芥川龍之介 「藪の中」  [感想文]

「藪の中」----- 言わずと知れた 芥川の代表作の一つ、今昔物語の中の一話を元に起こされた ある殺人事件に関わった者七人が 事件の真相をそれぞれ証言する という物語である。
小説全体は、能舞台を使っての朗読劇として上演される様が目に浮かぶような 鬼気迫る長台詞と 最小限に抑えたト書きで構成されている。

そして この小説の力点となっているのは、「七人の云っていることはみな、各々の話の中には矛盾は見えず 嘘を云っているふしは無い。 しかし、照らし合わせると どれも見事に食い違っている」 ということである。

この つじつまの合わなさについては様々な解釈がなされ、探偵小説の謎ときよろしく 「誰それの云っていることこそが真実だ」 「いやいや、こっちの人間だ」 といった追及も 後を絶たないようである。

やぶ2.jpgしかし 自分は、芥川は 「全員の証言が本当で それは全て食い違っている」 ということを提示しているのだと思う。
で あるから 言はむとしているところは、「不条理で 訳の解らない うす気味の悪い 奇妙なものこそが 世の中であり 人間なのだ」 である。
何故なら、全ての証言者の吐く真実味に 強弱の差違はつけられておらず、ト書きに於ける表情や動きにも ここで発している言葉は嘘かも知れぬ と想像させるものは どこにも無いからだ。

どうして、この作品は これ程 様々に解釈が分かれるのか------
それは、以下の理由によるものであろう。

例えば 絵画で------
やぶ3.jpg本物そっくりなリンゴが テーブルに置かれ それに相応しい影がつけられていたら、観る者は たいてい 「あぁ、この作者は リンゴの 赤さ 新鮮さ 美しさを表現したかったのだな」 と臆測する。
描き手の言はむとしていることも おおかた それである。
単なる赤い丸が ポンと宙に浮いていたとする。
と、多くの鑑賞者は 「赤い丸が浮いているなんて どこかに糸が描かれているのかな?」 とは思わない。
子供でもない限り 「はて、これは一体・・・燃える太陽? 熟れたリンゴ? つまりは 生命力を表現しているのかな」 等と 画布に描かれているその向こう側にある何かを 観むとする。
描き手も よほど変わった画家でない限り、向う側を言はむとしている場合が常である。

しかし、本物そっくりのリンゴが宙に浮いている状態が描かれていたら、観る者は カリリと歯を立てられそうな現実感と 地球の重力に合わない非現実の間に しばしば どういった視点で解釈して良いのか 混乱する。
こういう作品の場合、作者は どの場所に糸がついていたら この位置でリンゴが静止するかを解明してくれ という狙いの元には描いていない。
多くは、当たり前の現実と認識していたものが根底からくつがえるような奇妙な感覚を 観る者につきつけたいと もくろんでいたりするのである。

「藪の中」は、緻密に計算高く描き切られた「宙に浮かぶ 本物そっくりのリンゴ」である。 具体をモチーフとした 抽象表現作品である。
故に、多くの人を翻弄させるという側面を持ちつつも、この手法だからこそ成し得た達作である と 自分は思うのだ。

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太陽の玉子

ヒッチコックのハリーの災難は藪の中に似ているような気がします。
by 太陽の玉子 (2010-10-26 18:47) 

b.b.mk2

この解説にはシビれました
で、前頭葉を大いに刺激されました

あえて仕掛けに触れずリンゴは宙に浮いたままにしておく
あえて真実は藪の中に放ってしまう
なのに・・・ だから・・・
読み手が予期しない大きなテーマが浮かびあがる
愉快ですねぇ~♪

犯人を追及しようとする、りんごの浮遊の仕掛けを解こうとする人間心理を周到に揺さぶるところがミソですね。揺さぶれば揺さぶるほど結が愉快です ・・・ って、僕はこういう見方です。
by b.b.mk2 (2010-10-26 19:59) 

ぼんぼちぼちぼち

太陽の玉子さん

そうなんでやすか!
ハリーの災難 知らないので チェックしてみやす(◎o◎)b
by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-26 20:43) 

ぼんぼちぼちぼち

b.b.mk2 さん

お誉めいただき 恐縮でやす・ぺこりっ。

そう、リンゴが描いてあると その周囲も
我々が知っているリンゴに相応しい状況に違いない
と思うのが人間の心理でやす。

抽象モチーフを使った抽象作品よりも
具象をモチーフとした抽象作品のほうが より 鑑賞者を
ぐにゃりとした不思議な世界に巻き込んでしまうのは
そういった理由でやすね。
by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-26 20:58) 

そらへい

いくつかの真実と思われる事柄を
物語の衣装を借りて、表現するのが
芥川龍之介はうまかったのだと思います。
by そらへい (2010-10-26 21:44) 

