九段下・昭和館にて  [独り言]

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ふらりと 九段下・昭和館へ----

主に、昭和十年あたりから昭和三十五年あたりまでの、第二次大戦を中心とした国内の状況とそこに生きる人々の暮らしの 物品・映像による展示を、コツコツと 一人見学する。
課外授業なのであろう、どこかの小学生達が、しゃがみこんでノオトを録っていたり パタパタと走りぬけたりする。

そういえば----
昭和九年生まれの母親は、よく 口の端を歪めて 戦時の話をしていたっけ。
「草の粥食べてると、隣の百姓が『へぇ、それは山羊の餌ですかい?』って、ここぞとばかりにイヤミを言いに来るんだよ、けっ! 普段は(大工の)こっちが『どん百姓!どん百姓!』って馬鹿にしてたのにっ!」
「空襲で前橋の街が 真っ赤ぁーに燃えるのが綺麗だったよー。  空襲っていうと、(赤城山の)うちの表に出ていって『綺麗だーー』って 見おろしたもんだよ。」
「玉音放送聞いたときは、くっやしくってくっやしくってわんわん泣いたよ。 あんなにくやしかったことはなかったね。 『日本が負ける筈なんてない!』って信じてたからね。 『天皇陛下が人間なんて嘘だーーっ!!』ってね。」

そして---- 
「もはや戦後ではない」と謳われた昭和三十年代後半、私は生まれ、米軍の基地のある福岡のとある街で、アメリカ文化を細胞のひとつひとつに染み込ませながら それを世界のすべてとして 育った。

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柴犬

時間と共に色薄れて行く事実。
子供の頃、大事にしていた愛犬の写真の様に。

三人の子供達、それぞれ海軍艦艇から名前を頂戴しました。
その願いに近い意も話してあります。
by 柴犬 (2013-12-03 17:51) 

ackylacky

戦争の頃について意見を書くと、感情的な反論が帰ってくることが多いので避けてますが一言。
結局、歴史は勝者が勝手に作るものなのでしょうね。ですからアメリカに言われるのはしょうがなかったと思います。
しかし、負けてもいない相手や戦ったわけでもない国が勝者顔するのは腹立たしいです。
by ackylacky (2013-12-03 20:11) 

ぼんぼちぼちぼち

柴犬さん

どんなに重大な事実も 時とともに 少しづつ 少しづつ薄れてゆきやすね・・・。
風化させないためにも、今回あっしが訪れた昭和館は、有意義な施設だと思いやす。

そうでやしたか。お子さん達三人に。
お子さん達はそれぞれ 自己紹介の度に 名前の由来を周りのみなさんに話しておられるのでやしょうね。
by ぼんぼちぼちぼち (2013-12-03 20:39) 

ぼんぼちぼちぼち

ackylacky さん

>戦争の頃について意見を書くと、感情的な反論が帰ってくることが多いので避けてますが・・・
解りやす。
あっしもこの記事をアップするにあたって とまどいが全くなかった訳ではないて゛やす。
でも、今回昭和館を見学し、そしてこのようなことがあっしの内を去来したことを、書かずにはおれやせんでやした。

一応 誤解のないように、ここで補足しやすが
あっしの母親が言った戦時の話、言っていたそのままを書いたのであり
あっしも同じように思ったということでは 決してありやせん。念のため。
by ぼんぼちぼちぼち (2013-12-03 21:19) 

ぐるにゃ

私の父母も、昭和10年、12年の生まれなので、
戦時中の話は、子供の頃に度々聞かされて育ってきました。
父は、玉音放送が聴きたいと、祖父に
(ラジオ放送が聞ける学校へ連れて行くよう)頼んだらしいのですが、
長男だけを連れて行くと言われて、
拗ねていたようです。
終戦後は、回りの大人たちの態度が180度変わったことに、
子供なりに憤りを感じていたのだとか。

体験した当事者でないと分からなかったり、また
同じ経験でも、人によって意味合いが違ってくることは
避けられないのかも知れませんネ。
だからこそ、歴史の編纂作業は、
科学的になされなければならない・・・と思いますが、
そこが一番、難しいのでしょうネ。
みんなで手をつないで輪になることは無理でも、
争い事にならないように、心がけたいものです。



by ぐるにゃ (2013-12-03 21:27) 

