決意した。

すると母は、私を隣町のソープに、「18才過ぎた娘がいるから買い取ってくれ」と交渉に行ったらしいが、そんな阿呆な交渉はソープの店員が相手にする筈もなく、家に帰ってさんざん癇癪を起し、今度は「月々100万稼いでアタシを左団扇させろ! それが当たり前の親孝行だ!」の矛先を 私の4才年下の弟に向けた。

弟はその時、大学生だった。
行きたくて行きたくて二浪までしてやっと入った 語学の大学だった。
弟は私のようには虐待されずに育ったからか 母親のことが大好きで、小さい頃からいつも必死に 母親のご機嫌取りをしていたので、月々100万稼いで母に渡す ということに挑戦し、なんと!それをやってのけたのだった。
塾の講師と道路工事とホストのバイトを掛け持ちでやって。
大学のほうは、授業に出る時間も授業料を払う余裕もなくなり 辞めてしまった。
毎日 朝早く家を出、夜更けに帰ったり あるいは一晩中帰らないこともしばしばになり、私は全く弟の顔を見なくなった。
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そんなさなか----
私は画家を辞めるタイミングが掴めたので辞め、父からの金の一部を元手に アパートで一人住まいを始めた。
それを知った父は、私に月々 生活費を送ってくれることになった。
母は、父が直接 私の口座に振り込むのを許さず、一旦 母に送り、自分が私のアパートに現金で持って行く と言い張りゆずらないので そうすることとなった。
再び私に対し なんだかんだ言いたい為にその方法をとったのは見え見えだった。

月々、母は、父からの金を持って 私の住むアパートにやってきた。
予想外に おとなしく金を渡し おとなしく帰って行った。
それが何カ月かくり返されたある月、やってきた母はこう言った。
「おめぇ、しばらくアタシをここに泊めておくれよ。 ○○(弟の名)は、バイトも全部やめちまって 金も入れなくなって、体重が38キロになっちまったんだよ。(身長は176センチもある) 家から出られる体力もなくなっちまったんだよ。 それでアタシに三度三度 手料理を作れって言うようになっちまったんだよ。 アタシの手料理じゃないと食わないんだよ。 作らないでいると、アタシを殴ったり包丁向けて脅して『作れ!』って言うんだよ。 アタシゃ 料理なんか作るの嫌なんだよ。あの子の面倒見るのなんか嫌なんだよ。 よぅ、おめぇ、何週間か ここに泊めておくれよ。 そしたらあの子はそのまま飢え死にするから。 現金も貯金通帳も全部持ってきてて 家には一銭も置かないで来たんだから」
それまで 私には向けたことのない猫撫で声を出した。
弟はどうやら、張りつめていた糸が プツン!と切れてしまったらしかった。
心身共に限界に達し、心の奥底にあった願望が噴出したらしかった。

母は、私達一家が福岡に住んでいた頃は、近所に レストランも食堂もファーストフード店もなく 私も小さかったので、嫌々ながらも家で母が作るしかなく 作っていた。
しかし、国立に越してきてからは、レストランも蕎麦屋も中華屋もマックもケンタも弁当屋もあったので、全くと言っていいほど 料理を作らなくなった。
家で作る時は、母の命令で小学生の私が作ったり、家族各々が 紀ノ国屋のステーキを焼くくらいだった。
私は福岡の記憶は充分にあり、母の作る料理がどれほどいいかげんで手抜きで不味いか解かっていたので もう母の手料理はこりごりだと思っていたが、弟は幼すぎて福岡の記憶が殆どなく、つまり 母の手料理の味を知らずに育ったので それを強く欲したらしかった。

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私が思わず、「飢え死にさせるなんて ○○(弟の名)がかわいそうだ!!」と叫ぶと、母は 事もなげにこう吐いた。
「何言ってるんだい!アタシが産んだんだよ。 アタシが産んだんだから 売ろうが殺そうが自由じゃないか!」
私は この人間と 理論的会話が通じないことは火を見るより明らかだと思い知っていたので、とにかく部屋には入れずに金だけふんだくり、「帰れ!」と 怒鳴った。
「帰れ!」「泊めてくれよぅ」「帰れ!」「泊めてくれよぅ」「帰れ!」「泊めてくれよぅ」・・・・・・
長い押し問答の末、ようやっと母は、トボトボと帰って行った。