ぼんぼちぼちぼち

そらへいさん

そうでやすね。
しかも この作品は、氏が30歳の時に発表されたものでやすね。
この老成した人間を観る目、三島由紀夫といい 氏といい
つくづく天才だと思いやすね。
by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-26 22:52) 

chunta

見たままを伝えても
5人いれば 5人が違う
真実はひとつだけど 表現は個々
お互いの見解と表現が違いますからね~
芥川の世界は 最後まで書くのじゃなく
搦め手で 「じんわり」ですね
by chunta (2010-10-27 01:01) 

hatumi30331

映画でもそうですが、観る人によって、感じ方はそれぞれです。
芥川作品は、それをよく分かった上で、書き上げられたんでしょうね。
それは、かなりの人、天才だと思います。
昔、すごく小さな本屋で、芥川や太宰、江戸川乱歩など、読みあさっていた頃を思い出しました。 若かった・・・・。
by hatumi30331 (2010-10-27 05:55) 

lamer

そうです。
描き手は・・・もくろんで描いているのです。
画面という自己の自由な宇宙空間の中で・・・。
by lamer (2010-10-27 10:27) 

ぼんぼちぼちぼち

chunta さん

そう、「このように、各々の証言は すべて食い違っているのであった」などと最後に説かないところが 
やはり 文学史に残る優れた文士の仕事だなぁと 思わず唸るところでやすね。
by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-27 21:18) 

ぼんぼちぼちぼち

hatumi30331 さん

芥川は、この作品のテーマは 万人には解釈できない と予測していたと思いやす。

一、二年前に オフ・ブロードウェイ出身の米国人演出家・ロバート・アラン・アッカーマン氏が この「藪の中」を元にした芝居「1945」を 作・演出してやした。(主演・高橋和也氏)

この芝居では、テーマが「人間とは 嘘をつくものである」と されていやした。
アッカーマン氏は 「藪の中」そのものののテーマを そう解釈したのか 自身が創る芝居に於いては そういうテーマでいこうと 原作より解釈したテーマから離れたのか あっしは 舞台中継を観ただけなので そこまでは解りやせんでやした。

これから その辺りについても調べてみたいと考えてやす。

by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-27 21:44) 

ぼんぼちぼちぼち

lamer さん

そう、創り手は 必ず どういうテーマなのか決めて創るものでやすね、そうでなければ 作品は成り立ちやせん。

ただ、鑑賞する側は 何を感じようが どう解釈しようが それは自由でやす。

そういう鑑賞者の立場のまま 創り手になろうとするのか、自身が何か創作をしようという時に
テーマを決めないで なんとなく創ればいいんだ と思う人がいやす。
それは大きな勘違いというものでやす。
テーマを解り易く提示しないということと
テーマを作者が認識していないということは
全く別でやすね。
by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-27 22:00) 

たいへー

私の場合、「井の中」のカエルでしょうなぁ・・・^^;
文学作品には、とんと縁の無いたいへーです。。。
by たいへー (2010-10-28 14:48) 

ナツパパ

なるほど、確かに。
芥川の場合、小説というより物語...もの語り、なんでしょうねえ。
わたしは、物語、大好きなんです。
by ナツパパ (2010-10-28 19:40) 

ぼんぼちぼちぼち

たいへーさん

そうでやすか。
あっしは、外国語や理系の分野に関しては
まるきし知識のないカエルでやすf(◎o◎)
by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-28 21:44) 

ぼんぼちぼちぼち

ナツパパさん

あぁ、「もの語り」という言い方 いいでやすね!
あっしの言葉の引き出しの一番上に
いつでも取り出せるように 入れさせていただきやした\(◎o◎)/
by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-28 21:53) 

みんこ

ご訪問&nice!ありがとうございます。
by みんこ (2010-10-28 23:11) 

ぼんぼちぼちぼち

みんこさん

こちらこそ ありがとーでやす。
by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-29 09:33) 

楓〇

藪の中は何回も読み返しています。
七人の話すことは、食い違いがあるけれど
一人の男が死んだ。
これだけは、厳然たる事実ですね。
これだけは、曲げられない真実。
そこが面白いと思います(^^)




by 楓〇 (2010-10-29 18:22) 

ぼんぼちぼちぼち

楓〇さん

実にそう思いやす。
これが、証言者によって 「逃げた」だの「死んだかどうか解らない」だのとなると
この小説の持つ力は弱くなってしまっていたと思いやす。

あっしは、芥川の作品は そう沢山読んだわけではないのでやすが
今まで読んだ氏の作品の中では これが一番好きでやす。
こういうテーマの提示の仕方が好きでやす。


by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-29 19:17) 

真夜中のひつじ

甲斐バンド、コメントありがとうございました。


by 真夜中のひつじ (2010-10-29 20:57) 

ぼんぼちぼちぼち

真夜中のひつじ さん

甲斐さん好きなので つい思いだしてしまいやした。
因みに今日は、カラオケで「ポップコーンをほおばって」の本人映像のを楽しんできやした♪
by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-29 21:09) 

akipon

とあるピカソ展を観に行った際のこと。
「バイオリン」というタイトルの絵の前で、ある老婦人が立ちつくしておりました。「どうやってもバイオリンには見えないわぁ・・・」
「あのヘンが糸巻きで、この辺が弦かしら・・・」なんて。
まぁ作者はピカソですから。なんかそんなことを思い出しました(笑)
by akipon (2010-10-29 22:03) 