かずのこ

子供のころ、祖母から大阪方面の空が赤くなったていた話を聞きました。
それぞれの立場で苦難の時代を生きた人のことを忘れてはいけないと思います。
先週、靖国神社に行ってきました。

by かずのこ (2013-12-03 23:11) 

ぼんぼちぼちぼち

ぐるにゃさん

そうでやしたか。 ご両親、あっしの両親と同世代でおられたのでやすね。
そう、住んでいた地域などにもよるのでやしょう、 戦時の意識はそれぞれ大きく違ったようでやすね。

あっしの母親よりちょっと年の上の御婦人は、東京・多摩地域に住んでおられて
そのかたは、「贅沢はテキだ」なんて何よ!「贅沢はステキだ」って お友達とこっそり言ってたのよ
戦争が終わったときは、もう空襲に合わなくて済むのでほっ!として嬉しかったわ! 
と仰ってて
それまで母親の話ばかりを聞いていたあっしは、同じ時代を生きていた人でも こんなに意識が違うのかー と思いやした。

終戦後・・・・昨日までの神様は人間、昨日までの敵は神のごとき支配者・・・でやすもんね。
とまどった子供も少なくなかったでやしょうね。

あっしは、物理的にアメリカのものが手に入り易い街に暮らしていたのみならず 意識の中にも「アメリカの全てが偉い」と 植えつけられて育ちやした。
誰に植え付けられたかって?・・・玉音放送で悔し泣きした母親に。
要するに、自分らをうち負かした相手は、それはもう甚大な存在でなければアイデンティティーが保てない という心理だったのでやしょうね。
by ぼんぼちぼちぼち (2013-12-04 10:59) 

ぼんぼちぼちぼち

かずのこさん

東京のみならず大阪など 都市部は度重なる空襲の被害に合ったのでやすよね。

靖国神社、行かれやしたか。
靖国神社の中にも 展示施設がありやすね。
あと、もう少し神保町寄りのほうには しょうけい館も。
しょうけい館は未だ見学したことないので 近いうちに行ってみる予定でやす。

by ぼんぼちぼちぼち (2013-12-04 11:09) 

太陽の玉子

横浜空襲の日、逓信官吏練習所から住まいの横浜まで徒歩で帰った父。六郷橋で反対側から難を逃れてくる人たちの顏とその先で真っ赤に燃える空が忘れられないと語ってくれました。
疎開していた母は美智子皇后陛下と同い年だす。
by 太陽の玉子 (2013-12-04 12:02) 

ponnta1351

私はご母堂より3,4歳若いです。
池袋の家は周りが焼け野原になったのに残りました。

両親は幼い弟妹を連れて、知り合いを頼って東京の西に疎開しましたよ。
食べるものが無くて、サツマイモの蔓や大豆粕、穀物の殻のフスマなんて言う物も食べました。

敗戦の天皇陛下の声をラジオでききましたよ。
敗戦前の小学校校庭に奉安殿という物があって、天皇皇后陛下の写真が祀ってあったのでしょうか。

講堂には両陛下の写真が掲げられ、今思うと北朝鮮のキム親子の写真のようです。
そこに必ずお辞儀をするのが当たり前でした。
一杯思い出がありますが、打つのがたどたどしいので・・・。

戦争を知らない人間が居なくなりますね。 バカ政治家の中にも殆ど居ないでしょう。

 敵機のB29の飛来におびえた日々、今、毎日横田基地の爆音を聞いて生活しています。


by ponnta1351 (2013-12-04 15:28) 

多摩川音響

お母様の年齢がうちの母親と同じ・・・と思ったらぼちさん僕と同学年ですね(たぶん)。そして・・・僕も福岡なんですよ。ずーっと南のほうですが。
by 多摩川音響 (2013-12-04 22:57) 

にすけん

 昭和館、大好きで何度も行きました。図書室が案外アナ場で、いい本がたくさんありゆっくり過ごせます。
by にすけん (2013-12-05 08:58) 

ぼんぼちぼちぼち

太陽の玉子 さん

やはり真っ赤に燃える空が記憶に深く焼き付いている と話す体験者のかたは多いでやすね。
お父様、無事帰ってこられて何よりでやす。
そしてお母様、来年80歳になられるのでやすね。
ご長寿さんでやすねo(◎o◎)o
by ぼんぼちぼちぼち (2013-12-05 10:54) 