アパートへはもう金を持って来なくなるだろう・・・・と思っていたら、翌月 来た。 その翌月も、そのまた翌月も。
おとなしく金を手渡し おとなしく帰って行った。
が、母の顔は一ト月毎に 不健康にやつれ 痩せていっていた。
どうやら、弟に殴られ包丁を突き付けられ、嫌々仕方なく 大嫌いな料理作りをしているようだった。

それからほどなくして----
「母、くも膜下出血でキトク」という知らせが入った。
そして脳死状態を経て、ちょうど一ト月後に心臓死に至った。 52才だった。
弟は痩せこけてフラフラではあったが、外出できるくらいには体力は回復していた。
母の死を看取るや、弟はどこかへ消えてしまい、通夜にも葬式にも現れなかった。

葬式が済んで何日か後----
弟は浮浪者のようなボロボロのなりで帰ってきた。
4度 自殺を試みたが死にきれなかった、と言った。
病院の先生が、くも膜下出血の原因はストレスも大きいって説明していたから、ママが死んだのは僕のせいに違いない。 だから 僕も生きてるわけにはいかないと思った----と。

それから----
長い長い時間をかけて、弟は、心と身体の健康を取り戻していった。

今回の記事、大変 長くなってしまいましたが、読んでくださりありがとうございます。 
読んでくださったみなさま、心より感謝します。

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西荻窪にある喫茶店「物豆奇」の柱時計 [写真]

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あっしの地元・西荻窪にある物豆奇(ものずき)という喫茶店の柱時計。
古い喫茶店の多く遺る西荻窪の中でも あっしが特に好きな喫茶店の一つでやす。
店の中を動き回って撮るのは失礼なのでしやせんが、ちょうど座った椅子から見上げたアングルがベストだったので、撮らせていただきやした。
一見、うっすらとセピアのトーンをかけたように見えやすが、この写真は何んにも加工をしてやせん。
お店の中 全体が、良い感じにセピアがかってるんでやす。
また、偶然にピントが合いすぎなかったことも このモチーフのイメージにしっくりきてくれてラッキーでやした。

この物豆奇という喫茶店、喫茶店マニアならみな知っている情報でやすが、今は亡き国立・邪宗門のいとこ的存在にあたる店でやす。
メニューや内装は違っても、同じ邪宗門と名乗れ 兄弟的店舗として出店できたのは、元船乗りで手品師だった国立・邪宗門のマスター・名和さんから手品を教わり 手品が出来るようになった人だけでやした。
でも、この店のマスターは、名和さんとつながりこそあったものの手品師ではなく、しかし、店の設計は石打の邪宗門の設計者がしていたり、店内にたくさんの柱時計やランプの下がる装飾は、国立・邪宗門を倣ったものでやす。
なので、いとこ的存在の店舗なのでやす。

名和さんも亡くなり、他の邪宗門も 店主高齢化などの理由で次々と消えてゆく中、この物豆奇はマスターがまだお若いので、今後も存在し続けてくれそうでやす。
「時間がゆっくりと流れてゆく・・・・」 そんな形容のぴったりな魅力溢れるお店なので、みなさん、西荻窪にお越しの際は、是非ともお寄りくださいやせ。


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母親に受けた暴力以外の虐待 [毒母]

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私は過去記事にて、母親に虐待をされて育ったことを幾度となく綴ってきたが、今回は、暴力以外に受けた虐待について吐露しようと思う。
暴力以外の虐待-----
それは、一日中、トイレに行かせてもらえなかったことである。