ぼんぼちぼちぼち

akipon さん

あぁ、その老婦人の様子 目に浮かぶようでやす。
ピカソの場合、初期の作品を観て
「えっ! ピカソなのに何だか解る絵を描いてるーー」
と 驚く人も結構おられやすね(◎o◎)b
by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-30 09:56) 

春分

藪の中を読み、羅生門は観ましたが、細かいところは忘れました。
私は、真実は記述されることで確定し、いろんな形で確定するのだと思って
おりました。世の中には摂理があり、物理法則として理解するのも神様と
理解するのもありであるように。ともに真実の記述であるように。とか。
by 春分 (2010-10-30 20:05) 

ぼんぼちぼちぼち

春分さん

貴重なご意見ありがとうございやす。
そういったものの見方 あっしは今までしたことがなかったので
なるほど と 思いやした。
あっしの中では「神様と理解するもの」というのは まったく視野外だったので 
大きな発見をさせていただきやした。

by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-30 22:52) 

ハジナレフ

恥ずかしながら未読です。
これを機会にちょっと読んでみようと思います。
後にもう一度ぼんぼちぼちぼちさんの解説を読ませていただきますね。
by ハジナレフ (2010-10-30 23:46) 

ぼんぼちぼちぼち

ハジナレフさん

へい、読まれたら 是非 ハジナレフさんはどう思われたか 聞かせてくださいでやす(◎o◎)/
色んなかたの色んな考えを聞いてみたいでやす\(◎o◎)/
by ぼんぼちぼちぼち (2010-10-31 19:41) 

recchu

はい
そんなワケで、恥ずかしながら読んでまいりまいした<(_ _)>
小説は大好きですが、読書量無い模様^^;

感想
こんなに恐ろしい小説は 無いなぁ。ぞぞぞおお~~
ぼんぼちさんの記事を読まんでからの初読した飛び級でやっと僅かに掴む感想です。
”信実のりんご”があるとして
こんなにも、人によりねじ曲がってしまう
(ねじ曲げている気があってにせよないにせよ)
世の中、こういうもんさ。と
氏が云わんとしているのだとすれば

「藪の中」
読まなかったコトにいたします^^;^^;


by recchu (2010-11-02 23:50) 

ぼんぼちぼちぼち

recchu さん

あっしの記事を読んで 「藪の中」を読もうと思われたとは
嬉しい限りでやす。
あっしなりの感想でやすが、書いた甲斐があったというものでやす・ぺこりっ。
・・・そうでやすか、読まなかったことにしやすか・笑。
by ぼんぼちぼちぼち (2010-11-03 21:26) 

recchu

いえ
すみません
言葉足らずで^^;
うまく表現出来ないのですが
なんというか、悲しいというか、切ないというか
どれも真実になり得るのに、唯一の事実の前で真実は藪の中…
ニュースで起こる事件も、誰のどこを裁くというのか
偽善者なんでしょうか(-_-)
目を瞑りたくなってしまう(った)というわけです

食わなかったことに
見なかったことに
聴かなかったことに は
なかなか出来ないものですよね^^;
そんな浮遊するりんごみたいな感じです=感想。
いつも刺激をありがとうございます(^^)

by recchu (2010-11-03 22:12) 

ぼんぼちぼちぼち

recchu さん

そういう意味でやしたか、失礼しやした。
確かに 直視したくないものがありやすよね。

こちらこそ いつも読んでいただき また丁寧なコメントもくださり
ありがとーでやす・ぺこりっ。
by ぼんぼちぼちぼち (2010-11-04 11:09) 

kurakichi

遅れての書き込みで申し訳ないのですが 私の頭にまず浮かんだのはマグリッドとエッシャーの絵でした。
緻密に書き込まれた岩山が宙に浮かんでいる絵、滝から落ちた水の流れをたどっていくといつの間にかまた滝の上に戻ってしまう そんな絵を思い出しました。
細部においては何も齟齬が無いのですが 身を引いたり俯瞰で見るとつじつまが合わないのです。
実は現実社会もそんな構造していているのですが 近視眼的に日常生活であくせくしている私にはそのことがわからないのです。
芥川の藪の中や上記絵画における抽象表現で初めて私はそのことに気づくのです。
by kurakichi (2010-11-05 14:58) 

ぼんぼちぼちぼち

kurakichi さん

そうでやすそうでやす! 具体的に画家の名を挙げると
まさに マグリッドとエッシャーでやす。
両者はそれぞれ 岩が岩であるということや 水の流れの美しさを言いたい訳ではないでやすよね。

---そう、あっしらの多くは、この世が 人間が 不条理であることを
それらの表現者によって初めて気付かされやすね。

by ぼんぼちぼちぼち (2010-11-05 17:49) 

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