きんれん花

文を書いて 発表するには 皆さん 悩み戸惑い
苦労があるんですね いろいろな角度から 見て 考えて
分かってくれると 有難いと思っていますが 難しいですね
by きんれん花 (2013-12-05 11:20) 

ぼんぼちぼちぼち

ponnta1351さん

そうだったのでやすか・・・。貴重なお話 ありがとうございやす。
昭和館には、奉安殿、展示されていて 実物を初めて見やした。
話には、上のぐるにゃさんへのコメント返しの欄での 母親より少し年の上の御婦人からよく聞いていてやした。
あと、両陛下の写真に深深と礼をする話も。
ponnta1351さんは、日本の近現代史の中で最も激動の時代を越えて生きてこられているのでやすね。
そして今のパソコン時代にも順応されている・・・尊敬しやす。

福生の16号沿いには ときどき遊びに行きやす。
住んでた福岡の街とよく似ていて懐かしい気持ちになりやす。
あっしが住んでた頃はベトナム戦争さなかだったので 16号に相当する道を よく戦車が爆音轟かせて走ってやした。
by ぼんぼちぼちぼち (2013-12-05 11:21) 

johncomeback

僕の母は昭和10年生まれです。
戦争そのものの話は聞いたことがありませんが、
芋ばかり食べさせられて、今は食べたくないと言っていました。
by johncomeback (2013-12-05 13:26) 

ぼんぼちぼちぼち

多摩川音響 さん

あら、意外なところに共通点がありやしたね。
あっしは1962年の寅でやす(◎o◎)b
by ぼんぼちぼちぼち (2013-12-05 15:43) 

ぼんぼちぼちぼち

にすけんさん

図書室もあることを 今回入館して初めて知りやした。
次回は是非 図書室、利用してみようと思いやす(◎o◎)b
by ぼんぼちぼちぼち (2013-12-05 15:53) 

ぼんぼちぼちぼち

きんれん花さん

そうでやすね。
特にこういった話題は 発表するのにちょっと勇気がいりやすね。
でも、今回 昭和館に行き、大きく心を突き動かされ 
どうしても書かずにおれない気持ちになったので 思い切って記事にしやした(◎o◎)b
by ぼんぼちぼちぼち (2013-12-05 16:04) 

ぼんぼちぼちぼち

johncomeback さん

そういった理由で、芋、かぼちゃはもう見るのも嫌~という戦争体験者のかた 多いでやすね。
by ぼんぼちぼちぼち (2013-12-05 16:11) 

ちゅんちゅんちゅん

こんにちは!

母が一度だけ「すいとん」を作ったことがありました。
母自身は 幼かったので戦争の記憶はあまりなかったらしく
祖母に聞いて作ったようでした。
多分 母も初めて意識して口にしたすいとん、
もちろん 自分と弟も「初めて」で・・・
すいとんは とても「美味しい」と表現できるものではありませんでしたが
それを食べた祖母が
「こんなのは すいとんじゃない。美味しすぎる。」と。
「美味しすぎて どうしていけないの?」と
合点がいかなかったことを覚えています。
あのすいとんの味は もうぼやけてしまいましたが
そうさせてはいけない「昭和」を
自分なりに覚えていたいです。
by ちゅんちゅんちゅん (2013-12-06 17:49) 

ぼんぼちぼちぼち

ちゅんちゅんちゅんさん

おばあさまの発言、なんとなく解るような気がしやす。
すいとんも、肉や色んな野菜を入れたりして
ベースが、トン汁やけんちん汁のような感じのものになると かなり美味しくなって
だけど戦時に多くの人が食べていたものとはかけ離れたものになると思いやす。
あっしは個人的には、小麦粉を水でといて茹でたもっちりしたの 好きだったりしやす。
by ぼんぼちぼちぼち (2013-12-06 21:28) 

はなだ雲

写真は、三種の神器ですね
ぼんぼちさん、福岡ですか!私もですよ
年代も一緒です
米軍基地のあったところって・・板付かなぁ?
by はなだ雲 (2013-12-07 23:55) 

ぼんぼちぼちぼち

はなだ雲 さん

そうでやしたか! 親近感感じやすなぁ。
あっしは、春日市(当時は春日郡)でやした。
ハウスに住んでたので 物心ついて初めて知ったトイレが様式でやした。
アメリカ人用に高さもあったので、あっしはかなり大きくなるまで ウチではおまるでしてやした(◎o◎)b
by ぼんぼちぼちぼち (2013-12-08 09:52) 

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