我が家は、私が小さい頃から 旅行などで遠出をする時は、たいてい車移動だった。
当然、道中、ドライブインやガソリンスタンドなどに寄り、普通はそこで用を足す。
しかし、父や弟や母親自身が、自分が行きたいタイミングでトイレに立っていたのに、私だけは母親に 行くことを禁じられていたのだ。
「食事の前や途中で 女がトイレに立つのはみっともねぇー」 という理由をつけられて。
食事が終わって 又はガソリンスタンドで行こうとすると、母は、「時間がないーーっ! 早く車を出せーーっ!」と 父に命令し、母に言われるままの父は、「わかったよ」と 車を走らせるのだった。
私が、「ママは行きたい時にトイレに行ってるじゃない」と言うと、「なんだとー! おめーは親に口ごたえすんのかーっ! この親不孝者がーーーっっっ!!」と 殴りかかってくるのだった。
私がトイレを我慢して苦しんでいるのを見て、母親はいつも 愉快きわまりないといった様子で ゲラゲラと笑い転げていた。

そんな苦しい旅行が何度かあった後----
下腹部が痛み 排尿するとツーーンと全身に激痛が走り 残尿感があり いつもトイレに行きたい感じ-----そんな症状が出現した。
病院へ行くと「膀胱炎です」と診断された。
トイレを我慢しすぎたことが原因だった。 小学2年の時だった。
病院で処方された抗生物質を飲むと 一週間で治ったが、母親は こう吐いた。
「膀胱炎くらいで病院行くんじゃねーよ!この根性なしめがっ! こっちは おめーに妊娠させられて子育てさせられてんだよ! 妊娠すんのは死ぬほど辛くて 子育てすんのは死ぬより辛いんだよ! おめーはアタシにそれをさせてんだろーがっ! アタシの苦しみに比べたら おめーの膀胱炎なんて屁でもないだろーがっっっ!!」
----妊娠させたのは私じゃないのに・・・・・

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その後も旅行の度に、私はトイレに行かせてもらえず、その度に膀胱炎を発症し、その度に先の暴言を浴びせられた。
家族旅行は私が小学6年まで続いていた我が家の行事だったので、トイレに行かせてもらえない苦しみも 母親のゲラゲラ笑いも その後の膀胱炎も 暴言も、毎度のこととしてくり返えされた。

私が中学に入ると、家族旅行の行事はなくなった。
よって、トイレに行かせてもらえない苦しみからは解放された。
が----
膀胱炎は、何度かくり返して発症していると ちょっとのことでも発症しやすくなる病気なので、私はすっかり 膀胱炎を発症しやすい体質になってしまっていた。
少し疲れがたまったり 水分を摂れない時間が続いたり 3時間ほどトイレに行けなかったりするだけで。
その度に病院に行き抗生物質を貰っていたが、くり返す毎になかなか治らなくなり、小学生の頃は一週間で完治していたのが、そのうち二か月間抗生物質を飲み続けなければ治らなくなり、完治したと思ったらその三日後に 再び発症したりするようになった。
膀胱炎になっていない時のほうが圧倒的に稀な日々になってしまった。

疲れをためない こまめに多めに水分を摂る 出来るだけひんぱんにトイレに立つ、この 医者からの「膀胱炎になりづらい体質になる為の注意事項」を守り続け、私はようやっと、40代後半で 膀胱炎体質とおさらば出来た。

母親にされた理不尽な理由の暴力の痛さも忘れることが出来ないが、この トイレに行かせてもらえなかった苦しみや、母親がそれを大口開けて笑っていた醜い顔も 一生 忘れることが出来ない。

----一つ写真記事を挟んで、3月23日は、母親が弟を見殺しにしようとした一件を公開しようと思う。
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タグ:虐待 膀胱炎
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高野フルーツのディスプレイ [写真]

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新宿駅東口、タカノフルーツ本店の ぶどうを模したと思われるディスプレイ。
元は、左右にも上部にも豪勢に広がるディスプレイでやしたが、中心部分だけを切り取る形で撮りやした。
加工は一切してやせん。撮ったそのまんまでやす。
なのでこの写真は、あっしの実力ではなく、ディスプレイを作ったデザイナーさんの力でやすね。

タカノフルーツには、中学高校の学校帰りに しばしば寄ってやした。
母親が料理を作らない人だったので、放課後、外で夕飯を食べてから家に帰っていたのでやすが、学校から新宿には出やすく、新宿のレストランで食事をして デザート&コーヒーをタカノで、というのはよくやっていたパターンでやした。
あの頃はいろんなフルーツが好きだったのでやすが、年を取るにつれてどんどん甘い物が好きじゃなくなり、最近では、さっぱりとしたスイカと梨くらいしか食べたいと思わなくなってしまいやした。それも、年に一度 口にすれば充分かなって。
みなさんは、今もフルーツ、お好きでやすか?


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福岡県民は何かというと「がめ煮」 [料理・ソフトドリンクス]

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ここのところ一記事おきに 幼少時に福岡に住んでいた事にまつわる話を書いてきて 連鎖的にあれこれ思ひ出したので、福岡ネタをもう一つだけ綴ろうと思う。
福岡に住んでいた頃に何かというと食べていた おかずの話である。
「あっ!めんたいこでしょ!」と叫んだそこのアナタ、残念! はずれ~
私は、めんたいこは、殆ど口にした憶えがない。
何かというと食べていたのは、「がめ煮」である。
が・・・・・め・・・・・煮!

がめ煮というのは、一体どういうおかずかというと----
他地域でいうところの「筑前煮」である。
このネーミングは、福岡県は昔、筑前の国 筑後の国 と呼ばれていたので、その「筑前」に由来する。
がめ煮という福岡県民の呼び方は、ごったまぜにすることを福岡弁で「がめくりあう」と言う その「がめ」からである。
しかし、福岡に住み がめ煮を食べていた者からすると、筑前煮とがめ煮は 意地でもイコールで結べないものがある。
具材は同じであっても、味付けの具合がはなはだ違うのだ。
先ず、九州は醤油が甘く、がめ煮は、その甘い醤油で以って甘ったる~く作るのだ。
他地域で作られる筑前煮のように しょっぱくないのだ。
私はちょうど 味覚形成期にあたる3才から9才を福岡に過ごしたので、がめ煮の甘さを最も美味に感じ、自分基準だと「ちょうど良いしょっぱさ」であり、筑前煮はしょっぱ過ぎてとても食べられたものではなく、ちゃぶ台返しをしたくなるほどである。

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福岡に住んでいた頃、がめ煮は、それはもうしょっちゅう頬張っていた。
正月のおせちの重の一つとして 幼稚園や小学校の入園・入学祝いに 七五三の祝いに 遠足や運動会の弁当に、その他、何でもない日のおかずの一品として・・・・・・
群馬県出身の私の母親は 料理が大嫌いでまともな料理を作れない人だったが、唯一 がめ煮作りだけは、久留米のばあちゃん(父の母親)に ピシャリーッと仕込まれたようだった。
----否、もしかしたら あれは、ばあちゃん自身がうちに来る度に作ってくれていたのかも知れない。

がめ煮は、我が家や父の実家だけでなく 福岡県民であればどの家庭も うちと同じくらいの頻度で、ハレの日もケの日も食べていた 福岡県民の県民食だったように思う。
それは、がめ煮を好きじゃない者や がめ煮を作れない女は、福岡県民の住民票から削除されるくらいの勢いだったように記憶している。

けれど-----
考えてみると、私が福岡に居たのは、かれこれ50年も昔のことだ。
コンビニやファミレスや大手牛丼屋が全国展開する様になって久しく、外で働く主婦が多数派になった今、がめ煮はどのくらい食べられているのだろう?
がめ煮を食べる文化自体、福岡に遺っているのだろうか?
福岡にはたったの6年間しか住んでいなかったけれど、がめ煮が懐かしの味である私としては、少しだけ気になる。
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ブルーのネオン管 [写真]

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もう何年も前に 裏原宿のメンズショップのディスプレイとして光っていたネオン管を撮ったものでやす。
ネガ加工したものは過去に公開したので、今回は撮ってそのままの写真をアップしやす。
何のひねりもない写真でやすが、こちらもそれなりに綺麗で成立しているので。

原宿・・・・・表は勿論 裏までも、もうすっかり観光客が押し寄せる大観光地になって 久しくなってしまいやしたね。
個性も何もあったもんじゃない。
こんなになってしまったら、街の魅力ゼロでやすね。
やはり街っていうのは、そこにしかない個性がなくっちゃ。
最近は、吉祥寺がそれに倣うように終わりかけているのを実感してやす。
観光客相手の店が増え、ドンキホーテが出来、バウスシアターがなくなり その跡地がラウンドワンになってしまって・・・・・・・
だから、あっしんちから吉祥寺までは歩いて20分でやすが、よほど吉祥寺でないと済まない用事がない限り 行かなくなってしまいやした。
街は生き物だから、これも仕方のないことかも知れやせんが。


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じいちゃんの久留米弁 [福岡時代]

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ここのところ一記事おきに「小さい頃は福岡に住んでいた」と書いてきたので、その関連話をもう一つ----。
じいちゃんの思ひ出話をしようと思う。

私が3才から9才まで住んでいたのは、福岡県春日市で、そこに6年間住んだ理由は、父の実家が在る久留米市から そう遠くなかったからだ。
ばあちゃんは私を猫っ可愛がりしてくれ、しょっちゅう春日郡の私の家まで遊びに来ていた。
けれど じいちゃんは、一度も来たことはなかった。
小さな子供があまり好きではなかった というのも一つにはあっただろう。
けれどそれ以前に、歩行が非常に困難だったために 殆ど久留米の家から出られなかったらしい。
父の話によると、なんでも両足の裏一面にビッシリと隙間なくウオノメが出来、それが何年間も治らず、地を踏むだけで強い痛みが走っていた ということだった。

父に連れられ久留米の家に行くと、ずんぐりとしたハゲ頭のじいちゃんは、彫り置かれた石仏のように いつも居間の同じ椅子に ジッと腰かけていた。
便所にでも行くのか まれに立ちあがって居間から出る時は、それこそ薄氷を踏むが如く そろり・・・・・そろり・・・・・と歩をすすめていた。

そんなじいちゃんも、時々は、おかっぱ頭の私を見おろして話かけてくれた。
しかし----
じいちゃんの話す言葉は生粋の久留米弁だったので、何を言っているのかまるで外国語のようで サッパリ解からなかった。
父やばあちゃんや私と同世代のいとこ達の久留米弁は、難なく解かったのだが。
今でも私は、父 ばあちゃん いとこ達の使っていた久留米弁を、話すことこそ出来ないが、聞けばほぼ100パーセントに近い確率で理解が出来る。
ばあちゃんはよく しゃがみこんで、「ぼんぼちちゃ~ん」「ぼんぼちちゃ~~ん」と頬ずりしてくれたが、じいちゃんと触れあったことはなく、言葉の距離も縮まらぬままに了ってしまった。

時代がくだるにつれて どこの地方でも年々、生粋の方言を使う人間が少なくなりつつあり、年配者の話す言葉をその土地に生まれた若者ですら理解不能になってきている と聞く。

これも時代の流れで必然のなりゆきかもしれないが、方言というのは その土地土地の貴重な文化なので、若干 寂しさを覚えずにはおれない。

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二つの金属の塊 [写真]

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道の端に転がっていた 何に使われていたか解からない金属の塊二つ。
最初は、白黒加工でコントラストを強めて仕上がりにしようかな・・・・・と考えていたのでやすが、ここは赤のトーンをかけたほうが よりモチーフのイメージを強調できるぞ!と改め、こう決定しやした。
抽象画を製作するに近い感覚で加工をすすめた あっしなりに気に入っている一枚でやす。

あっしは今でも、こういった物に目が行くくらい 金属がむしょうに好きなのでやすが、これは幼少の頃からでやした。
金属の質感というものに 理屈抜きに惹かれてやした。
だから、欲しかったおもちゃも、お人形やぬいぐるみではなく ブリキのおもちゃでやした。
猫くらいの大きさのブリキのバスを買ってもらい、「バスちゃん」と名付けて母親のシミーズを着せて遊んでやした。
金属の質感とツルツルした薄手の布の質感のコントラストが何とも言えずに 心地良かったでやす。

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